母が亡くなったのは、五歳の時だった。
事故か病気か、もう覚えていない。確かめる術もなかった。太陽のように光り輝いていた母がいなくなり、皆に平等に注がれていた愛は大きく歪み始めていった。
五人の兄は、長兄と次兄がしっかりとした人で、下のほうの五兄は落ち着きがなくドジばかりしていた。母はこの三人の兄のことが割と好きで、真ん中の三兄と四兄は放っておいた。そして佳純のことは、目に入れても痛くないほど可愛がっていた。そんな風に八人の大家族は成り立っていた。
そのバランスが、母の死をきっかけにあっけなく崩壊した。まるでトランプカードのタワーが崩れるように一瞬で何もかもがなくなった。
しばらくは父と兄たちの膠着状態が続いた。大らかでどっしりとした父は母を失ってからピリピリと殺気を放った男に変貌した。喧嘩に明け暮れる中、母親の役目はだんだんと長兄と次兄二人が担うことに決まった。佳純の幼い頃の記憶は、男たちの怒鳴り声と罵声だった。部屋の隅で震えるように息をしていた。お母さん、と何度心の中で口にしていたか知れない。
ランドセルを買ってくれたのは、父だった。小学校入学の時には父はだいぶ落ち着き、佳純を連れてランドセル売り場へ行った。どんなやつがいい? と尋ねる父は、ごく普通の優しいお父さんのように見えた。佳純と接する時だけ、父は親の感性を取り戻していた。
入学式には長兄と次兄が来てくれた。父は仕事だった。一年生のクラスへ行き、自分と同じ年齢の子どもたちがわらわら集まっている光景を不思議な気持ちで見つめていた。
あなたの家、大家族なんだよね? お母さん死んじゃって大変だね。地元の小学校の子どもたちは皆、親から佳純の家の事情を聞きとっていたらしく、それぞれ言葉尻を変えながらこんな風な台詞を言った。佳純は曖昧に笑った。
年月が経つうちに友達が何人かできて、家に招待され、驚いたのは自分一人の部屋が与えられていることだった。佳純は父と一緒の部屋で生活していた。兄たちは大部屋で一緒くたにされていたので、一人部屋という世界が想像できなかった。カルチャーショックを受けながら友達の母親が出したお菓子を食べている時、自分だけ空間が歪んだ場所にいるような疎外感と漠然とした不安が押し寄せてきた。私だけ違う。私の家だけ違う。なぜか泣きたくなって、友達と遊ぶことに集中できないまま微妙な時間帯に帰宅した。家には誰もいなかった。
玄関のドアが開いて兄のうちの誰かが帰ってくるまで、佳純は居間の座椅子に座り込んで膝を抱えて待っていた。喉がカラカラに乾いて、台所でジュースや麦茶を飲んだりしながら、また玄関が見渡せる位置に座椅子をずらして待った。
ガチャン、と鍵が勢いよく回る音がして、重い扉が開いた。佳純が力いっぱい引っ張って開ける扉を、軽々と開け放って家に上がり込んだ兄を見て、佳純はとうとう無我夢中ですがりついた。
お母さんを返せ! お母さんを返せ! 何で私の家だけ違うんだ!
叫ぶうちに涙が出て鼻水と一緒に流れ、佳純の顔はボロボロに崩れた。力任せに叩いてもびくともしない兄の胸板が、こんなにも憎たらしく見えたのは初めてだった。
ふわり、と身体が浮いた。兄に抱きかかえられたのに気づいた。佳純がぐずっていると、兄はそのまま二階へ階段を上がり、ベランダに出た。
自分を慰めてくれているのだろうか、と目いっぱいに広がった夕暮れの迫る空を見た。地平線に日が浮かび、そこに雲がかかって激しいピンク色に染まっていた。真上のほうを見ると兄の顎の先から深い群青色の空が見えて、星たちがキラキラ光っていた。綺麗、と思った。
ふいに身体の重力がなくなった。星空がガクンと落ちて猛スピードで世界は一点に向けて消えていった。頭か身体か、強い衝撃が走って視界が暗くなった。
気を失う間際、ベランダが見えた。兄がこちらを覗き込み、薄い笑みを浮かべていた。
そのあとの記憶は、もう聡子と稔に出会った施設の場所だった。長兄が佳純の手を強く握りしめ、この子をよろしくお願いします、と頭を下げた。聡子たちは優しそうな大きい掌で、佳純の頭を撫でた。絶対に守り抜きます、と稔の声が降ってきた。記憶を取り戻しそうになったら連絡をください、と伝えると、長兄は佳純と握っていた手を完全に離した。家族がバラバラになることに対してはそんなに驚かなかった。もうずいぶん前から自分たちはバラバラだったのだから。では私を落としたのは一体誰なのだろう、とそれだけが気がかりだった。
聡子たちの家に来てから数日と経たないうちに、今度は悪夢を見始めた。
ほぼ毎日のように見続けて、夜中に泣き叫んで飛び起きた。眠るのが怖くなった。次第に眠れなくなって、布団の中で身体を丸めて泣き続けた。聡子たちが心配して佳純をいろいろな病院に連れていった。四回目の診察で、現在の精神科医に行き着いた。
「あなたは運がなかっただけです」
それまで悪玉菌のように繁殖していた負の感情が、すとんと落ちて消化されていくのを感じた。運がなかっただけ。その言葉は魔法のように佳純の心を洗い流した。それからは毎月そこの病院へ行って診察を受けている。
薬をもらって飲むようになってから、悪夢を見る頻度は少なくなり、やがてごくたまにしかうなされなくなった。悪夢に起きた日は、常備している薬を飲んで窓から空を眺めた。真っ暗闇の空に星や月が浮かんでいるのを見つけた日は嬉しくなった。佳純にとって空とは、心の安定剤のようなものだった。
兄たちから連絡が来たのは、聡子たちとの暮らしに慣れてからしばらく経った頃だった。最初に手紙をくれたのは長兄で、すぐあとに次兄、しばらくして五兄も連絡をくれた。何気ない近況報告の中に、佳純をいたわる文が綴られているとほっとした。五人のうち三人と繋がりがあるのなら、それだけでいいと最近は思えるようになった。
この中に一人、自分を窓から落とした兄がいる。その真実は針のようにプツリと佳純の肌を刺しては痛んだが、知りたくもないことは知らないままのほうがいいと佳純は自分自身に言い聞かせていた。このままの関係を維持したいと、切に思った。時々ひどく鬱屈とした気持ちになる心を抱えながら。
グラウンドではしゃぐ生徒たちを遠目に見つめながら、佳純は夕莉に過去のことを話し終えた。夕莉はじっと耳を傾けていた。時折、相槌を打ちながら、佳純の紡ぐ言葉に聞き入っていた。
「あ、夏央先輩と冬華先輩のクラス、賞取ったみたいだね」
佳純がふと話題を変えると、夕莉も視線を移した。遠くで夏央がクラスメイトと熱い抱擁を交わしていた。冬華のほうはクラスの女子たちと手を取り合って喜んでいた。
「青春って感じだなあ」
夕莉が溜め息交じりにつぶやいた。その声の調子に羨ましがっているような感情を佳純は感じ取ると、「私たちも青春したじゃん」と返した。
「うん、まあ、午後しか参加できなかったけど。……ごめんね、あんなに取り乱しちゃって」
「いいよ。もともとは私が言い出しっぺだから。……もう外、暗いね。帰ろうか」
「うん」
佳純と夕莉はそっとベンチから立って、そろそろとグラウンドを後にした。先に帰るという旨を夏央と冬華にメールで伝え、今日はいろいろとご迷惑おかけしました、という文章を添えて送信すると、二人はゆっくりと帰り道を歩いた。
「頭痛は治まった?」
「うん、だいぶ」
先ほど倒れた夕莉は、頭に手をやりながらも気丈に答えた。
「ありがとうね。つらい過去のこと話してくれて」
夕莉は礼を述べると、髪をまとめていたバレッタを外して手串で広げた。佳純も縛っていた髪をほどく。いつもの自分に戻ると今日一日の疲れがどっと出た。
「私のお兄ちゃん、何も言わないから。いつも私に黙って何でも決めちゃう」
夕莉は少し笑いながら、とっぷりと夜の満ちた空を見上げて歩いた。
「きっと、兄と妹っていうのは、荷が重すぎる関係なんだよね」
彼女がその台詞を言うと、それはとても説得力のある言葉に思えた。佳純は夕莉に寄り添って、バス停とモノレール線に分かれる駅の入り口まで進んだ。
「ヒント、見つかりそう?」
「うん、何とか」
私たち、やっぱり似ているから。そう言いたげな夕莉の視線に佳純は笑顔で返した。
「じゃあ、明日は文化祭の後片付け日だから、私たちは休みだね。明後日また学校でね」
「うん。バイバイ」
夕莉は手を振るとモノレール線乗り場まで改札を通っていった。バイバイ。さようなら。また明日。もう何度この言葉を伝えてきたのだろう。また明日会えるなんて、どうして思えるだろう。別れの言葉はいつでも自分に過酷な試練を課してきた。もう、終わりだろうか。もう、言ってしまおうか。あなたの兄に恋をしていると。あなたの兄のことが好きだと。
自分も、三学期から一般クラスに編入するつもりなのだと。