「おまたせしてしまったかな、天野の巫女」
「……誰ですか」
「おや、これは失礼した。私は時宮の現当主だ。何百年もこの時を待っていたんだ。少しの無礼は許してくれたまえ」
「私に何をさせるつもりですか」
「何から話そうか。そうだな。まずは天野の話をしようか。あの家はずっと邪魔で仕方なくてね。あれは、はるか何百年も前の事だ——」
そう言って当主は私の言葉を無視して聞いても居ないのに天野の歴史を語りだした。その内容はどれほど時宮が優れていて、どれほど天野が劣っているかという話だったが、最後の最後に当主はニタリと気味悪く微笑む。
「つまりね、天野と時宮の血を継ぐ君にはこれから最後の生贄になってもらわなければならないのだよ。ずっと天野の血を欲していた元神達が喜びの歌を歌っているのが聞こえるだろう?」
「歌?」
この苦しそうな声が歌? ありえない。
足元から迫り上がってくる黒い者は皆こんなにも悲しげに苦しげに叫んでいるというのに、この声が喜びの歌?
私は動かない拳を握りしめた。時宮に縛られて身動きが取れないのはこの神堕ちも一緒なのだ。そう思うと悔しくて仕方なかった。
どうして神が一介の人間の言いなりになどなったのだ!
どうして天の神はこうなる前に彼らを救ってやれなかったのだ!
この神堕ちを救い、私はもう一度芹に会いたいのだ!
そう思った瞬間、おでこの加護が燃えるように熱くなった。それと同時に身体から光が四方八方に迸る。
その光は足元で蠢く神堕ちを飲み込み、眼の前に見えていた彼岸花も川も山をも照らし出す。どこか懐かしいようなその光は芹の光だ。
その時、正面から無表情の女性がゆっくりと近寄ってきて私にまた何かを飲ませようとしてきた。
「うっ……ぐ……げほっ!」
バスの中で飲まされた物とは違い、何だか今度のはやけにドロドロしている。しばらくすると身体の中で何かが暴れ回る感覚がした。
そんな私を見て女性が口の端をニィっと上げる。
「ありがとう、最後の生贄。そしてもう一仕事お願いね」
何をされたか私にはもう分からなくて、ただ全身から力が抜けて行くのが分かる。その代わりに指先からジワジワと冷たくなっていった。
「芹……様……」
あまりにも眩い光に私を縛りつけていた糸が一本、また一本と千切れていく。
やがて全ての糸が切れた時、私の身体は宙に投げ出された。
まるでスローモーションのように落ちる途中、時宮の人たちの顔が見える。
力なく落ちていく私を見ながら薄ら笑う時宮の人達を見て、この力は使ってはいけなかったのだという事を悟った。
『心の声、芹様に聞こえちゃうのかな』
ぼんやりとそんな事を考えてみたが、別に聞こえたってどうという事はない。芹への愛を自覚した私の心は、もう芹に聞こえようが誰に聞こえようが構わないのだから。
もうすぐ地面に辿り着く。そう感じた瞬間、何かにしっかりと抱きとめられた。ふと視線を上げるとそこには金髪の青年と銀髪の女性がいる。
見たことの無い二人だがやけに既視感があって、思わず私は二人の名を呟いた。
「テンコ……先輩……ビャッコ……先輩……」
「喋らないでください、彩葉」
「土地神! 今です!」
テンコがどこかに向かって叫んだ。
すると黒く濁っていた空がひび割れてそこからシンが、いや、シンと思われる鹿のような不思議な生き物が飛び込んでくる。
それに続いて入ってきたのは真っ白な大蛇だ。この世で最も美しくて愛しい、私の大蛇だ。
私はまるで糸が切れた人形のように動けず、ただ空からこちらを見下ろす芹を見つめていた。
「いろ……は? お前、何を……された?」
芹は動けない私を見てぽつりと呟いたかと思うと、真っ白な身体が徐々に黒く染まっていく。
「芹! 耐えろ! 堕ちるな!」
シンが叫ぶが、芹の身体はみるみる間に黒くなっていった。
「彩葉……いろ……は」
まるで呪文のように私の名を呟きながらその体を黒く染め上げる芹を見て涙が溢れる。
そんな芹を見て時宮が弾かれたように笑い出した。
「ようやく! ようやくこの時が来たぞ! 天野は昔から愚かだ! その力を無駄に使ってばかりだな! だから私達が正しく使ってやる。正しくな!」
「ああ、長かったわ。ようやく叶うのね。時宮の夢が!」
「あの子も力を失った! これで私は芹様の巫女になれるのね! 私とあの子では私の方が優秀だもの!」
「本当に天野の血を引いているの? まさかこんなにも上手くいくなんて思いもしなかったわ」
好き勝手を言う時宮達を無視してシンが必死になって芹を止めようと体当たりをするが、芹はやがて完全に黒くなってしまう。