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「青花翠」4


 通学路を走り抜けて、駅を通り、だいぶ離れた場所にある広い公園にたどり着いた。


 こんなところまで行くのは初めてだった。公園があったことなど知らなかった。


 走り疲れ、息が途切れ始めて、何度経験したかわからない例の喘息発作が起こった。


 なだれ込むように木陰のベンチに倒れ込んで、胸を抑えた。


 呼吸が苦しかった。あまりに息ができないので涙が出てきた。これは悔しさからではない、発作の反動で出たやつだ。必死に自分に言い聞かせる。


 近くにいる主婦らしき人たちの視線を感じた。好奇の目。異物を見る目。どこへ逃げても、翠を追いかける無遠慮な視線はなくならず、広がる一方だった。


 息切れが治まると、今度はひどい咳が出た。喘ぎ声だけが、喉から情けない音を出して空気に触れた。


 背中を丸めて、身体が落ち着くのを待つ。こうしていれば、何とかその場をしのげたものだった。


 じっとしていると、咳は止んだが、震えるほどの寒気が襲ってきた。身体の芯から冷えて、このまま消滅してしまいそうな気持ちに陥った。学生鞄を抱きしめて凍えるように身を縮めた。


 誰か助けてほしいと、切実に身体が欲していた。


 やがて少しずつ動けるようになり、抱えていた鞄のチャックを開けて、アイフォンを取り出した。


 舞衣、お前に会いたい。俺を見つけて。


 震える指でアイフォンをタップし、メールを送信すると、翠はようやく身体を起こすことができた。喘息発作のような息切れと、そしてもっとひどい症状は、一応止まった。最悪な事態を招いたにもかかわらず、心はなぜかすっきりとしていた。


 ぼうっと空を見上げていた。真っ白な砂漠のような、あるいはあの世の海で泳ぐ舟のような、長く伸びた雲が、どこまでも白く空を覆っていた。


 雲の向こうから、太陽が真上で光を注いでいた。太陽の位置がまだあんなに高い。朝なのか、昼なのか。腕時計を見るのも面倒くさかった。


 アイフォンがメールの振動を伝えた。授業中であるはずなのに、彼女はすぐに返事をくれた。


『すぐに行く。どこにいるの?』


「……返信、はえー」


 翠は思わず吹き出した。ああ、愛されている、と実感した。


 公園のネームプレートを見つけ、名前と場所を特定して送信すると、ふいに彼女を試したくなって、


『何でそこまで俺を庇うの。こんなに馬鹿な生き物なのに』と送った。


 するとまたすぐに受信メールが届いた。


『あんたのことが好きだからって理由じゃ駄目なの?』


 舞衣の文章は、迷いがなかった。きっと彼女は、言いたいことを言いたいだけ、好きなように伝えられる力を持っているのだろう。


 意地で何か洒落た台詞を送りたかったが、ありがとうとか、嬉しいとか、そんな使い古された言葉では納得できなくて、どんな文章を送ればいいのかしばらくアイフォンを握りしめて考えていると、影が下りた。


「翠」


 舞衣が、息を切らして、帰りの支度の姿で自分を見つけ出してくれた。


「……本当に、神出鬼没、だな、お前。ここ探すの、大変じゃ、なかった?」


「この公園、地元じゃ有名ですぐにわかったから。よかった、すぐ会えて」


 彼女はそう言うと、はっと気づいたように、翠の顔中に滴る汗を見て、ハンカチを取り出して翠の顔を拭いた。


「大丈夫? あんた、まさかここまで走って……」


「……うん」


 翠が俯くと、舞衣が背中をさすってくれた。隣に座り、呼吸を整える翠を手厚く介抱した。


 ずっとこうしてほしかった。


 同情ではなく、理解を示してほしかった。


「だいぶ落ち着いてきた?」


 舞衣の甘く響くアルトの声に耳を傾けながら、翠は「もう、平気」と精一杯の強がりを見せた。


 舞衣はほっとしたように息を吐いた。


「ああ、なんか安心したら喉渇いた。ジュース買ってくる」


 舞衣はそう言うと、公園内の自動販売機で飲み物を購入した。翠の分まで缶ジュースを渡すと、再び隣に座った。


「ジュース代、払うよ」


「サンキュー。じゃあちょうだい」


 百三十円を渡すと、二人は冷たい風を頬に受け止めながら、飲み物をごくごく飲み込んだ。


「温かいほうがよかったんじゃね?」


「いやあ、だって走ったら暑くなったんだもん。あんたもでしょ?」


 そう会話しているうち、あの教室にいた時の、震えるような怒りは、いつの間にか治まっていた。今の自分は、驚くほど落ち着いていた。


「俺、家出したんだ」


「うん」


 二人は同時にジュースを飲み終えた。


「どこにも居場所がなくて。家が嫌で、学校が嫌で」


「うん」


「どうしてだろう。あんなにあいつのことが嫌いだったのに、あいつのいるあの家が息苦しかったのに、あいつと同じようにウジウジいじけている。自棄やけになっている。やっぱり血の繋がりは無視できないのかな」


「嫌いってレベルじゃなかったでしょ」


 舞衣は翠を見つめた。


 翠もまた舞衣を見つめる。


 どくどくと心臓が静かな鼓動を立てている。


 彼女は言うつもりだろうか。翠のうちで眠っていた真実を。


「妹さんを殺したいと思ったこと、あるんじゃない?」


 舞衣の挑むような瞳が、翠を捉えた。


「いつからだ」


 翠は問い返した。


「いつから気づいた」


 声がかすれていることに自分でもわかった。目の前の少女が得体のしれない女に見えた。


 舞衣が答える。


「文化祭の時。保健室送りになったあんたを迎えに来たあの子を見た時の表情で。派手に暴れていたわね。目つき、イッちゃってたわよ」


 翠は目を伏せた。一呼吸おいて、青白い顔をしながらぽつぽつと話し始めた。






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