「あ、ごめんなさい、お恥ずかしい所をお見せしてしまって」
「あ、いえ。あの……」
芹にははっきりと止められたけれど、この二人の力になる事は出来ないだろうか。どう切り出したら良いのか分からなくて戸惑っていると、健太が私の手を掴んだ。
「ママ! この人あの巫女さんなんだよ! もしかしたらモモの事も助けてくれるかもしれないよ!『きっと、きっと助けてくれる! 不思議な力できっと!』」
期待に満ちた目で見つめられて息を呑むと、とうとう母親が健太を怒鳴った。
「いい加減にしなさい! モモが心配なのは分かるけど、どうしようもない事もあるの!『ああ、また……こんな思い健太にさせたのは私なのに』」
母親の心の声がまるで雨の日の声のように滲んで聞こえた。
『後悔だな』
耳元で芹がボソリと呟く。そうか、これは後悔の声なのか。
「あの、少しだけ良いですか?」
「え? は、はい」
母親は私の呼びかけに身を強張らせた。もしかしたら私が不快を露わにすると思ったのかもしれない。
「モモさんに会わせてもらえませんか? もしかしたら、何か出来る事があるかもしれませんし」
『巫女?』
耳元で聞こえてくる芹の声を無視して私はその場でしゃがんで健太と目を合わせた。
「ねぇ健太くん。私には多分モモを元気にしてあげる事は出来ないよ。でも、もしかしたらモモの今の気持ちなら分かるかもしれない」
動物の声を聞いた事はまだないが、もしかしたら長年人と居た動物の声であれば聞こえるかもしれない。
私の言葉を聞いて健太は一瞬悲しそうな顔をしたけれど、すぐに首を振って頷く。
「それでも良い! モモが何を考えてるのか聞きたい!『モモはしんどいかもしれない。僕が熱出た時みたいに、泣いてるかもしれない』」
「分かった。それじゃあ行こう。これ、お会計お願いしても良いですか?」
そう言っていつの間にか側に居た狐の二人に買い物カゴと財布を渡すと、二人は神妙な顔をして頷く。
「ああ」
「すぐに追いかけます」
「お願いします。それじゃあ行こうか、健太くん。お母さん」
「で、でも『モモはもう目すら開けられないのに……』」
「大丈夫です。でも何も聞こえなかったら……ごめんなさい」
「いえ、それは……『聞こえなくて当たり前なんだもの……ああ、健太、嬉しそう』」
「こっちだよ!」
健太に手を掴まれて母親が止める間もなく、私達は早足でマルイチを出て商店街から離れた。
健太に引っ張られながら坂を登ると、そこにはまだ新しい童話に出てきそうな可愛らしい家が建っている。
「最近越して来たばかりなんです。夫の実家が近所で」
「私と一緒ですね」
振り返って微笑むと母親も安心したように微笑むが、心の声はさっきから私に謝ってばかりでずっと雨に滲んだ声だ。
やがて家に着くと健太はようやく私の手を放してリビングに駆け込んでいく。
「あの子ったら……どうぞ、こっちです」
「はい。お邪魔します」
私は母親についてリビングに入った。
部屋を見渡すと、モモは窓際のカーテン越しに日を浴びてすやすやと眠っている。その顔はとても穏やかで少しも苦しんでなど居ない。
元は黒い柴犬だったのだろうが、今はその黒い毛に白い毛が沢山混じっていた。
「巫女さん! モモは何か言ってる!?」
モモを撫でながら健太は期待に満ちた顔をしてこちらを見上げてくるが、やはり動物の心の声までは聞こえないようだ。これでは何をしに来たのか分からない。
そう思ったその時、突然芹の声が響いた。
『この犬は今夜逝く。夜に一声だけ鳴き、私達の元へやってくる』
「っ!」
それを聞いて私は息を呑んだ。そんな事、とてもではないが伝えられない。
けれど芹にはこのモモの寿命や最後の時がはっきりと見えているのだろう。固まる私を見て健太と母親の顔色が変わった。
「巫女さん……? ねぇ、何か分かったの?『なに? どうしてそんな悲しそうな顔するの? ねぇ、なんで?』」
「あ……何か……見えるんですか?『やっぱり、芹山の巫女は不思議な力があるって言うのは本当なの?』」
二人の言葉と視線に私が耐えかねて逸らそうとすると、また芹の声が聞こえてきた。
『抱いていて。最後の時まで、いつものように抱いていて』
「……」
『モモの声だ。彼女はずっとそう言っている。夜に逝くのはパパを待つ為だ。皆に見守られて逝く。それが彼女の願いだよ』
それを聞いて私はいつの間にか溢れていた涙を拭って二人を、いや、三人を見た。
「抱いていて欲しいそうです。いつもするみたいに、抱いていてほしい、と。撫でて声をかけてモモさんを見守ってあげてください。もちろん、パパさんも。それがモモさんの願いです」
「!」
「……『……やっぱりモモはもう……』」
喜んだ健太とは違い、母親の方は察したように涙を浮かべる。
「それから健太くん。モモはきっとこう思ってる。ありがとうって。ずっと心配してくれて、愛してくれてありがとうって思ってる。本当はずっと一緒に居たいのはモモさんもきっと一緒。でも人とモモさんの寿命は違う。ママが言ったみたいに、どうしようもない事もある。最初はきっとしんどいし寂しいし苦しいかもしれない。一杯泣くかもしれない。でもね、そうやってちゃんと乗り越えたら、今度は楽しかった事しか思い出さなくなるよ。きっと、そう」
何の心構えもなく突然両親が居なくなってしまった私は、まだその段階にすら居ない。きっと私よりも先に健太はそれを体験し、大人になるのだろう。
私は呆然とする健太を強く抱きしめて、その小さな背中を撫でた。その途端、健太がようやく何かを悟ったように泣き出す。
「健太……『ごめんね。こんな事なら犬を飼いたいって言わなければ良かった……健太は一人っ子だからって思ってワガママ言ったけど、こんな思いをするなら最初から飼わなければ良かった……』」
そんな母親の心の声が聞こえて私は健太を抱きしめながら母親を見上げる。
「お母さんもです。モモさんはあなた達と過ごしたくてここへ来た。それは悲しい思いをさせる為じゃありません。幸せになりたかったからです。そして実際にとても幸せだった。だから最後の願いが、抱いていて、なんです。だからどうか、モモさんを忘れないで。モモさんと過ごした時間を後悔しないで」
私の言葉に母親はハッとして顔を上げた。その目からは今にも涙が溢れてしまいそうだ。
「っ! ……はい『そうよ……モモとの思い出を後悔するなんてありえない……ごめんね、モモ。私も離れたくない。あなたともっと一緒に居たかった……もっと沢山……もっと……』」
母親の心の声がゆっくりと透き通っていく。
私は溢れる涙を擦りながらそっとモモを撫でた。温かい体温や微睡んでただ眠っているような顔は、嬉しそうに微笑んでいるように見えた。