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第三章 「青花翠」1


 記憶の中の妹は、いつも泣いていた。厳格な祖母に叱られ、両親も働いていて家を留守にしていたため、泣きつく先は必ず兄の自分のところだった。翠はその時、この無力で小さな妹を突き放したら、置いていったら、どうなるのだろうという思いにかられた。それは唐突で、現実味のない邪念だったけれど、やけにリアルに翠の頭にこびりついていた。


 祖母は、妹のほうをよく叱っていた。泣きわめく頻度が自分より多かったからだ。翠は身体の具合の悪さでだるく沈んでいたことはあっても、喘息が起こる夜以外はわりと静かだった。悪目立ちしていたのはたいてい妹だった。


 翠の記憶に鮮明に残っているのは、大学病院の診察室だ。


 大人の男の先生が、聴診器を翠の胸に当てて真剣な顔で考えていた。診察台のベッドに寝かされ、何やらごちゃごちゃした機器をつけられた。あの時の母の不安そうな顔は、ずっと翠の脳裏に焼き付いている。妹も一緒に連れられて、父の付き添いで診察を受けた。


「ぜんそく」という言葉は、当時の自分にはまだぴんと来なかった。診察を終えて会計待ちの座席に座っている時、母が妹の手を握って父の横顔を果てのない悲しみのような表情で見つめていた。父は、一言、「嘆いても何も始まらんぞ」と言い切った。それは突き放しているようでどこか温かみのある言葉だった。翠たち四人家族は、黙り込んでいた。


 帰り道、母がレストランで昼食を取ろうといいだした。「だってこんな時間になっちゃったじゃない」と明るく言い、近くの大型ファミリーレストランを見つけた。その声はどこか無理のある明るさだったが、父も合わせて「お前たち、何が食べたい?」と優しく問いかけた。翠は妹の手を握って車道側を歩きながら、「ラーメン」と言った。すると両親はおかしそうに「もう少しほかのものも食べなさい」と笑った。翠はどことなくほっとした。妹は頭が痛むのか、翠の手をギュッときつく握りしめて俯いていた。


 昼時が近い病院からの帰り道は、車が頻繁に走っていて、翠は気をつけて歩行者の白線の内側に妹を歩かせた。親からのいいつけで、それはもう身に沁み込んでいたことだった。


 空の色は、まだ思い出せない。





 三学期が始まった真冬の雲一つない晴天。翠はジャージのファスナーをしっかり締めて持久走の準備運動をしていた。周りの生徒たちは適当に身体を動かしながら、仲間と気だるげな会話をしている。日光が気持ちいいのか、寒い寒いと言いながら女子たちは互いの手をさすり合っている。翠は一人外れたところで身体を温かくさせるために勢いよく手や足をのばしていた。準備運動さえしっかりやっていれば、少なくとも倒れるようなことはいい加減ないだろう。


 体育教師が合図をして、皆は一列に並んだ。翠は一番端の位置に行き、深く息を吸った。笛が吹いた。わっと皆が一斉に走り出した。友達同士と並びながら、三十人の生徒たちは思い思いに固まって校舎一周の持久走に励んだ。


 真冬のランニングは気持ちがいい。冬は早朝がいいものだと枕草子が書いていたが、長い時を経た今の日本でもそれは当てはまるようだ。しんと冷えた空気に風が頬を撫で、吐く息が白く見える一時限目の授業。翠は皆に遅れないように走るスピードを調整しながら、夕莉のいるデイケア組の校舎の裏を周るため、生徒たちの後ろをついて行った。


 下り坂に差し掛かり、草木の生い茂る裏道を慎重に走る。下りの走りは勢いがつくが、スピード調整が難しい。ここでバランスを崩す者も少なくない。自分もその一人なのだが。


 今日は大丈夫。そう言い聞かせて、翠はチラッとデイケア組の校舎を見た。窓に目をやると、窓際の生徒たちのほぼ全員がつまらなそうに頬杖をついて外を眺めていた。よっぽど退屈な授業なんだな、と翠はふと笑いたくなった。夕莉を探していた。無意識に。名字は最初だから、席替えをしていなければ最前列の窓際の席のはずだ。注意深く視線を動かしたが、夕莉の姿は見えなかった。学校を休んでいるのだろうか。自分は今、実家にはいないので彼女の事情は分からない。


 自分は彼女を捨てた。そのはずなのに、今もなお面影を追っている。自分の片割れを。分身を。


 校舎を過ぎ、坂を下り終え、Uターンして上り坂に差し掛かる頃、息が切れ始めた。とたんに呼吸が苦しくなり、ゴホッと嫌な咳が喉から出た。徐々に失速する。だめだ。倒れてはいけない。迷惑をかけてはいけない。自分はもう普通の人間なのだから。翠は懸命に自身に言い聞かせた。けれど足がもたつき、重くなった。汗が噴き出ていた。ジャージのファスナーを開けて半そで姿になる。腰にジャージを巻き付け、息を大きく吐いて吸ったりしながら、緩やかな傾斜を進む。上り坂は皆にとってもきついらしく、すでに歩いている生徒がいた。せめてこの人には負けたくないと思い、走る速度を落とさずに坂を駆け上がる。先まで、あと少し。上り坂を超えたら次は本校舎に戻るだけだ。できる。もう何度も失敗したのだから、今度こそは走り切る。


 それでも、息は途切れ始めていた。翠の意思とは裏腹に、身体は悲鳴を上げている。急に、目の前が暗くなった。大きな黒い丸穴が点々と視界に見え始めた時、景色がぼうっと色を失くし、頭が非常に熱くなった。坂を上り切ったと思った瞬間、体重を支え切れなくなって、翠はガクンとそのまま地面に倒れた。





「保健係、あとは頼むぞ」


 体育教師に背負われて本校舎の校門に着き、クラス全員の目に見つめられながら翠はよろよろと二人のクラスメイトに腕を引かれて保健室のほうへ歩いた。体育教師が自分を探している間、クラスの皆がどんな話をしていたのか簡単に想像できた。あいつ、まただよ。もう体育出ないほうがいんじゃないの? 何で出るの? 迷惑かけんなよ。彼らはこういう会話を翠に直接聞かれないように陰でかわすのが実にうまい。巧妙に翠のいない隙を狙って、翠がどれだけ自分たちのクラスの足を引っ張っているのか語り合うのだ。笑顔だけ取り繕って、他愛のない日常会話を混ぜ、翠に愛想笑いをしながら口裏を合わせて貶める。こんなクソみたいなクラス、早く無くなってしまえばいいのにと翠は仕返しに思っている。それが態度に現れているようなので、翠の周りから人が消えるのは案外早かった。もともといたわけではないが。


 体育教師のもとに集まる皆の楽しそうなざわめきから外れて、翠は二人の保健委員に支えられながら下駄箱で上履きに履き替え、ホールを通って保健室へと入った。


「青花、やっぱりデイケア組に戻ったほうがいいよ」


 扉をノックする間際、普段は温和な性格で知られている控えめな顔立ちの男子が、つぶやいた。


「それ、喘息だろ? 今日だけじゃなくて普通の授業でもしょっちゅう発作起こしてるじゃん。俺はよく知らないけど、喘息って深刻なやつって聞いたし、お前の場合はまさか死にはしないだろうけど、やっぱりさ、無理だよ。ハンデを抱えた人が、その、普通の人と一緒に……ていうのは、まだ難しいんだと思う」


 男子生徒は丁寧に、それとなく言葉を濁して言った。左側についているだいぶ背の高い男子のほうも、黙って相方の話を聞いている。そして同意するようにうなずく。


「せめて体育だけでも休んだら?」


 男子生徒は気遣うように声色を変えた。


「……普通学級に、体育は必須科目だろ」


 翠はだいぶ整った息で、言葉尻を強めた。


「でも身体の弱い人は大体が見学しているよ」


「俺はそんなやつらと一緒のカテゴリーに分けられたくない」


 男子生徒はあきれたように溜め息を吐いた。


「お前は普通の人間じゃないじゃん」


 じゃあ、お前たちは? お前たちは何をもって自分たちを普通の人間だと思い込んでいるのか。いつ俺たちが「普通以下」の人間だと区別したんだ。デイケア組のことを知りもしないで、よく面と向かって自分たちは優しい人間ですと言えるな。喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、何かに熱く燃えたぎっている頭と心臓の鼓動を感じながら、翠は保健室の扉を開けた。保険医がすぐに来て「青花君ね。そこに座って」と的確な指示を出した。「保健係さん、いつもありがとう」と若い保険医が笑いかけると、男子生徒二人は照れたように頭を掻いて「じゃあ、またな」と去っていった。大人の前で一瞬まるで友達のように振る舞った二人に軽く殺意を抱きながら、翠は指定された奥のベッドにドサッと倒れ込んだ。「まずは水を飲みなさい、水を」と年配の保険医が小さな冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いで翠の前に持ってきてくれた。だるく身体を起こして水を飲み干す。「二時限目はここで休みなさい。私あなたの制服持ってくるから」と年配の保険医がカーテンを閉め、早足に保健室を出た。若いほうの保険医が「今日の昼休みの当番は一組の飯塚さんと的場さんです」と柔らかく告げた。翠は目だけで了承の合図をし、布団をかぶって壁側を向いた。若い保険医が察したように静かにその場を離れ、タイプライターらしきものを打つ音だけが部屋に響いた。今日は舞衣が来る日か。あいつに借りた本、まだ読み終わってないや。うつらうつらとしながら彼女のことを思っていると、年配の保険医が帰ってきた気配がした。保険医はそっとカーテンを開けて、眠りに落ちかけている翠のベッドの端に制服を置くと、自分の持ち場に戻っていった。母親のような深い優しさに包まれているような気がして、家族のことを思い出した。父、母、そして妹。あの三人は自分のいない家でもいつも通りに過ごしているのだろうか。決まった週に必ず三人からの手紙が来るが、翠は両親にしか返事を書かなかった。たった一度、最後の別れのつもりで一冊の愛読書とそれに沿った一行の文章を当てて出したことを除いては。


 妹は、いつになったら自分のことを忘れてくれるのだろう。






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