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「青花翠」2


 十時半頃に起きてカーテンの中で制服に着替え、体操着袋を引っ提げながら休み時間に一度教室に戻った。クラス全員分の視線が一瞬そこに止まり、すぐにもとの友達のところに戻って何でもないように話し出す。この光景もだいぶ慣れた。ロッカーに体操着を戻して次の授業の教科書を出し、机に着いてノートを開くと、デイケア組時代に夏央たちから熱心に聞き取ったメモの殴り書きが残っていた。そっか、このノートにも書いてあったっけ。あちこちの授業ノートにいろいろなことを書いてきたせいで、どのページを切り取ってクリアファイルに入れたのか今ではすっかり忘れてしまっている。大人の男性向けのデザインがされているペンケースからカッターを取り出し、メモの欄を切り取る。多少ガタついてしまったが割ときれいに切り取れると、鞄に毎日入れているクリアファイルに新しい一枚を入れた。大人になればきっと変わるよ。いつか誰かが言っていた。誰の台詞だったのか、もう記憶が定かではない。子どもと言わると腹が立つが、大人と言われても少しむっとする。自分はそんな完璧な存在じゃない。でもポンコツとも言われたくない。結局、自分はどっちに転ぶのだろう。大人か、子どもか。またはそのどれでもないのか。翠はぼやけた気持ちで次の授業の予鈴が鳴るのを聞いていた。




 教室に自分の居場所はないので、昼休みになるとさっさと弁当箱を持って保健室へ向かった。舞衣に返すための本も準備して、職員室の対面にある大きな間取りの部屋の扉を開ける。すぐそこに彼女の姿があった。「保険委員」とネームプレートを胸に下げて、二人の保険医と一緒に仕事をしている。もう一人の的場(まとば)という保健委員の女子生徒は、壁の本棚の整理をしている。「舞衣」と声をかけると、飯塚舞衣は翠の差し出した本を受け取って「おもしろかったでしょ?」と得意げに言った。


「実は全部読む時間がなくて、飛ばして読んだ」


「えー、ちゃんと読めよー」


 舞衣は唇を尖らせた。


「だって今の俺ほとんど一人暮らしだもん。部屋の掃除も洗濯も自分でしなきゃならないし」


「学生寮はコインランドリーとクリーニング屋が備えられているし、食事も三食ちゃんと作ってくれるでしょーが」


「それでも家にいる時と違うんだよ」


 翠が多少むきになると、舞衣は「まあ、学校の課題もあるしね」とあっさり引いた。彼女のいいところは、言葉の駆け引きが上手いところだ。相手の感情を敏感に感じ取り、その場の空気が悪くならないように最善の注意を払う。翠に限らず誰に対しても態度を変えないので、きっと彼女を信頼する仲間は多いのだろう。


 飯塚舞衣は、一つ年上の二年生で、夏央と同じ保健委員だった。週に二日保健室で作業をこなし、夏央と入れ違いにここへ来る。毎日のように保健室で昼休みを過ごす翠は、頻繁に出会う夏央や舞衣などの上級生たちとだいぶ話せるようになっていた。舞衣と同じクラスであり友達の的場という女子生徒も、優しくて気遣い上手な先輩だ。同じ学年のクラスメイトより、余裕のある落ち着いた上級生たちと関わるほうが楽しかった。彼らは一つ学年が違うだけで、見違えるほどに大人な対応をしてくれた。年が一つ上になると、これほどまでに成長するのかと、翠は彼らをまぶしく思った。自分もいつか、こんな風になれるのだろうかと。


 広いテーブル席で食堂の料理担当のものが作ってくれた昼ご飯を食べていると、舞衣がすっと横に座った。


「あまり意気地になりなさんな」


 一時限目の体育の騒動のことを言っているのかとすぐに気がついた。


「お前らみたいな人間にはわかんねーよ」


 ふんと鼻を鳴らすと、舞衣は困ったように笑って「まーた、そういうこと言う」と頬杖をついた。


「あんたは普通扱いしてほしいのか気遣ってほしいのか、どっちなのよ」


「どっちでもねーよ」


「曖昧だなあ」


 舞衣はそう言うと話題に興味を失くしたらしく、再び保険医の机のところに戻った。そして的場と一緒に楽しげな会話をしながらチェックリストらしきものを作成している。翠は無言でご飯を口に入れた。


 舞衣は綺麗な女の子だ。


 芯の強そうな、それでいて愛嬌のある目をしている。今日はストレートに伸ばした長い髪を、仕事のため一つに縛っている。はきはきした物怖じしないしゃべり方で、周りからの信頼も厚い。夏央や冬華とは腐れ縁だと言っていた。この二人と彼女はどこか似ているので、波長が合うのだろう。三人で仲良く廊下でしゃべっていたのを見たことがある。


 入学式の日、翠はデイケア組の名簿を一般クラスのボランティア部に渡す係を自ら志願した。そして一般クラスに接触した。ボランティア部のメンバーに先に会いに行き、できたらあなたたちのところへ行きたいと申し出た。皆は一瞬きょとんとした顔になったが、部長の三年生が「いつでもおいで」と言ってくれたのを合図にそれぞれ優しい言葉をかけてくれた。あの時に思い込んでしまった。普通の人はちゃんとわかっていると。けれど実際移った先に待っていたのは、無知という名の遠慮のない視線だった。


 舞衣とは夏央姉弟を通して知り合った。彼女の分け隔てなく接してくれるやり方に、すぐに翠も心を開いて、気がつくと参考書や本を借り合う良き相談相手になっていた。彼女はボランティア部ではなかったが、しょっちゅう部室に遊びに来ていた。「お前、暇人かよ」と投げかける夏央に「どこの部も入ってないもん」とからかうように返す彼女は、いつでも楽しそうで、親しみ深い雰囲気があった。そしていつも周りに人がいた。取り巻きというほど熱狂的なファンではなくて、友達という言葉がピッタリな関係の仲間が。舞衣は時々友達を連れてきたりもした。その一人が的場である。的場は比較的おとなしい女子で、あまり多くを語らない人だった。舞衣の後ろをついて歩いて、適度に盛り上がった現場を崩さないような引き際を知っている者だった。「そろそろ戻ろうか」と的場が言うと、舞衣も素直に従った。この二人の関係が理想だった。


 ご飯をすべてたいらげて弁当箱をしまうと、チラッと舞衣を見た。的場と何やら話し込んでいる。委員の話だろうか。それとも何気ない会話だろうか。翠はテーブルから二人の姿をじっと見つめていた。


「ん、どうした、翠? 寂しいのか?」


 舞衣が気づいて、椅子の背もたれから振り向いた。


「馬鹿か。俺はちびっ子じゃねえよ」


「でもあんた、『かまってちゃん』でしょ」


「はあ!? ちげーよ! どこがだよ!」


 翠が顔を真っ赤にして怒ると、舞衣が「だって、あんたは何か言いたいことがあると、後ろからじっと見つめるじゃない。熱い視線を」とおもしろそうに言った。


「いつ俺がそんな女々しいことしたよ!?」


「……自覚ないのかよ」


 今度はあきれたように溜め息を吐く舞衣に、ああ、全然勝てない、と翠は思った。いつだって彼女のほうが一枚上手だ。悔しいような心地いいようなぼやけた感覚に揺られる。


「仲いいわねえ、あなたたち」


 年配の保険医がほんわりと言った。もう一人の保険医もニコニコと微笑ましそうに見ている。


「そりゃあ、こいつ、かわいいですからねえ」


 舞衣がしれっと言い放ったので、翠は口にしていた売店の麦茶を吹き出しそうになった。


「ねえ、的場、この子かわいいよね」


「うん。弄りがいがあるわ」


 舞衣と的場がクスクス笑い合って、翠は次に口にする暴言を考えていたが、沸騰した頭は見当はずれの台詞しか出てこなくて、わなわなと震えるばかりだった。スッとした控えめな目もとと奥ゆかしい顔立ちとは裏腹に、的場は少々からかい好きのようだった。


 食べ終えた弁当箱を抱えて、席を立つ。「あ、図書室?」と声をかける舞衣を無視して、保険医二人に頭だけ下げると、翠はバタンと扉を閉めた。


 教室に戻り、他人の笑い声であふれた中にある自分の机に行き、鞄に弁当箱をしまって上の階へ上るため南の階段に向かうと、舞衣が先に待っていた。


「図書室でしょ?」


 舞衣は当然のように翠の行きたい場所を言い当てた。


「……神出鬼没かよ、お前」


「先輩に向かってお前呼ばわりしない!」


 また無視してスタスタと階段を上ると、舞衣はさっと駆け上がって翠の前をずんずん進んだ。相変わらず自分が主導権を握りたがる女の子だ、と翠はあきれ気味に思った。


「図書室が地下じゃなくて上にあるっていいよね。やっぱりお日様の光、浴びたいし」


「ふーん」


「三階なのもポイント高いなあ。上過ぎず下過ぎず。窓見るとちょうど空と地面が絶妙なバランスでさ」


「確かに景色はいい。落ち着く」


 何気なく口にした言葉に「だよね!? この感覚わかってくれる人ほかにいないと思ってた!」と舞衣は異様に喜んだ。「はしゃぎ過ぎだろ」ぴしゃりと言い放っても彼女は「最近、私はファンタジーにはまってるの。あんたはミステリーだったね」と明るく返す。とことん自分のペースに巻き込みたいらしい。翠も観念して彼女に歩幅を合わせた。


 三階に着き、南側の廊下に面している木の色をした大きな扉を開く。日の光が当たって少しだけ明るい色合いに染まったドアノブを下げる。カチャン、と軽やかな音がした。中に入ると昼休み中の図書室はけっこう生徒がいて、周りに注意してささやき合いながら静かに本棚を探す者であふれていた。この部屋は一階の保健室の次に広い大部屋で、蔵書数はちょっとした自慢になるほどアピールできる数だった。


 文庫本のコーナーに寄ると、二人は自然と各々好きに行動し始めた。翠は巨匠と名高いミステリー作家の列へ。舞衣は外国のファンタジー文学のところへ。しばらく本棚を眺め、適当なものを物色し、受付カウンターで図書カードに貸出しのデータを入れてもらうと、空いているテーブルに着いてそれぞれの持ち出した本を見比べた。


「アガサ・クリスティーか。王道だね」


「まだ読み始めて間もないから。もう少ししたらマイナーなのも読んでみるつもり」


「ミステリーって、本格派とそうじゃないやつって区別されているけど、あんたはどっち?」


「どっちもいいところがあると思うから、両方だな」


「そうなんだ。私はこれにしたー」


 舞衣の差し出した本は、外国でベストセラーになったシリーズものだった。


「それ、どっちかっていうとSFじゃね?」


「え、マジ? 本格ハイファンタジーかと思ったんだけど」


「俺、SFと本格ファンタジーって、あまり区別がつかないんだけど」


「私もー。読書家から見たら、私たちって本のミーハーかもね」


 舞衣がおかしそうにクスクス笑う。その横顔を見て、鼻筋のラインがきれいだな、と思う。別のテーブルで勉強している生徒たちがいるので、ひそひそささやくような声で言葉を交わしていたが、知らず盛り上がっていたようで、ちらりと視線を向けられた。あわてて声を落として作家のプロフィール欄のページをめくる。翠も舞衣も、壮大な物語を紡いだ作者の著作歴を見るのが好きだった。どこで生まれたのか、どんな学歴だったのか、どのようにして作家デビューしたのか、それこそ一人の人生の物語を見るみたいで、わくわくした。最初にそのことを舞衣に告げた時も「こんな趣味持ってるの、私しかいないと思ってた」と彼女はパッと花が咲いたように笑った。気がつけば、二人は一緒に図書室へ行く仲になっていた。


「この作家、遅咲きだったんだね。四十代でデビューだって」


 舞衣がこっそりとささやいた。生まれ年とデビューした年を計算していたらしい。


「この人のほうは三十代デビューだな」


 翠も手にした作家のデビュー年を数えた。


 楽しいと思った。彼女といる時間が、いつしか癒しになっていた。自分一人きりで図書室に通って本を物色していたあの時が、まるで遠い過去のように思えた。無理にしっかりしなくてもいいというのは、飾らないでいいということは、翠にとって大きなことだった。


 あら、かわいい子ね。


 初めて会った時、彼女はそこらへんにいる野良猫を見つけたかのような調子で言った。特に何の感慨もなく、けれどお世辞というほどの嫌味でもなく。


 デイケア組?


 彼女が何の気なしに尋ねたので、翠はこくりとうなずいた。ボランティア部に遊びに来ていた彼女とは、その日は二言三言交わしただけで終わった。しばらくしてまた会い、日常会話のような他愛のない話をして、別れ、そして数日後、再び会って少し深い話をして、気がつけば自分の隣に彼女は歩いていた。そして同時に、妹はどこか遠くへ行った。自分が遠ざけた。後悔はなかった。むしろ清々しかった。それなのになぜ、時々胸がつぶされそうに痛むのだろう。


 本を開き、文字を追うことに集中し始めた舞衣を邪魔しないように、自分も読書にふける。お互いがお互いのペースを乱さないこの関係が何よりも心地よかった。


「保険係になんかならなきゃよかったなあ」


 ふいにその言葉だけが翠の耳に大きく響いた。周りを気遣うひそひそささやくような声だったのに、なぜか矢を放つようなスピードで突き刺さった。


「うちのクラスにさあ、移ったやつなんだけど、これが大変で」


 今朝、翠を保健室まで連れて行った彼の声だった。男子にしては少し抑え目な声が、溜め息交じりに吐き出された。


「体育なんかできるわけがないのに、聞かん坊みたいに出まくってさ、それでお約束のように倒れるの。笑っちゃうだろ」


 彼の友達が一笑した。


「女子たちがさあ、もう、かわいそうって感じで、優しくしてて。皆が皆そいつの面倒見てくれてるの。どこの箱入り息子だよ」


 まあ、顔がいいから。女は面食いだしな。まさか一番楽そうだった係がこんなことになるなんて思わなかったよ。二人の男が笑い合っている。翠のすぐ後ろで、翠と同じように本棚を眺めている。そして一冊の本を取り出して、翠のすぐそばを気づかずに通り過ぎていく。一瞬、彼の持っていった本の背表紙が見えた。研究資料のようだった。


「外に出ようか」


 舞衣の声が聞こえた。聞き心地のいい柔らかな甘い声。


「今日、いい天気だし」


 翠が答える間もなく、舞衣は席を立ってスタスタと歩いていった。翠は凍りついて動かなくなっている全身を何とか動かして、強い衝撃を受けたような痛みに揺れている頭を抱えながら、彼女に追いつこうと小走りで図書室を出た。





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