気温が下がったな、と週末の天気予報を見て、佳純は夕莉に連絡しようかどうか迷っていた。
文化祭明けの学校は皆何かに燃え尽きたような様子でだらだらとした空気が流れていた。もっともその様子が顕著なのは本校舎の生徒たちで、デイケア組の地下の校舎にいる佳純たちはいつもと変わりなかった。大きな学校行事は終わり、あとは冬休みを待つだけとなった。夏央たちの学年は修学旅行があったが、九州地方に三泊四日で出かけるだけだと特に何の感慨もなく言い切った夏央と冬華は、今ちょうどその時期で学校を留守にしている。文化祭のすぐあとだと気持ちの切り替えが大変だろうな、と佳純は思いながら、もう一つの重要事項をいつ彼女に伝えようか考えていた。
私があそこを出て行ったら、夕莉は一人ぼっちになる。
彼女の涙に濡れた顔を想像した。驚くほどすぐにその映像が頭に浮かび上がってきて、つまりそれほど夕莉はよく泣いているということだろう。
あの子は、本当に笑わない子だ。
夕莉のことを思うと、胸がズキリと痛む。捨て犬を腕に抱いた時のような悲しくて見捨てられないような気持ちになる。それでも佳純は知っていた。自分は彼女を置いていくと。そして初恋の人と同じ環境に飛び込むと。夕莉の情は重すぎる。がんじがらめになった愛だ。しかし自分も似たような人間なので彼女のことを批判することはできなかった。
居間のソファーに体育座りの姿勢で足を抱え、テレビに映る明日の天気を見た。曇り時々晴れ。秋雨前線の通過する時期の中で久しぶりに晴れ間がのぞくのかと思考に耽りながら、聡子の夕飯の手伝いをした。聡子は手際よくキャベツを千切りにしている。佳純は味噌を研いで三人分の具材を取り分けた。「もうご飯ね」と聡子がカツを揚げて皿の上に手際よく乗せ、千切りにしたキャベツをさっと乗せた。佳純がそれを持っていき、その時にちょうど稔もやって来てテレビを見始め、聡子が味噌汁を盛り分けて食食卓に運んだ。夕飯の準備が整い、皆で「いただきます」とご飯に手をつけた。何度この幸せな瞬間を経験しても、あの時兄に抱えられて見上げた夕空の美しさは忘れられなかった。自分の居場所は、どこなのか。佳純はまだわかりかねていた。
「おはよう」
夕莉に声をかけられて、自分がぼうっとしていたことに気づいた。朝の読書時間がもうすぐ始まる時だった。ギリギリに着いた夕莉を見て、「おはよう。今日は遅いね」と笑顔で返した。「うん、ちょっとね」と言う夕莉の顔はどこか嬉しそうだった。
一緒に登校することはもうなくなっていた。それは合図も何もなくごく自然に訪れた。どちからともなく二人はそれぞれ好きな時間に学校へ行っていた。ただ家へ帰る時は相変わらず一緒だった。隣を歩く夕莉は、最近は佳純の左側を歩く癖がついていた。
担任教師が入ってきて、十五分間の読書は始まった。佳純はそろそろ読み終わるティーンズ向けの小説を広げた。ちらりと夕莉の背中を見ると、彼女はびっしりと隙間なく羅列された文章の本に集中していた。何やら難しそうだな、と思った。
「何読んでいたの?」
昼休み、机をくっつけて弁当箱を広げ、佳純は夕莉に尋ねた。すると彼女はぱっと花が咲いたように笑った。
「お兄ちゃんが私に送ってくれた本」
びっくりして、思わず箸を落としそうになった。あの冷たい美貌が一瞬で佳純の脳裏に浮かんだ。
「す、すごいじゃん! 連絡があったの?」
「うん。昨日、包装されて家に送られてきたの。宛先見たらちゃんとお兄ちゃんの字だった。手紙もついてて」
佳純は逸る心臓で「へえー」と上ずった声を出した。この二人に進展があったことは何より嬉しい。翠はまだ妹のことを見捨てていなかったのだ。
「どんな本なの? 小説?」
「ちょっと昔の本。文章もいっぱいあって、内容も難しくて、挿絵もないから少しずつしか読めないんだけど……。お兄ちゃんの手紙に『最後まで読め』って書いてあって」
「じゃあ、ちゃんと読まなくちゃね」
夕莉は「うん」と照れながらうなずいた。今日は食欲もあるようで、ご飯を進めるのが早かった。その満ち足りた表情を見て、佳純は、きちんとこの友達に本当のことを話そう、と決意をした。今の彼女になら、すべてを打ち明けてもいいと思った。
午後の授業を終えて、夕莉とともに歩く帰路。佳純は三学期から翠と同じ一般クラスへ編入することを告げた。移るクラス先も知らされていて、翠とは違う組だったが、移動教室の時間割次第では鉢合わせることもあり得るということも話した。そして、彼に恋をしていたことも。
夕莉は、もう泣くようなことはなく、ただ静かに聞いていた。佳純としっかり目を合わせ、「そうか。がんばってね。大変だろうけど」と笑みを浮かべた。その微笑を見て、彼女も兄と同じく、とても美しい少女なのだということを佳純は思い知った。
なんてきれいなのだろう。
ふいに泣きたくなった。勝手に進路先を変えたのに、何一つ相談すらしなかったのに、彼女はすべてを受け入れていた。夕莉に涙を見せたくなくて、顔をそらした。それきり二人は黙った。しばらく肩を並べてゆっくり歩いていると、夕莉がぽつりと言った。
「実はあの本、途中の内容を飛ばして、最後の結末読んじゃった」
彼女は「へへへ」と笑った。佳純がポカンとしていると、夕莉は悪戯っぽく肩を小突いた。
「好きなら後悔しないように勇気出しなよー」
「あ、あの、話の内容はどうだったの?」
佳純がたじろぎながら訊くと、夕莉は「ああ」と朗らかな笑みで話した。
「ストーリーはね、冒頭部分で主人公と大の仲良しだった一つ上のお兄さんが死んじゃって、その人の葬式のシーンから始まるの。それで主人公は悲しみの淵をさまよいながら、最終的にお兄さんの亡霊を見て、彼の魂の言葉を聞いて、この世界で生き抜くことを決心するの。それ以来、もう二度とお兄さんの言葉を聞けなくなっちゃうんだ。そこで終わり」
「……何か、悲しい話だね」
「うん、でもね」
夕莉が何かから解放されたように、爽やかな笑顔を見せた。
「私、救われた。上手く言えないけど、お兄ちゃんが私に何を伝えたいのか、何となくわかったから」
それにね、と夕莉は続けた。
「メモが挟まれてあったの」
「……メモ?」
「うん。本から落ちないようにセロテープで貼っていてさ。最後のページの、作家と編集者の名前や発行人とか印刷所の名前が記載されているページ。そこにノートの切れ端みたいなやつがあって、お兄ちゃんの字が綴られていた」
夕莉は前を向き直して、懐かしむように言った。
「生きて、元気に暮らせ。もう逢うことはないだろう」
佳純は胸がキュッと締め付けられるような途方もない気持ちになった。「これ、作中の登場人物の台詞なんだよ。あの人ってロマンチストだったんだね」と夕莉は少しおかしそうに吹き出した。佳純は夕莉の笑い顔をずっと見ていたいという思いを抱いた。彼女は、間違いなく自分の親友だった。
「佳純、私は、もう大丈夫」
夕莉はなおも前を見つめて、力のこもった声を出した。
「大丈夫。絶対に大丈夫。言い切れるから、一般クラスに移って。がんばって。また遊びに来てね」
「……うん」
泣かないようにするのが精一杯だった。夕莉の美しい横顔をずっと見ていたかった。進もうと決めたのはほかでもない自分自身だ。親友の夕莉に誓って、絶対に後悔はしない。彼女と別れることを。翠のことを好きになったことを。この先、この二人とどんな関係になるだろうか。兄たちと同じように疎遠になるだろうか。また一緒になれるだろうか。わからない。でも私たちの深すぎる苦しみは、今ようやく終わろうとしている。そしてまた新たな苦しみも生まれるだろう。そんな時は、大切な人たちの笑顔や言葉を思い出せばいい。
バス停への分かれ道に差し掛かり、佳純は夕莉の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。「さようなら」「また明日」と二言だけを告げて。
バスの中はがらんとしていた。こんなに空いているのは初めてだ。乗っているのは二組の年寄り夫婦と一人の若い男性だけだった。
一番前の座席に座った。ぐっと体重を乗せて、ポコッと突き出た最前席に腰を下ろすと、窓から真昼の日差しがまぶしく道を照らしていた。
これからは、帰る時間帯は夕刻の始めだろう。空は少しずつ暗くなるのが早くなっている。秋は深まり、冬が近づいている。三学期は真冬の一番寒い時期だ。今年は雪が降るだろうか。
夕莉のことが好きだった。翠のことも好きだった。二人を心から愛していた。
目の前の景色が歪み始めた。にじみ出た涙は佳純の頬を濡らし、バスの車内の薄暗い沈黙はエンジン音が響くだけで誰一人として騒がなかった。周り中が他人なことで、救われることもあるのだということに佳純は気づいた。あの息苦しかった実家。皆が監視者のように佳純の家を見張っていた。ここでは誰もが他人だった。聡子と稔でさえも。やっと、一人で泣くことができた。家に帰ろう。新しい家に。未来を、生きなければいけない。
佳純は声も立てずに泣いた。幼い頃から誰にも知られないように泣くのは得意だった。部屋の片隅で、じっとうずくまっていた。ぽろぽろと落ちる涙は手の甲に落ちて、服の袖に落ちて、温かかった。
バスは、住宅街へと入った。停車ボタンを押し、降りた。空を見上げると、厚めの雲の中から太陽が丸い輪郭を伴って光を注いでいた。
もう、大丈夫。
誰かの声を聞いた気がした。それは夕莉だったり、翠だったり、聡子や稔だったりした。その声は形を変えて佳純のそばに佇んでいた。この言葉とともに、歩いて行ける。
涙は乾いていた。佳純は深呼吸をして、しっかりとした足取りで、家へと歩いていった。
さようなら。また明日。もう、大丈夫。