彼女が娘に教えたかったこと、伝えたかったことが、日に日に実行されていく。
強制参加という条件なので、俺は普段やらない手料理を一緒にさせられたり、隣町に発見した合気道の道場への送り迎えをさせられたり、一人だけの生活なら絶対にしないことをさせられ、とても有意義な日々を送っている。
そんな日々の中で改めて感じたのが、『何かをする切っ掛けを手に入れるのは難しい』ということだ。彼女に付き合わされているから、新しいことに挑戦をして新しい発見があり、結果、充実した日々がある。これははっきり言って、今までの生活と正反対だ。
今までは『何かをする』ということに対して、自ら行動を起こすことはなかった。理由は、新しい何かをする時にどうしても品定めをしてしまい、『やってみようか?』という時点で踏み止まるからだ。そして、やらないで終わるのがほとんどだ。
だから、これまでの俺には目的も何もなかった。
――じゃあ、何で目的もなしに生きているのか?
生きているから、ただ生きている。そうとしか答えられない。
――だが、転機は訪れた。
自分だけでは変化が起きない俺のところに、彼女が現れた。
彼女の存在は『何かをする切っ掛け』を俺に否応なしに与え、否応なしに巻き込んでいく。真剣にやるべきことを成そうとする彼女に怠慢はなく、手を抜かない。それを見せ付けられると、彼女に関わることに手を抜けなくなっていた。
俺だけ手を抜くのを否定させられるのだ。
また、彼女の娘が出す成果を心の何処かで喜んでいる自分にも気付いている。俺は、完全に彼女達に屈服させられていた。
…
思い出が心に焼きつき、夏が過ぎ、冬が過ぎ、季節が変わる度に一日一日が色濃く満たされていく……。彼女の軌跡が詰まらなかった日常を詰まらなくないと否定し続け、今ある日常を特別なものへと変えていく……。
だけど、暑い時期と寒い時期を三回繰り返せば、約束された彼女との別れの日は直ぐそこまで迫っていた。
三年という月日は、何て短いのだろうか……。
…
最後の冬――。
二年と半年の間に背が高くなり、顔の中に幼さ以外の何かを宿し始めた彼女が振り返る。
「娘の学芸会の発表があるの」
彼女にとっては、最後の発表会になる。彼女の娘の通う小学校では奇数年に合唱コンクールを行い、偶数年に学芸会を交互に行なうことになっていた。
「今年は何をするの?」
「シンデレラだって」
「六年生がするには、少し幼稚というか……」
「ええ、分かるわ」
彼女は自分の金髪を右手の指で梳かし、アピールする。
「この髪を活かすために、外国の御伽噺にしたみたい。私の血を引いていなければ、先生にこんな気遣いをさせなくても良かったのに」
「そうか」
「でもね……」
彼女が溜息を吐いた。
「劇の役を決める時、クラスの皆が、この子をシンデレラって思っていたわ」
「まあ、そうだろう」
「だけど……いの一番に手を上げて立候補したのが継母の役なのよ」
俺は激しくテーブルに頭突きをかました。あの子は間違いなく変な方向に育ってしまった。
俺は額を右手で押さえて起き上がると、彼女の娘がとった行動を予想する。母親である彼女の、自分を貫き通す強さが娘にも受け継がれているならば、次の展開は容易に想像できる……。
「で、皆の反対を聞かずに、その役を射止めてしまったってことだね」
「そうなのよ……」
もう一度、彼女が溜息を吐いたあと、眉が吊りあがり口調が一変する。
「だって、劇なら思う存分に姑ができるんだもん!」
「やっぱり、そういう理由か」
彼女から彼女の娘へと入れ替わり、継母と姑は別物だという突っ込みも飲み込まされる。
彼女の娘は、この二年半で昼ドラ好きを隠す、猫かぶりの擬態を完璧なものにしていた。そのせいで、彼女の娘の中に変なストレスが蓄積されていたのであろう。
「俺は、別に反対しないけどね」
「さっすが、わたしのおじさん!」
愛人のおじさんからただのおじさんに呼び方も改めさせられ、今や、俺もただのおじさんに格下げである。
「一昨年の舌切りスズメだっけ? あれの意地悪ばあさんの演技は迫真だったよね」
「でしょ? 今年は、あれを上回る演技をするの!」
また脇役が主役を食べるのか……。
一昨年の金髪の老婆の演技は凄かった。爺さんとスズメをいびるシーンは低学年の何人かが泣き出すぐらいだ。そして、演技し終えた彼女の娘の満足顔は天使の微笑みそのもので、あれは完全に間違ったストレスの解放だった……。
「君は中学生になったら、演劇部にでも入ったらいいんじゃないか?」
俺の提案に、彼女の娘は顎の下に右手の人差し指を立てて小首を傾げる。
「どうしようかな? ママの話だと、中学生ぐらいからは我が侭が通らないっていうから……。わたしは悪い魔法使いとか、悪い姑とか、いびる役がやりたいだけなんだよね」
「変に偏ってるな……」
この子には、どういう中学生活が待っているのだろうか。
「わたし、合気道の方も通いたいし」
「そっちも頑張ってるからな」
彼女の方針で通い始めた合気道も最初の方が大変だった。彼女も彼女の娘も合気道というものが分からないまま、教えてくれる先生に勝とうとするもんだから、初回は一時間ぐらい投げ飛ばされ続けていた。変わり番こに入れ替わって……。
まあ、その甲斐あってか、受け身の大事さとか、投げ飛ばされる感覚というのは身を持って知ったわけであり、二年半の稽古でもかなりの腕前になっている。
「彼女直伝の創作料理も出来るようになったし、完璧超人だな」
「超人強度でいうと、何万パワーぐらい?」
何処で仕入れてきた知識なのか、彼女の娘は、俺が返答に困るような質問を切り返す時がある。これは彼女と違う個性の表われであるが、少しマニアック過ぎないだろうか?
彼女の娘は悪戯っぽい笑みを浮かべると、舌を出す。
「冗談。でも、学芸会は見に来てね」
「ビデオでも回そうか?」
「ううん、いい。録画した劇は学校でDVDを配るから、その場の臨場感を味わってよ。わたし、シンデレラをいびり倒して見せるから!」
何とも変な方向に気合いが入った言葉だが、もう諦めるしかない。学校の先生も事前に教えてくれれば、悪役が存在しない劇をやることをお勧め出来たというのに……。
「まあ、そんな感じで少し憂鬱な気分だわ」
彼女の娘から彼女に戻り、こちらは娘と違い、些か意気消沈な雰囲気を漂わせていた。
「君の指導のお陰で、演じることに関しては素晴らしい才能を発揮しそうじゃないか」
「普段、口酸っぱく猫を被って昼ドラ好きを隠せって言っているからよ」
「毎日、当たり前のように演技してるようなものか」
そういえば、彼女の娘が猫を被って緊張したり固くなったりした場面というのを見た記憶がない。そこら辺も、変な度胸がついてしまったというところなのだろう。
「兎に角、最後のイベントだから、貴方も楽しんで」
「そうするよ。ところで――」
彼女は視線だけを俺に向ける。
「――最後のイベントは、マラソン大会じゃなかったっけ?」
「あれは娘の中に入ってる私も辛いから……休む」
「オイ」
自由過ぎるだろう。母親がそんなでどうするんだ。