「あいつの存在は、俺には重すぎた」
しんと静まり返った空気の流れる中、翠の声が死の翳りのように陰鬱な色を伴って舞衣の耳に届いた。
「小学生の頃、俺たちは周りの子どもについていけなくてしょっちゅう身体を壊しては一緒の部屋で寝かされていた。あいつはそれが嬉しかったらしい。俺のそばにいる時はいつも饒舌になっていた。四年の時だった。あいつが訊いてきた。私のことを好き? 急に白けた気分になった」
「あなたたちに友達はできなかったの?」
舞衣の素朴な質問に、翠は苦笑した。
「世の中、他人を助けてくれる人間なんてそんなにいるものじゃないんだよ。俺たちは特に人間関係を築くのが下手だったから」
「妹さんは、友達ができないままあなたに寄りかかり始めたのね?」
舞衣が言葉を選びながら慎重に訊くと、翠の苦笑はさらに歪み始めた。彼の美しい顔立ちが忌まわしい過去のせいで険しい色になっていた。
「俺もまたあいつに依存していた。嫌ならさっさと友達を作って距離を取ればいいのに、それができなかった。俺たちは家でも学校でもくっついていた」
あの年は厳しい寒さだった。三学期の学校で、真冬の冷たい風を受けながら、妹と久しぶりに出た体育の授業。
持久走だった。四年生になって初めて受けるもので、二人はとりあえず参加してみた。スタートラインに立ち、走り始めて数分も経たないうちに妹の息が荒くなった。それに合わせるように自分も息が苦しくなった。結局二人は完走できずに途中で倒れて保健室送りになった。
先生が二人を捜し出してくれて見つかった時、すでに時刻は終了ベルが鳴ったあとだった。クラスの皆は待たされていて、露骨に嫌な顔をしていた。
保健室に運ばれる時、クラスメイトの声が聞こえた。はっきりと。
「足引っ張るくらいなら死ね」
翠はその言葉を聞いて確信したのだった。自分たちは社会の足枷なのだと。自分たちこそが社会のゴミなのだと。まともに学校へ行くこともできない。役目を果たすこともできない。与えられた仕事もきちんとこなせない。翠はすべてを理解した。
いつか死のう。こんな思いをするくらいならこの世から消えたほうがよっぽどましだ。社会のためにもなる。
妹を巻き込んだのは、一人で死ぬのが心細かったからだ。しょせん自分は一人では生きることも死ぬこともままならないのだ。
それから彼女はたびたび翠に愛を問うてきた。私のこと好き? 私は一人じゃない? 翠は何も言えず、適当な返事だけをした。妹をこんな風にしたのは、自分だ。
育ててくれた親に対する罪悪感はあったが、自分が立派な大人になる瞬間はまったくと言っていいほど想像がつかなかった。年を取ってぶくぶくと肥えても、親のすねかじりの身分に甘んじている未来は容易に想像できた。
自分は、あまりにもポンコツな人間だった。
それから翠は、なるべく親に迷惑をかけない自殺のやり方を調べ始めた。首を吊るか、腕を切るか、ほかにもいろいろな方法を学んだ。妹にどの死に方が一番いいのか相談したりもした。二人は死の世界に夢を見始めた。
妹の参考になればと思い、五年生になる時、一人で腕を切った。すぐに発見されて病院に運ばれた。大事には至らないという医師の言葉を聞いて、翠は、死ぬことはそう簡単にできるものではないということがわかった。妹は翠に問いかけた。私のこと好き? ともに死んでくれることを待ち望んでいる目だった。
「……そこから、どうやって一般クラスに編入する決意に至ったの?」
舞衣は静かに問うた。翠は淡々と返した。こわばっていた表情はいくらか和らいでいた。
「単純に、死にたくなくなったからだよ」
「……気持ちが変わったの?」
「ああ」
翠は地面の砂を足でいじくりながら、思い返すように言葉を紡いだ。
「親に泣かれたんだ。両方とも泣いていて、すごく叱られた。もう二度とこんなことするなって言いつけられた。その時、俺はわかったんだ。戦うしか道はないって。死を夢見ることは絶望なんだって。俺はまだ絶望しちゃいけない。生きるしかない。この身体で。そう決めた。でも、あいつはまだ夢を見ていた」
「……それから、妹さんを憎むように?」
舞衣の声がどこか寂しげに聞こえたのは気のせいではないと思った。
「あいつが邪魔だと思うようになった。俺は、あいつの、首を絞める夢さえ見たんだ」
何も疑わない妹。死の約束のことをいまだに信じている妹。翠の目に暗い光が宿った。
「あいつをあんな風にしたのは俺だ。でも何もしてやれない。あいつを救うのは俺じゃない。俺はこのままだとあいつに喰われる。もう離れなければいけないんだ」
翠はうずくまった。こんなことを誰かに話すのは今までになかったことだった。
「一体いつになったら楽になれるんだろう。俺はどこへ行けばいい」
最低な人間だということはわかっている。自分だけ成長して、妹を置いていった。今だってこんなにも震えている。周囲の冷たい態度に、普通の世界へ足を踏み入れたことに後悔している。けれど今さら戻ることはできない。帰る家はない。自ら捨てた。この世の中で本当に一人ぼっちだった。
人の体温を感じた。舞衣が翠のことをきつく抱きしめていた。翠は腕を回して、舞衣の細い身体を引き寄せ、衝動のままに頬に口づけをした。
「ごめん。無力で」
舞衣の肩に顔をうずめて、翠は謝った。ずっと誰かに許しをもらいたかった。舞衣は何も言わず、翠の頭を撫でた。そして首筋に柔らかいキスをした。
くすぐったくて、温かかった。
胸に何かが迫ってきた。
俺は生き残れるのか、のたれ死ぬのか。
未来は俺に対して優しいのか、残酷なのか。
すべてはいまだ混沌としていて闇の中だった。ただ、舞衣が優しく微笑んでいた。嬉しそうに翠にキスを返し、翠のことを包んでいた。この優しさは、きっと過去にもあったのだろうが、いつしか記憶から抜け落ちていた安心感だった。女とは、安心させてくれる生き物なのだと翠はこの瞬間、わかった。本当に優しいのは、女なのだった。
母でも妹でも祖母でもない、赤の他人の女。
込み上げてくるものがあった。翠は上を向き、泣きそうになるのをこらえた。自分の女となった舞衣を抱きしめながら、いつまでも甘く柔らかい沈黙に浸っていたかった。
天井の壁がもうぼやけて見えない。やっと掴んだ居場所を離さないようにきつく抱き寄せるのが精いっぱいだった。
夕莉。お前ももう、大丈夫だよ。
翠は手の甲で涙を拭った。そして、舞衣と手を繋ぎ、薄く汚れた天井のシミを軽くにらんで、その場を去った。
舞衣の手は小さくて華奢だった。けれど翠の手を握る力は強かった。翠もまた痛いほど握り返し、鎖のように繋がった掌は誰の介入も許さなかった。
誰も追いかけてこなかった。自分たちに気づかなかった。他人であふれた人ごみの中を、翠と舞衣は歩いていった。驚くほど気持ちがよかった。ここが、故郷だった。
翠はふいに馬鹿笑いをしたくなった。ちゃんと満たされていたことに気づけなかったあの日々を、生まれて初めて愛しく思った。自分がそう思っていられるのなら、あの子もきっと生き返るだろう。そう信じている。
気がつくと舞衣も笑っていた。街中のざわめきが心地いいリズムのように身に浸透していった。翠は、確かめるように足を踏みしめて、彼女と一緒に家へと帰っていった。
——ただいま。待たせてごめん。
了