一言で言うなら、昨日と今日は地獄だった。というか、都会は地獄だ。
私は明日神社に戻る予定を繰り上げて、学校を終えるなり家にも帰らずそのまま神社に戻った。
電車を乗り継ぎバスに乗って辺りが薄暗くなってきても、不思議なもので芹山が見えただけで何だかとてもホッとする。
バス停を下りて芹山に向かって歩いていると、麓の参道の入口で品の良さそうなお婆さんがしきりに参道を覗き込んでいるのが見えた。
「あの~、どうかされましたか?」
この2日で見事なまでに人間不信になっていた私だが、何だかそのお婆さんが気になって思わず声をかけると、お婆さんは驚いたように振り返って私を上から下まで眺めて怪訝な顔をする。
「あなた、どこの子? 見たことの無い制服ねぇ」
「あ、私、東京から来た小鳥遊彩葉って言います。ちょっと事情があって芹山神社を引き継いだんです。ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
そう言えば私はまだ引っ越しやら境内の掃除やらでここらへんの人と誰とも関わってはいなかった。
それを思い出して頭を下げると、お婆さんは途端に安心したように笑顔を見せてくれる。
「そう東京から! それは大変ねぇ。ここの神社を引き継いだの? ご両親は?『こんな時期にそれは大変! こんな田舎、都会の人には不便でしょうに』」
「あ、いや……私だけって言うか、話せば長くなるんですけど……」
本当の事を言ってしまって良いものかどうか分からずにお茶を濁すと、お婆さんは何かを察したのか深く頷き、私の手を取った。
「こんな所じゃなんだから、うちに寄ってってちょうだい。私は満葉よ。満葉米子。よろしくね『きっと何か事情があるのね、可哀想に……こんな所に娘を一人追いやるなんて……心細いに違いないわ』」
「……米さん……ありがとう、ございます」
米子の心の声が綺麗すぎて思わず泣きそうになった私の手を、米子がそっと撫でてくれた。
それから米子に言われるがままついていくと、一軒の大きな家に案内されて私は思わずギョッとする。
「す、凄い豪邸ですね……」
「そんな事ないのよ! ここらへんの家は大体こんな感じなの。ほら、田舎は安いから。さあ、遠慮しないでちょうだい!」
「あ、はい。お邪魔します」
米子に手を引っ張られて図々しくも米子の家に上がり込んだ私は、5分後には米子とのお喋りに夢中になっていた。
「そうなの! 東京は大変なのねぇ! 私なんかが行ったらすぐに迷子になっちゃうわ!」
「慣れたらそんな事もないですよ。いつか一緒に東京見物に行きましょう!」
「あら、嬉しいわね! 実はね、東京には息子が居るのよ」
「そうなんですか?」
「そうなの。もう大分会ってないんだけど……『私があの時、あんな事言ったから……』」
やけに澄んだ声で聞こえた米子の心の声に私はハッとした。そして悲しそうに伏せられた米子の横顔を見て何だか胸が詰まる。
「あの、でしゃばってすみません。どうして会ってないんですか?」
失礼だとは思いつつも、私は米子に尋ねた。この人を助けてあげたい。力になりたい。そんな気持ちが押し寄せてくる。これも加護の力なのだろうか。
そんな気持ちが伝わったのか、米子はじっと私を見上げて微笑んだ。
「ありがとう。こんなお婆ちゃんの昔話を聞いてくれるの?『ずっと……ずっと誰かに話したかった……こんな後悔を抱えたままで死にたくなかった……』」
隠された心の声に米子の全てが詰まっていた。私は頷いて姿勢を正すと、米子の話にじっと耳を傾ける。
「息子はね、10代の頃に夢を追ってここを出たの。お父さんとその事で毎度喧嘩になっていてね、ほとんど勘当みたいな形だったの。定期的に連絡はくれてたけど、家にはすっかり寄り付かなくなってしまっていた。でも十年前にね、お父さんが病気で亡くなった直後に息子が電話をしてきたの。その時に息子は【母ちゃん、俺、そっち帰ってもいい?】って言ってきてね。その時私はお父さんがあんなにも早くに亡くなってしまうなんて夢にも思っていなくて、息子はお父さんの具合が悪いから戻ってきて欲しいって言っても仕事が忙しいの一点張りで一度も戻って来なかったのもあって、つい【お父さんが死ぬの待ってたの?】って言ってしまったの。それを聞いて息子は【……ごめん】だけ言ってそれっきり。いやよね、自分が一杯一杯だからって、私は息子に当たってしまったのよ。本当に自分の事しか考えてなくて嫌になるわね『どうして……どうしてあんな事を言ってしまったんだろう……本当は嬉しかったのに……どうして……』」
米子はそこまで言って泣きそうな顔で無理やり笑って口を噤んだ。それを聞いて私はそっと米子の前にあった湯呑みにお茶を注ぐ。
「ありがとう。こんな事、誰かにされるの久しぶりだわ『本当に久しぶり……芹神さまのおかげかしら……』」
「そう言えば米さんはどうしてあそこに?」
「ああ、それはね、昨日、業者さんらしき人が芹山に登って行くのを見たって言ってた人がいて、何かあったのかしらって不思議に思って。そうしたら一晩明けたら参道が出来ていて驚いたのよ! 本当は登りたいんだけど、あそこの坂は長いでしょう? 子どもの頃はそれはもう一番上まで走って登れたものだけど。それにしてもあの神社を引き継いだ子がこんなにも可愛らしい方だって知ったら皆、ビックリするわね!」
「そうだったんですね! すみません、何もお知らせせずに」
それは初耳だ。一体私の居ない間に何があったのだ?
「構わないのよ! 忙しくて挨拶に来られなかったのでしょう?」
「はい……まだあちらの家の手続きも終わってなかったので……お恥ずかしい」
「まぁ! そんな中でもあの神社の事をしてくれていたの? しかもまだ高校生なのに!『やっぱり何か深い事情があるのね……何か手伝えるかしら』」
「私は何もしてません。最初はそりゃ戸惑いましたけど、今はあそこがあって良かったって心から思います。ところで米さん」
「あら、なぁに?」
「私で良かったら、息子さんの安否だけでも見て来ましょうか?」
「え?」
「どうせまた近い内に向こうに戻らなきゃなんで、ついでです」
こんな優しい人の息子だ。きっとあちらにも何か事情があるのではないだろうか。奇しくも私には芹の加護がある。彼の心の声も聞こえるはずだ。
米子をじっと見つめると、米子は少しだけ戸惑いながら、腕を伸ばして仏壇に置いてあった封筒を取り出した。
「ここへ来たばかりのあなたにこんな事を頼むのは、本当は間違ってるって分かってるの。でも……元気にしているかどうかだけでも……見てきてくれる?『ごめんなさい……また自分の事ばかりでごめんなさい……』」
私は米子から封筒を受け取ると、満面の笑顔を浮かべて頷く。
「もちろんです! だって、私は芹山神社の巫女ですから!」
胸を叩いてそんな事を言った私に、米子は一瞬キョトンとして噴き出した。
「頼もしくて可愛らしい巫女さんね! ありがとう、本当にありがとう『芹神さま、この子を遣わせてくれてありがとうございます。ありがとうございます』」
何度も何度も芹と私に心の中で感謝をする米子に、私は誓った。
絶対に、米子と息子の仲を繋ぎ直す、と。
米子と別れていつの間にか舗装されている坂を駆け上った私は、境内を見て悲鳴を飲み込んだ。
「ど、どうなってるの……?」
あんなにも草が生い茂っていた境内が、あんなにも朽ち果てかけていた瓦が、あんなにも薄汚れていた本殿がまるで新品かのように輝いていたのだ。
私は目の前の光景が信じられなくて急いで鳥居の脇にあった石碑に目をやると、そこにはしっかりと『芹山神社』と書かれていて更に驚いてしまった。