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第20話

 残る行事も順調に過ぎていった。クリスマスが過ぎ、正月が過ぎ、マラソン大会を彼女達はばっくれ、三学期が終わり、卒業式も終わってしまった。春休みのいつかに彼女は娘から離れることになる。

 全てをやり終えた感が漂う彼女は、今、リビングでお茶を啜っている。

 その彼女に、俺は話し掛ける。

「娘とは、どんな感じなんだ?」

「どうしたの? 突然?」

「……いや」

 何か上手く言い出せない。いつもなら、簡単に言いたいことが言えるのに。霊媒師のおばさんと話した時に彼女が言った『この子が小学校を卒業して直ぐに、私は、この子の体から出て行くことにします』という言葉が、頭の中で強く蘇っていた。

 その俺を見透かしたように、彼女が訊ねる。

「もしかして、私の心配でもしてくれているの?」

「どっちかというと、君と君の娘の両方――いや、俺のことなのかな?」

 彼女は変わらず、お茶を啜っている。俺が話し出すのを静かに待っているようだった。

 俺は逡巡しながら口を開いた。

「聞いてくれるか?」

「ええ」

「未練タラタラなんだけど、君に……逝って欲しくないんだ。君の娘に教え込まなきゃいけないことが残っているなら、君の娘から抜け出ることを延長して欲しい。君の娘が望むなら、抜け出ないで欲しい」

 彼女はもう一度お茶を啜ると、湯呑に視線を一回落としたあと、俺を見てゆっくりと答えを返した。

「それは出来ないわよ。私は約束の日に離れることを決めていたから、娘に出来る限りのことを教えて伝えたし、その努力は嘘じゃないわ。それを無かったことにして、娘の中に留まることは出来ないわ」

 彼女は初めて見せる、困った笑みを浮かべていた。

「だって、全ては私が悪いんだもの。娘を助けるためとはいえ、死んでしまった私が悪いわ。この子に入っているのは、本当に偶然起きた奇跡の賜物よ。奪われてしまったはずの、娘と居られる特別な延長なのだから」

 俺は肩を落とし、諦めを口にする。

「……そうだよな。今、ここで話せていること事態が有り得ないことなんだよな」

「ええ、そうよ」

 彼女は湯呑を置いて立ち上がると、俺の側まで来て両手を俺の右手に重ねるように添えた。

「貴方には感謝しているわ。生前、通せなかった我が侭を通させてくれて、生前、注げなかった愛を娘に注がせてくれて……悪霊の私の味方になってくれて」

 彼女はしっかりと俺の目を見て言った。

「ありがとう」

 その言葉を受け入れたくなかった。

 彼女と彼女の娘と過ごした四年間は、本当に楽しかったのだ。その延長が許されるなら、死ぬまで延長を申し入れたい。

 だけど、終わりは迎えなければいけないのだ。何故なら、彼女の娘に未来を返さなければいけないからだ。一つの体に二つの魂が入っていてはいけない。まして、その体が彼女のものではなく、彼女の娘のものなら……。

 彼女が自分の娘の未来を大事に思っていることを一番分かっているから、俺は受け入れるしかないのだ。

「とても楽しかったよ」

 精一杯の虚勢を張って笑って返すことしかできない。『行くな』と言って引きとめることも出来ない。俺の我が儘は通してはいけない。

 だから、思うことだけは許して欲しい。こんなに彼女を大事に思わせる気持ちを作らせて、居なくなってしまう彼女はずるい、と。

 彼女は俺の右手から手を離すと、俺を抱きしめて耳元で囁いた。

「明日、娘から離れるわ。私だって、この生活を終わらせたくない……。だけど、私は母親なのよ……」

 彼女は震えていた。

「そして、貴方を……娘を任せられる夫だと思っている」

 彼女は大切なものを娘だけではなく、俺にも残してくれた。


 ――大切な変な彼女が任せてくれたのなら、責任は果たそう。


 彼女の言葉を聞いて、俺も覚悟を決めた。

 彼女の背中に手を回し、安心できるように抱き返す。

「君の娘が、いつでも笑っていられるように努力するよ」

「お願いね」

 俺が頷いて答えると、彼女は俺を離して目元を擦った。

「今日は、これから娘と気の済むまで話をするわ」

 彼女の娘にとっても、今日が別れる前日の最期の会話になる。

「そうしてあげて」

 今度中学生になるといっても、まだ幼い彼女の娘には俺以上に彼女の言葉が必要だ。別れが死による突然のものではなく、彼女の意思による彼女の娘のための別れなら、尚更だ。

「ありがとう」

 彼女は最後にもう一度感謝の言葉を告げると、リビングを出て自分の部屋へと向かった。

 残された俺は彼女を忘れないように、彼女と過ごした記憶をゆっくりと振り返ることにした。


   21


 夜が明けて、彼女が居なくなる日――。

 俺が起きた時には、彼女は最後の料理を作り終えていた。どうやら、朝早くから朝食の用意を始めていたらしい。サラダを作り、サンドウィッチを作り、シチューを作り、ほうれん草のマカロニグラタンを作り、パンケーキまで作っていた。

 朝食のボリュームではないことは、きっと彼女にも分かっていたはずだ。テーブル一杯に並んだ料理は彼女の不安の表れか、もしくは感謝の意味が込められているのかもしれない。

「凄い量だね」

「私が居なくなるから、最後に賞味期限が切れそうなのは全部使わせて貰ったわ」

 彼女の不安や感謝などではなく、ただの俺の勘違いだったらしい。結局、最後の最後まで彼女は彼女らしいままのようだ。

「作っていて思ったんだけど、貴方っていい加減だから栄養のバランスが心配なのよね」

「君が来るまで、出来る料理しかしなかったからな。――俺のことより、娘の栄養のバランスは、どうなんだよ?」

「好きな料理しか作りそうにないわね。だから、料理を作る時に付け合わせをセットで覚えさせたわ。グラタンなんかも栄養の取れる、ほうれん草を入れるものとかを多く教えたわ」

 なるほど。それで彼女の娘の好物がほうれん草のマカロニグラタンになったのか。

 彼女がテーブルの席に座って目を閉じると彼女の娘に入れ替わり、ゆっくりと目を開く。

「今日は、朝から豪勢だね」

「冷蔵庫の中の整理をしてくれたみたいだ」

「わたし達はゴミ処理の人みたいだね」

「お腹に入れるのが美味しい料理というのが救いだ」

「うん。いただきます」

 彼女の娘は、彼女が作った料理を食べ始めた。彼女もそうだが、彼女の娘も普段と変わらないように見える。

 何処か落ち着かないようで、あと少しで居なくなってしまう彼女のために何かをしなくてはいけないような、焦りにも似た気持ちがあるのは俺だけなのだろうか?

「ねぇ、おじさん」

「ん?」

「何を考えてる?」

「これからどうしていこうか、今までのことを振り返ってる最中かな?」

 彼女の娘は食事の手を止めることなく、俺に微笑み掛ける。

「おじさんって、面倒くさがってる割にはいろいろとしてくれるよね」

「そうかな?」

「うん。おじさんはおじさんが思ってるほど、いい加減な人じゃないと思う」

「だとしたら、それは君たち親子のせいだな。俺は、君達が俺のところに来なければ変わらなかったと思うよ」

「そうなんだ」

「ああ……。そして、君がいい加減じゃないと感じている今の俺を、俺は気に入っているよ」

 彼女の娘はゴクンと口の中のものを飲み込む。

「それは、つまり?」

「彼女と君のために変われて満足しているってことさ」

「……そっか」

 彼女の娘は食事の手を止め、ホッと息を吐いた。

「迷惑を掛けるだけの要らない子にならなくて良かった」

「そんなことを考えていたのか?」

「大切なことだよ。わたし、おじさんと暮らすの楽しいから追い出されたくないもん」

「追い出しゃしないよ」

「でも、最初は面倒くさがって、ママにだけ子育てさせようとしてたでしょ」

 俺は苦笑いを浮かべる。それは嘘ではないので否定できない。

 今となっては、もう彼女の娘の方が俺よりもずっと出来た人間だ。これも彼女の施した教育のお陰なのだろう。

 そんな大事な彼女の娘を、昨日、俺は彼女に任された。

「本当に、これは責任重大だな」

 俺から漏れ出た言葉の意味が分からず、彼女の娘は首を傾げるが、直ぐに食事を再開した。

 最初は舌足らずな言葉遣いしかできなかった彼女の娘が、今ではしっかりと会話ができるだけでなく、色んなことを学び、身につけ、成長している。彼女の娘の中に彼女から貰った大事なものが沢山詰まっている。

 まだ彼女の娘は何も分かっていないかもしれないが、彼女が彼女の娘に与えた大切なものを壊さないように、汚さないようにしていくことがどれだけ尊いことなのか……。

 きっと、それは彼女が去ってから気づいていくのだろう。

「俺も、さっさと食べよう。折角の料理が冷めてしまう」

「うん、ママの料理は最高だからね。だけど、ほうれん草のマカロニグラタンを食べきれないなら、貰ってあげてもいいよ?」

 空になっている彼女の娘のグラタン皿を見て、俺は笑みを溢すと、手付かずのままのほうれん草のマカロニグラタンを彼女の娘の前に置いた。

 彼女の最後の料理の一つを食べられないのは残念だが、テーブルの上にはまだまだ彼女の料理が残っている。ほうれん草のマカロニグラタンは彼女の料理を伝授された、彼女の娘が料理をしてくれるまで少しの間だけ、お預けにしておこう。


 …


 朝食を食べ終えて食器の洗い物も終わって一息つくと、やることがなく手持ち無沙汰になってしまった。普段なら彼女と彼女の娘の将来について会話をする時間なのだが、今日からはその会話をすることが出来ない。

 彼女には、もう俺達と話す明日がない。

「少し早いけど、娘から離れるわ」

 いつの間にか、彼女の娘は、また彼女へと入れ替わっていた。俺に背を向け、左手は腰に右手は頭に当てている。

 その少女らしからぬ憮然とした態度が、今日から見れないというのは酷く寂しい。

「やり残したことはないのか?」

「やり残しは幾らでもあるわ。だけど、それではいつまで経っても娘に体を返すことが出来ないから、今日という日に決めたのよ」

 彼女は振り返り、俺に右手で指を差す。

「貴方、変な私を見ているのが楽しいって言ったわよね?」

「ああ」

「何を仕出かすか分からなくて面白いとも」

「ああ、言ったね」

 彼女は両手を腰に当てる。

「それを教えて貰ったから、大丈夫」

 俺は首を傾げる。彼女の言っていることが、今一、分からない。だから、何だというのか?

「これから私は関われなくなるけど、娘を見て、貴方を見て、見続けて、ずっと見続けて……楽しむことにするわ」

「楽しむ?」

「私の娘が何を仕出かすか分からない、楽しい未来を見続けるの。貴方が何を仕出かすか分からない、楽しい未来を見続けるの」

 俺はニヤリと笑う。

「ほほう。俺の立場を君が奪うつもりか」

 彼女はフフンと鼻を鳴らす。

「そうよ」

「それなら生涯ずっと、俺にとり憑くがいい。君のような霊なら大歓迎だ」

 しかし、彼女は笑いながら首を振る。

「残念だけど、それは出来ないわ。もし、私がとり憑くなら娘の守護霊になるって決めてるから」

「ならば、しょうがない。君の娘を出されれば、譲らないわけにはいかない」

 彼女は頷くと憑き物が落ちたように穏やかな顔で自分を抱きしめて、目を伏せる。

「じゃあ、今から娘から離れるわ」

 彼女が彼女の娘から抜け出る時が来た。

 既に彼女達の中では、話が終わっているのかもしれない。今日は二人が会話をするところを見ていない。朝食でも彼女の娘は、いつも通りだった。

「……ママ……」

 だけど、そんなはずはなかった。彼女の娘は、俺よりもずっと幼いのだ。俺以上に諦めがつくはずがない。

 彼女の娘は自分を強く抱きしめていた。母親が抜け出るのを止めるように……。

 自分の中から母親が居なくなるというのが避けられないことは、彼女から何度も言い聞かされていたに違いない。自分が自分であるために生きることを、彼女は何度も話して理解させていたに違いない。

 だから、朝食では普段どおりを装ってみせた……。

 しかし――

「離れたくないよ……。ずっと一緒に居てよ……」

 ――彼女の娘は本音を隠せなかった。

 彼女の娘にとって、彼女は普通の母親以上に特別だ。どうしようもできない親権を無視して命を懸けて助け出してくれて、死んで悪霊になっても母親であろうとしてくれた。そして、今度は娘の将来のために娘と別れる決断をして身を引こうとしている。

 涙を流す彼女の娘の顔が穏やかな彼女の表情へ変わっていく。

「大丈夫……。貴方の中の私の想いはずっと消えないし、私はいつも側に居るよ……」

 彼女の言葉に偽りはない。抜け出ても娘を見守るだろう。今までだって、身をもって証明してきた。

「ごめんね……。他の子よりも早く親離れをさせなくちゃいけなくて……。子供から大人になるのを無理に強いることになって……」

 彼女が更に自分を強く抱きしめた。

「だけど、他の母親が詰め込める以上の愛を貴女には詰め込んだから……。一緒に過ごした日々を一日だって無駄にしなかったから……」

 彼女は目を伏せ、静かに目を閉じた。

「しっかりね……。愛してる……」

 彼女の金毛がふわりと上がり、ゆったりと背中に戻ると彼女の娘は叫んだ。

「ママ――ッ!」

 彼女の娘は、自分の中の一部が抜け出たことが分かったのだろう。胸を押さえ、ただひたすらに涙を流し続けていた。本当に愛してくれていた母親との思い出は短い年数でも、計り知れない。その喪失感は言葉では言い表せないに違いない。

 俺は蹲っている彼女の娘の背に右手を置く。

「今は泣いていよう……。でも、それ以外は笑っていよう。見守る彼女がいつも笑っていられるように」

 彼女の娘は顔を上げると、俺に抱きついて大きな声で泣き続けた。この純粋な行為が嬉しい。彼女の娘を想う気持ちが本物であったから、彼女の娘は泣いている。本物でなければ、この涙は有り得ないのだ。

「彼女が大事なものを君に残してくれた」

「……うん」

「俺も、それを大事にしたい」

「……うん」

 彼女の娘は目元を擦る。

「おじさん……」

「何?」

「……随分前に、わたしに将来何になりたいか、聞いたのを覚えてる?」

「ああ、覚えてるよ」

「その答えが――将来、何になりたいか、今、分かった気がする」

 彼女の娘は彼女がよくやっていたように自分の胸に右手を置く。

「わたしはママみたいな一日も無駄にしない大人になりたい」

 泣きはらした赤い目はとても力強く、彼女を想いながら心配させないように優しく発せられた。強がりではない。大事な母親だからこそ、忘れずに目標にした誓いの言葉。

 俺は彼女の娘の頭に手を置いて肯定する。

「きっと、なれるさ」

 彼女の娘は何度も頷き、『頑張るね』とまた誓いの言葉を口にした。


 彼女が居なくなってしまった日……。

 それは彼女の娘が大人になる決意をして、自分の未来を歩き出すことを胸に刻んだ日でもあった。

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