本格的に受験が始まると、芹は私に家事よりも神社よりも自分たちよりも勉強を優先させろと言ってきた。
どういう事かと尋ねると——。
「思い切りやらないと後悔するだろう? あれは後になればなるほど身体と心を蝕む。彩葉にはそんな物は抱えてほしくなどない」
「でも、皆のご飯とかは……」
そこまで言ったその時、突然境内の中に一陣の風が吹いてシンが現れた。
「はい、これお届け物だよ!」
そう言ってシンに渡されたのはおせち料理でも入っていそうな立派なお重だ。
「こ、これは一体?」
「栞からだ。彩葉がもうすぐ受験だって話をどこかの誰かさんが商店街でしたみたいでね? それなら今度は自分たちが助けてやるべきなんじゃないかって立ち上がった人たちが今日から日替わりで君たちのお弁当を作ってくれるんだってさ」
「ええ!? そ、そんな迷惑——」
お重を抱えて思わず口を開くと、私の鼻先をシンが軽く押してくる。
「迷惑なんかじゃない。君が皆にしたように、今度は皆が勝手に君を助けたいだけだ。だから君に出来ることは感謝してご飯を食べて、大学に受かる事だよ」
「そうだ。皆はお前の為に出来る事が無いかといつも考えているが、お前はいつも隙を見せない。だからここぞとばかりに手を出してくるんだ。甘んじて受け入れろ。あと土地神、彩葉に触れるな」
「はいはい。手に入れた途端に番犬よろしく、人型まで作っちゃってさ。三者面談にわざわざ行ったのだって、彩葉のクラスメイトに対する牽制だろ? 大人げない」
「……うるさい」
それを聞いて私が目を丸くして芹を見上げると、芹がそっと私の目を片手で覆ってきた。
「あまり見るな。これはただの嫉妬だ。私の知らない彩葉を知ってる奴が居るのが癪だっただけだ」
「芹様、大丈夫です。芹様を知ってしまったら、もう他の人の事なんて考えられません。それぐらいあなたは魅力的です」
「そうか?」
「はい!」
微笑んだ私を見下ろして芹が満足そうに微笑むが、そんな私達を見てシンが顔を歪める。
「心の声聞こえなくなってもやっぱり変わらないじゃないか。さて、邪魔者は退散しますよ。それじゃあね。明日は誰が来るかお楽しみだよ!」
「ありがとうございます、土地神様! 栞さんにも後でメッセ打っときます!」
「すまなかったな、わざわざ」
「へいへい。じゃね!」
それだけ言ってシンは消えた。
この日から本当に村の皆が日替わりで私達の食事を届けてくれて、私は勉強に集中する事が出来た。
そして春。
「忘れ物はないか? 彩葉」
「はい!」
「彩葉! 僕達はちょくちょく遊びに行くぞ!」
「当然です。先輩としてやはり後輩がきちんとやっているか見張らなければ!」
「お願いします」
「私はそうしょっちゅう抜け出す事は出来ないが、隙を見て泊まりに行く。それから週末には必ず戻るように」
「はい。美味しいご飯作って待ってます。それじゃあ皆さん……行ってきます!」
バスがやって来たのが見えたので私が荷物を抱えると、突然芹が私の身体を抱き寄せて囁く。
「寂しくなるな。きっとしばらくは慣れないだろう。だが、私の小鳥は必ず戻って来ると信じている」
少しだけ震える声に私は無言で芹の腕の中で頷くと、名残惜しく思いながらも芹から身体を離して顔を上げられないままバスに乗り込んだ。
バスに乗り一番後ろの席に座ると、窓から芹達を見下ろす。
やがて相変わらず私以外誰も乗っていないバスはゆっくりと発車した。
その時、芹の口が何かを呟いて、私はそれを見て何度も何度も頷きとうとう涙を零してしまった。
『愛している、彩葉』
芹の口ははっきりとそう告げていた。徐々に遠ざかる芹達にいつまでも手を振っていたが、やがて曲がり角を曲がって見えなくなった所で、私は嗚咽を漏らす。
「うっ……ひっ、っく」
擦っても擦っても溢れてくる涙は結局いつまで経っても止まらなかったけれど、どうしても芹山が見たくて視線を芹山に向けると、あの展望台の所に白い大蛇が見えた。
「芹……様……」
あんな事をしてもし誰かに見られたらどうするのだという気持ちと、あんな事をしてまで私を最後まで見送ってくれるのかという喜びがごちゃまぜになって、ようやく止まったと思っていた涙がまた溢れた。
これからの四年間、毎週戻って来るとは言え帰る場所が違うのだと思うと胸が締め付けられる。
家を失い、家族を失い、お金も何もかも失った私は、この村でもう一度飛び立つ決意をする事が出来た。
それは芹山の芹という神と、神使の狐達、それから村の人々や土地神が与えてくれた居場所や優しさや愛情のおかげだ。
何もかもを失った女子高生はこの優しい村に守られて、今日から大学生になる。
休めていた翼はようやく羽ばたく事を思い出し、自分の行くべき道を進むのだ。
「必ず戻ります、芹様。必ず、あなたの元に」
もうじき見えなくなる芹山を見つめながら言うと、不思議と力が湧いてきた。夕日に照らされて、真っ白な愛しい大蛇がまだ私を見守ってくれていたから。