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「伊織佳純」5


 待ち合わせ場所の駅のロータリーに行くと、長兄がすでに待っていた。約束の時間の五分前に到着したのだが、長兄はそれより早く待機していてくれたらしい。そばにいる時は気づかなかったが、離れてみてわかったことがいくつかある。彼は几帳面で時間には正確な人だった。


 今年で二十五になる長兄は、もう立派な大人の男の風貌に近づいていた。身体つきがすっきりとして、社会に出たての新人の頃からだいぶ揉まれた余裕のある表情が、佳純との長い隔たりの年月を物語っていた。もうこの人は他人と言っていいくらい、佳純の心は達観していた。


 文化祭を終えていつもの気だるい毎日がやってきた秋の半ば、聡子を通して長兄から連絡が来た。土日でどこか会えないかという誘いを受けたのは初めてだった。思えばあれ以来、直接的な関わりを避けてきたともいえる。何かあったのかもしれないと、佳純は不安と期待で押し寄せ合っている感情の波にたゆたっていた。


 実際に会ってみると、話は弾んだ。長兄は気を使ってくれているのか、慎重に言葉を選びながらも佳純から思い出話を上手く引き出せていた。


「そうか。友達できたか」


 コーヒーを一口飲んで、長兄は言った。


「でもどうして、せっかく入ったデイケア組を編入してまで一般クラスに?」


「……世界を、もっと広く見てみたいの」


 怪訝な顔をされるかもしれないと思ったが、彼は佳純の回答を笑ったりはしなかった。少し黙り込み、それから吐息を一つ吐いて、昔を思い返すように懐かしげな瞳をした。


「佳純は昔から箱入り娘だったからな。父さんも母さんもひどく甘やかしてさ」


「……うん」


「俺らなんか男だから、皆放っておかれて勝手に育って。佳純が羨ましかったなあ。お前はずっと大人の誰かにべったりだっただろ?」


 そう言われて、自分が保育園児だった時のことを思い出した。確かに一番気に入っていた保育士に四六時中つきまとっていた記憶がある。


「……よく覚えているね」


「俺は物覚えがいいのですよ」


 長兄が少し自慢げにかしこまった。佳純は笑って目の前にある紅茶を口に含んだ。甘さと苦さが同時に舌に伝わって気持ちよかった。


 ……やはり、彼なのだろうか?


 佳純の疑心はなおも鋭い光を放って向かい側の男を捉えていた。佳純が窓から落とされた八歳の時、兄たちはまだ学生だった。誰があの時間帯に帰宅してもおかしくないのだ。


「……ほかの人たちは元気?」


 それとなく尋ねると、長兄は目を細めて笑った。


「ああ、あいつらはしぶといから。お前が気にすることなんて何もないよ」


「そっか。ならよかった」


 佳純は再び紅茶を一口飲んだ。


「変わってなくてよかった」


 長兄は声のトーンを少し落として、安心するように一言漏らした。


「聡子さんたちから、お前がずっと悪夢にうなされているのを聞いていたから、どうにも心配で。でも抜け出せたみたいだから、よかった」


「……うん」


「お前は昔と変わらない。ずっと末っ子で、ずっと甘えん坊の、わがまま娘だよ」


「お父さんみたいなこと言うね」


 佳純がおどけて言うと、長兄の表情が一瞬固くなった。すぐにいつもの穏やかな顔に戻して、彼は残りのコーヒーを飲み干した。


「せめてお母さんみたいだと言ってくれよ」


 そうおどける長兄に、佳純は「そうだね。ごめん」と自分もおどけて返した。


 喫茶店を出て、アーケード街を二人でしばらく見て回ると、夕方近くになった。デパートで佳純が今人気のマスコットキャラクターのスケジュール帳を見つけ物欲しそうにすると、長兄がすぐに気づいて買ってくれた。「お兄ちゃんは何でも買ってくれるなあ」と感心すると、「高校の時から俺は母親の役目だったからな」と兄のまんざらでもないような声が返ってきた。デパートから出ると、外はだいぶ暗かった。今日もいい天気だ。空は青く澄み渡り、夜に差し掛かる海の底のような群青色が、星を一つ二つ輝かせていた。


「お前、よく空を見るよな。そんなに綺麗?」


「うん。とても」


 顔を上げて建物の間から見える夕空を視界に収めると、佳純は兄と歩き出した。


 帰り道を長兄に送ってもらいながら、佳純は訊くべきかどうか迷っていた。母がどうして死んだのか、自分は誰に憎まれていたのか、思い出すべきことはすべて思い出していた。


「お兄ちゃん、家の前まで送ってくれる?」


「ああ、いいよ」


 長兄は快く承諾して、一緒にバスに乗って佳純の住む住宅街までついてきてくれた。バスに揺られている間、二人は当たり障りのない世間話をしてその場をしのいだ。長兄も感づいている。佳純が過去の記憶を取り戻したことに。


 バスを降りて、聡子たちの待つ一戸建ての家の前に二人は向かい合った。何か言おうと頭の中で言葉を探している兄とは対照的に、佳純はスラスラとまるで芝居のように台詞が口から舌に乗って出てきた。


「私を落としたのは、五番目のお兄ちゃんね? あの時家に帰ってきたのは、あなたとそのお兄ちゃんでしょ?」


 問うと、長兄はこの世の果てのような暗い瞳を浮かべた。


「そしてそのきっかけは、お父さんなのね?」


 長兄は俯いて、罰を受ける罪人のようにうなだれていた。そしてゆっくりと口を開いた。


「どこにでもある、ごく普通の親子喧嘩だよ。馬鹿みたいな話さ。あの晩、あいつと父さんは激しい口喧嘩をしたんだ。原因は、何だったかな、思い出せないくらい些細なくだらないことで。お前は部屋の隅っこで震えて泣いていた。お前がそうなる時、俺は決まってお前をなだめるために空を見せていた。うちの庭は広かったから、庭に出て、一番星を一緒に見つけた。お前をあやすのは俺の役目だったから。あいつは俺たちのことをずっと見ていたんだろう。その翌日、お前が落とされた。理由は、父親への八つ当たり。お前が一家で重宝されていたから、あいつはお前を落とすことですべてをぶち壊してしまいたかったんだろう。俺とあいつが家に帰った時泣きついてきたお前を抱いて、あいつは言った。俺が見ているから兄貴はいいよ、と。俺は何の疑いもしなかった。夕飯の準備をしていると、庭ですごい音がした。お前が倒れていた。あいつは、笑っていた。そのあとのことはもう思い出したくもない」


 長兄は顔に手を当てて苦しそうに呻いた。「だけど、どうして……」とかすれた声で訊く彼に、佳純は「蜜柑の木」と答えた。


「蜜柑?」


「そう。五番目のお兄ちゃんからの手紙に、今も蜜柑の木を見るとお前のことを思い出します、という文章が書かれていたの。蜜柑はお前が生まれた年に植えたらしいですよ、とも。私が助かったのは、あの木に引っ掛かったから。うちでは蜜柑のことを気に掛ける人なんて誰もいなかった。あなたでさえ、私をあやす時は空を見せて庭の木のことを忘れていたでしょう? お兄ちゃんたちの中で蜜柑の存在に気がついているのは、五番目のお兄ちゃんだけだった。きっとあの人は、計画的に私を落としたんだわ。殺さずにひどい目に遭わせる方法を、ずっと探していたんだと思う。あの庭で一番大きかった蜜柑の木の上に落とせば、命が助かると思ったのでしょうね」


 五兄は、いつも父親に怒られていた。気が弱くて、泣き虫の癖がいつまでも治らなくて、馬鹿にされていた兄。彼の親に対する憎しみはそのまま肥大して佳純を材料に使う動機にまで至った。


「俺が」


 長兄が両手で顔を覆った。


「俺が、お前をあやしていれば。もっとあいつのことを気にかけていたら」


「多分、お兄ちゃんたちにお母さんの役目は、荷が重すぎたんだよ」


 佳純の心は穏やかだった。詭弁ではなく、誰のことも恨んではいなかった。


「荷が重いのに、自分じゃ似合わないことはわかっているのに、その仕事をしなくちゃいけないことって、あるよね」


 長兄はしばらく佳純の放つ言葉を聞いていた。顔を覆っていた手を離す頃には、いつもの落ち着きを取り戻していた。


「スケジュール帳、買ってくれてありがとう。大事にするよ」


 佳純は別れを言った。買い物袋を見せて、思い切り笑った。彼を安心させるために。


 長兄は何かをこらえるような表情で、無理に笑った。


「元気に暮らせ。聡子さんたちと幸せになれ」


「うん」


「今度こそ、俺たちを見返せよ」


「約束する」


 佳純と長兄は互いに手を振り合った。血の繋がりは切れない。この先また何かの因果で会うかもしれない。その時は、その時だ。いつか他人のように振る舞えたら、それが自分の救われる時だ。


 門扉を開けて、玄関の扉を閉める間際まで長兄は手を振り佳純の姿を見届けてくれた。家の中に完全に入り、彼の気配が消えた頃、佳純は、さようなら、と一言告げた。






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