「嬢ちゃん、さっきのあの格好は何だったんだい?」
尾瀬が帰った後、清十郎はジェニーに疑問をぶつけた。
「格好って、このポーズのこと?」
ジェニーは両手を水平に上げて、「T」の字を作った。
「そうそう、それ。何のおまじないだい?」
「やあねえ。『
「あぁ、そうだったのか。おいらてっきりお笑い芸人の真似かと思ったよ」
仕訳とは複式簿記における「取引」の記録方法である。1つの取引を「
複式簿記を学ぶ者は必ず「T字勘定」を目にすることがある。Tの字の左型を借方に見立て、右側を貸方に見立てるのだ。勘定科目1つずつにTの字があり、それらをすべて総合したものが総勘定元帳と言われるものである。
天秤ばかりのように見えるTの字は、貸借を表わすのにぴったりなのだが、体でそれを真似るのはどうかと思う清十郎だった。
「オイラたちになら意味が通じるが、素人さんの前ではやらねェ方が良いんじゃねェか?」
清十郎は遠回しにジェニーに釘を刺そうとするが、それこそ糠に釘である。
「そしたら説明してあげるわよ。こっちが借方で、こっちが貸方ですってね」
ジェニーは広げた脇を指さして鼻をうごめかした。
(どっちがどっちでも良いんじゃねェか? 気にする奴はいねェだろうぜ)
「明日の朝は一旦事務所に来て、最後の確認をしてから出発しよう。羽田集合は11:30だからな。大分余裕があるぜ」
「そんなこと言って、清ちゃんに任せたら迷子になって間に合わなくなるわ。移動ルートは私が管理するから、ちゃんと言うことを聞いてね」
「へいへい。言う通りにするよ。とにかくせわしないのはごめんだ。余裕を持って行こうぜ」
あっちだ、こっちだと引きずり回されると清十郎はへとへとに消耗する。そもそも移動というものが性に合わないのだから仕方がない。その辺は長い付き合いのジェニーもわきまえていた。
「大丈夫よ。羽田ならモノレールですぐじゃない。1泊だから荷物だって少ないし」
3日後、朝から開かれる中間報告会に出るとなると、あさっての夜には東京に戻って資料を仕上げなければならない。徹夜でまとめて、3日目の朝一番に尾瀬のチームに提出しなければ間に合わない。
「弾丸出張にもほどがあるわね。特急料金じゃなくて、『超特急料金』を吹っかけてやればよかった」
いまさら言っても手遅れだが、ジェニーが悔しがる。
「物は考えようだ。どうせ仕事の量は変わらねェ。期間が短ェってことは、早く解放されるってことさ。中間報告会が終わったら打ち上げだぜ」
「そうね。そう考えなかったらやってられないわね」
亀の甲より年の劫。清十郎の処世の知恵に、ここは従うのがよさそうだとジェニーは不満を引っ込めた。
◆◆◆
「片桐さんですか?」
「片桐ジェニーです。こっちはパートナーの吉竹清十郎」
翌日、羽田で会った岩見にはジェニーが前に出て自己紹介をした。
先方の研究所に乗り込んだら、当然ながら大日本の人間である岩見がリーダーとしてふるまう。ジェニーと清十郎はこれをサポートする立場だ。通常、会社紹介の後、監査チーム内部の打ち合わせで分担や調査方針を決めることになる。その舵を取るのも岩見の役目であった。
だが、今回の場合はいつもとは勝手が違う。片桐事務所はシニアパートナーである尾瀬の特命エージェントであり、その意思は尊重することになっている。名目上のリーダーは岩見であるが、調査方針の決定権はジェニーの手にあった。
岩見は42歳のパートナーであった。目じりの笑い皺が目立つ、いかにも温厚な男性に見えた。
「岩見慎二です。今回はよろしくお願いします」
細かい話は先方についてからということで、3人は米子空港行きの国内線に搭乗した。
離陸してしまえば米子までのフライトはあっという間だった。隣の県に移動するくらいの気軽さで、降り立てばもう鳥取県である。
清十郎は座席につくや否や目を瞑って寝てしまったので、タッチダウンの瞬間まで一切記憶がない。いつでも、どこでも寝られるというのが、この男の特技であった。
「早かったな」
ロビーに出て、清十郎は1つ伸びをした。
「そうでしょうね。ずっと寝てたんだから」
「乗り物に乗る時は、寝ちまうに限るぜ。何かあったらそのままあの世に行けるからな」
「縁起でもないことを言わないでよ。すぐ眠れるのは羨ましいけど」
「日本が平和でよかったわ。海外なら狙い放題じゃない」
「最近じゃ日本も物騒だからな。さすがに一人の時は電車じゃ寝られなくなったよ」
むだ話をしている間に3人はタクシー乗り場に移動した。荷物は少ないので1台の車に乗り込み、グレート製薬基礎研究所の行先を告げる。
30分ほどでタクシーは研究所に到着した。小高い丘を上ったところにある敷地は思いのほか広く、車寄せもゆったりと大きかった。
「さすがは業界一か」
思わず清十郎の口から感心するつぶやきが漏れた。