私はそっと咲子の背中を撫でた。そんな私の行動に驚いたように咲子がこちらを凝視するので、そんな咲子にそっと親指を立てて小声で言う。
「咲ちゃんの誤解だよ。皆、咲ちゃんの事大好きで大好きで仕方なかっただけ。大丈夫。咲ちゃんには芹神様がついてるよ」
茶目っ気たっぷりに言うと、咲子は驚きに目を見開いた。
「彩葉……『まさかこの為に今日ここに来たの? 私の野菜で作った漬物持って?』」
「ねぇ咲ちゃん。一緒に巣立とう。この優しくて苦しい巣箱から」
これは自分へ向けた言葉でもあった。雛鳥のまま放り出されてしまった、私への言葉だ。
「巣立つ……『優しくて、苦しい巣箱……』」
そんな私の言葉を咲は心の中で噛みしめるように呟いたかと思うと、小さな声で言う。
「彩葉……ありがとう。私、やっぱりあなたとちゃんと友だちになりたい『彩葉が私を助けてくれたのは巫女だからじゃない。そう、信じたい』」
「何言ってるの? もう友だちだよ! それに畑手伝ってくれる約束だよ?」
咲子は私の言葉に安心したような、泣きそうな顔をして頷く。
「そうだった! ありがとう、彩葉。こんな貴重な時間、無駄にしない。明日、種まきに行くね」
咲子の声にもう迷いは無く、その横顔には何かを決意したような強い意志が見て取れる。
「うん! 待ってる。それじゃあ私は先に帰るね」
「うん『ありがとう、彩葉。芹神さま』」
最後に咲子の手をギュっと握ると、咲子も強く手を握り返してきてくれた。
病院を出て愛車に乗った私は、狐たちが前カゴに乗った事を確認して意気揚々と自転車をこぎ始めた。髪をさらう風が、頬に当たる風がこんなにも爽やかで心地よい。
「せんぱ~い」
「なんだ?」
「なんです?」
「この風って芹様が吹き下ろしてくれてるんですかね~?」
機嫌よく尋ねると、狐たちは揃って首を傾げて芹山を見上げている。
「そんな事は考えた事も無かったな」
「ウチもです。でもそう考えると途端に芹様の偉大さをさらに認識しますね」
「全くだ。巫女、お前良いこと言うじゃないか!」
「ありがとうございます~」
その後も鼻歌を歌いながら私達は芹山に向かって爆走して、参道の急な坂道を一気に自転車を押して駆け上がろうとしたが、流石にそれは無理だった。
「はぁ、ちょ、もう無理です」
「甘っちょろい事言うな! 巫女だろ!」
「そうですよ! 巫女には体力がなければいけません!」
「いや、せめて下りてくれませんか? 先輩方」
いつまでも前カゴに乗ったまま檄を飛ばしてくる狐たちに肩で息をしながら言うと、狐たちはフイとそっぽを向く。
と、その時だ。突然自転車が軽くなった。
「巫女、お前も自転車にまたがれ」
「へ?」
頭の中に響くような芹の声が聞こえてきて、言われるがまま自転車に跨ると、突然自転車が自動で坂道を登り始めた。
「わわわ!」
あまりの事に思わずハンドルがグラついてしまったが、どうにかバランスを取っているとあっという間に鳥居の下までやってくる。
「快適だったか?」
本殿の戸口の所からこちらを見て誇らしげにそんな事を言うのは芹だ。
「芹様!」
「ただいま戻りました!」
「ああ、おかえり。巫女も、おかえり」
「あ、はい。ただいま……です」
まだ何だか歯がゆい四文字に私がソワソワしていると、芹が本殿から下りてきた。
「今回も上手くいったか」
「それはもう! 浅漬で皆イチコロです!」
「そうです! キュウリが嫌いなウチでも食べられた浅漬です! あれにやられない者は居ません!」
「そうか。確かにあれは美味かったな。それで巫女はどうだったんだ?」
「私ですか?」
「ああ。何か得る物はあったか?」
思いも寄らない芹の言葉に私は少し考えて頷いた。そんな私を見て芹は微笑む。
「そうか。それは僥倖だな。それらの物は金には変えられない物だ。それに誰でも得られる物ではない」
「……はい。そう思います」
咲子を通して私自身もほんの少しだけ羽ばたこうとしたのだ。まだ見ぬ世界がどんなに広いのかを知ろうとした。知りたかった。
「お前が繋いだ咲子の心は今回もちゃんと私の所に届いた。それだけじゃない。父親の物も母親の物も夢子の物もだ。どれも美しい声だったよ」
「はい!」
メッキが剥がれ落ちた篠崎家の心の声は芹にもきちんと届いたようだ。もしかしたら今も届いているのかもしれない。そう思うと胸がジンと熱くなる。
本殿に戻って炊事場で料理をしていると、いつものように狐たちが人の姿でやってきて私の手元を覗き込む。
「今日は何作るんだ?」
「昨日はお肉でしたから、今日は魚でしょうか?」
「残念! 今日はお野菜です!」
そう言ってジャガイモを見せると、二人はあからさまに嫌そうな顔をするが、そんな顔をしても今日のメニューは既に決まっている。
「野菜か……」
「はぁ……咲子が大量に持って来ていましたもんね」
「そうなんです。だから今日はコロッケにしようと思って」
微笑んだ私を見て、狐たちは何とも言えない顔をしていた。