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第10話 侵入者。

 帝国ホテルに入る前に、清十郎はスマホの電源を切った。今日はこれ以上大日本に振り回されるつもりはない。


(携帯なんてもんができてから、世の中が面倒くさくなりやがった)


 仕事では便利なものだが、踏み込んでほしくないところにずかずかと立ち入るぶしつけさは鬱陶しいことこの上ない。


(今日はもう店じまい・・・・だ。悪いがおいらは昼間からやるぜ・・・


「やるぜ」とは無論「酒」のことであったが、虎屋菓寮にアルコールのメニューはない。ジェニーがどら焼きと汁粉を楽しむ前で、清十郎は自分の分のどら焼きに手もつけず、緑茶だけ飲んでいた。


「食べないの、清ちゃん?」

「ああ、嬢ちゃんにやるぜ。おいらはけェってからでやる」

「それにしたって、どら焼きくらい……」

「どら焼きだけに甘ェぜ、お嬢。酒はベストの状態でらねェとな」


 清十郎にはわけのわからない矜持きょうじがあった。飲む前に甘味は厳禁なのだ。

 すべては最初の一口のために。


 その一口を想えば、この拷問のような時間も余裕で耐えられる。微笑みさえ浮かべることができる。


(嬢ちゃん、そろそろ良いんじゃねえか? 追加注文なんて考えてねェよな、まさか?)


 ジェニーは食後・・にあんみつを追加して、至福の時を過ごした。


「美味しかった~。ごちそうさま」

「そ、そうかい。そいつァ良かった」


 清十郎は落ち着いてお茶を一口飲んだ。飲んだつもりが、湯呑はとっくに空だった。


「それじゃァ、行くかい?」


 会計を済ませた清十郎の足は、いつもより早く動いて駅に向かった。


 ◆◆◆


 事務所ビルに帰り着くや、清十郎はジェニーに別れを告げた。


「嬢ちゃん、今日は早じまいにさせてもらうぜ。さすがに働こうってェ気が起きねェや。おいらは下で飲んでけェるからよ、嬢ちゃんもゆっくり休んでくれ」


 今日はげん直しだという清十郎に手を振って、ジェニーは自社ビルの階段を上った。健康に気を使っているわけではなく、エレベーターの狭い空間が苦手なのだ。清潔は保たれているはずだが、すえた匂いまで想像してしまう。


 4階に上がったジェニーは部屋に帰る途中事務所へ寄ろうとした。清十郎の分と合わせて2台のラップトップPCを片付けるためであった。

 セキュリティ上の理由で、業務用の機器を自宅に持ち込まぬよう2人は気を使っていた。


(ん? 匂い?)


 事務所のドアの前に立ったジェニーは、ふと違和感を感じた。清十郎と2人しか立ち入らない事務所から、「知らない匂い」が漂っている。

 片桐ジェニーは国家公認会計師である。常人にない能力を、資格と共に授かった人間だ。


 自分の感覚を疑うことはない。


 ここには何かの異変がある。それをジェニーは疑わなかった。


 鍵を使わず、ハンカチでドアノブを包んでそっと回す。すっと回った。

 掛けたはずの鍵が解錠されている。


(誰かいる!)


 相手はまだ自分に気づいていない。一旦この場を離れ、清十郎と合流し110番通報する。

 ジェニーの思考は違った。


(逃がさない!)


 相手を捕えることしか考えていなかった。この場を離れ、警察を呼ぶ数分の空白に賊は逃げてしまうかもしれない。それは許せなかった。


 父が残し、清十郎と共に守って来たこの事務所を無法に蹂躙じゅうりんするような輩を、黙って返すことはできない。


 ジェニーは鞄を外廊下に下ろし、身軽になって室内に入った。

 開ける時はともかく、締まる時にドアは音を立てる。いくら気を使ってもドアの掛け金が落ちる音は隠せない。


 ジェニーは気にせず進んだ。


 広くもない事務所である。賊の姿はすぐに目に入った。事務所用金庫の前にしゃがみ込んで、ダイヤル錠を回していた。

 目あきのニット帽で顔を隠した男は、グレーのスウェット上下を身に着け、スニーカーの上からポリ袋をかぶせて輪ゴムで留めていた。


 ダイヤル錠に集中しているのであろう。ジェニーには気がついていない。


 ジェニーは右手をスーツの内ポケットに差し込み、汎用会計伝票の束を引き出した。一枚目を指に挟み、後ろから男に声を掛けた。


「動くな! 国家公認会計師片桐ジェニーだ。家宅侵入の現行犯で逮捕する!」


 会計師に逮捕権はないが、これは私人逮捕だ。逮捕権を持たぬ民間人でも現行犯逮捕が許されるケースであった。

 左手には動画モードで録画をスタートしてあるスマホを賊に向けて構えている。


 ぎくんと、音がしそうなほど急な動きで賊が肩越しに振り向いた。

 賊とジェニーの目が、正面から向き合った。


「既に通報済み・・・・だ。逃げ場はないぞ!」


 ジェニーは賊を怒鳴りつけた。

 非日常的空間では声のデカい奴の意見が通る。これは法律や文化以前の事実である。


 はったりだろうと何だろうと、大きな声で怒鳴れば権威を持つ。ここは一時言霊が現実化する世界になっていた。


「ぐっ……。糞っ!」


 ジェニーがかけた呪縛から逃れるため、賊は己を叱咤した。

 これもまた理にかなった行動であった。心理的に追い詰められた時は、何でも良いから声を出すことが大切だ。


 賊は、体の自由を取り戻した。


「ふん。あばよ!」


 男は傍らの鞄をひっつかむと、わき目も振らずベランダに突進した。カーテンが引いてあったが、引き戸は開けておいたのだろう。

 勢いを緩めることなくカーテンに突っ込んでいった。


「待て!」


 叫んだジェニーであったが、完全に出遅れた。まさかいきなりベランダに向かって走り出すとは予想していなかった。ここは4階である。


「くっ! 借方400度!」


 とっさに伝票を切った・・・が、カーテンをめくって飛び出す賊の背中には届かなかった。


 ベランダの手すりにぶち当たった男は、くるりと左に進路を変えて、隣室との隔壁に縛りつけてあったロープを握って外の空間に飛び出した。


「待てっ!」


 2枚目の伝票をむしり取りながら、ジェニーもベランダに向かって走り出した。


 しかし、男は慣れた動きでするするとロープを伝いおり、2階の高さから飛び降りた。

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