『佳純へ。
元気ですか? 俺はとりあえず元気です。新しい家は慣れましたか? 俺たちはもう独立して一人暮らしを満喫しているけど、未成年のお前たちのことが心配です。学校に友達はいますか? 俺は就職したての頃、右も左もわからないことだらけでつらかったけど、今ではすっかり会社にも慣れて上司のゴマをすっている毎日です。弟たちから連絡は来ましたか? 来ていなかったらあとで厳しく言っとくから。最近涼しくなりましたが……』
長兄からの手紙を隅々まで読んで、あの優しかった兄の面影を思い出そうとした。長兄と次兄は母親代わりの存在だったので、今どうしているのだろうと一番気になっていた。この二人は就職して独立し、たびたび佳純に近況報告の手紙をくれるのだった。今年は五兄からも来た。三兄と四兄も就職したと手紙に書いてあったが、二人からの連絡は途絶えていた。五兄は高校卒業のための単位を取るため二年のうちからがんばっていると手紙が来た。彼は佳純と同じく一時的に施設に入れられて、そしてそのまま某大型施設に移動された。佳純と兄たちの情報をすべて把握しているのは、長兄と次兄のみだった。
手紙をファイルにしまい込んで棚に戻し、学生鞄を下げて、初日を迎えた文化祭へ向かった。
待ち合わせ場所には、すでに夕莉がいた。
茶色いセミロングの髪を今日は結い上げていて、可愛らしいバレッタで止めていた。おめかししてきたな、と佳純はからかいたくなった。自分もサイドアップに結んでいるので、女心はいつどこでも通じ合っているものらしい。夕莉と落ち合うと互いに褒めあい合戦をした。
学校にはたくさんの客が訪れていた。受付で渡されたパンフレットを持って、大人と子どもが混ざりながらひしめき合っていた。
「人ごみ、平気?」
佳純が確認するように尋ねると、夕莉は毅然と答えた。
「本当は苦手なんだけど、今日はがんばる。先輩たちと遊びたいもん」
だいぶ強がっているようにも見えたが、彼女がこの祭りに懸けている思いを察すれば、余計な言葉はいらなかった。
少しして夏央が冬華を連れてホールを抜けるのが見えた。二人で大きく手を振ると、夏央と冬華はすぐに気づいてくれて手を振り返しながら渡り廊下に入った。
「待ったか?」
四人合流すると夏央が二人を気遣った。
「いいえ、そんなには」
佳純と夕莉が声を合わせて言い、彼が自分のお洒落に気づいてくれるだろうかと期待を込めたが、当の夏央は「すげえ人だろ。まずは飲み物買おう」とさっさと歩き始めてしまった。「男の人は鈍感だね」と佳純が夕莉に耳打ちすると、夕莉もまた「先輩らしいけどね」と笑った。
夏央は夕莉に、冬華は佳純にそれぞれ飲み物を買ってくれた。「今日のお前らは楽しむ側だから」という夏央の言葉に甘えて、二人はのどを潤した。
彼らの学年が催しているクラスの出し物に寄ってみた。夏央の組は縁日を、冬華のほうはアトラクションゲームをやっていた。縁日では夕莉が輪投げで景品を取ることに成功し、佳純は的当てボールで真ん中を当てた。二つの景品を嬉しそうに胸に抱いた二人を見て、夏央たちは「センスあるなあ」と感心していた。
冬華の組のアトラクションは人生ゲームだった。升目に沿って「イエス」か「ノー」かで答え、矢印の方向へ進み、各自用意されているゴールへ向かう遊びだった。佳純の人生は仕事で成功を収めるタイプのゴールで、夕莉の人生は愛する人とともに暮らして子沢山の人生を送るというゴールだった。二人はおかしくなって互いに笑い合った。
楽しかった。文化祭の充実感は兄たちの様子を見て知っていたが、ここまで生徒が主役で盛り上がる行事を経験したのは初めてだった。
二人の学年の出し物を参加し終えて、夏央と冬華が次はどこを見て回るか打ち合わせを始めた。
「お二人とも、仲いいですね」
ふいに夕莉が口を開いた。二人はきょとんとした顔をした。
「何でボランティア部に入ろうとしたんですか?」
夕莉は純粋に疑問を口にしていた。佳純も二人の答えを聞きたくて目を向けた。
「んー、ここじゃ何だからちょっと場所変えようか。そんなに大した理由じゃないんだけどね」
冬華が夏央に合図をして二人はスタスタと歩いていった。佳純と夕莉もついていく。二人の間にそれほど深い沈黙はなかった。適当に入っただけなのかもしれない。しかし二人の優しさは中途半端な気持ちでできるものではないと佳純も夕莉もわかっていた。
一階のホールに出た。窓辺に沿う形で並んでいる長椅子に佳純たちは座り、たくさんの人で行きかっている駅の入り口のようなホール前を眺めた。二人は夏央たちの言葉を待っていた。
「俺たち、小学校時代は学級委員だったんだ」
「高学年になった時からずっとね」
夏央と冬華が順に告げた。
「面倒見いいですからね」
佳純がそう言うと、夕莉も続けてうなずいた。
「それでまあ、ずっと委員長ってポジションだったんだけどさ、どこのクラスにも必ず一人は身体弱いやつがいるわけ。その中でも特に病弱な男子がいたんだ。そいつはちょっと荒んでいて、危なっかしい雰囲気で、世話好きな俺たちは見事にそいつにかかりっきりになっちゃったわけよ」
夏央が少しおどけたように笑うと、冬華が続きを話した。
「彼は最初、私たちのことをうっとうしがっていた。あまり口もききたがらなかったし。てっきり嫌われているんだと思っていた。どうにも放っておけなくてしょっちゅう絡んでいたから」
冬華が昔を懐かしむように目を伏せた。
「最高学年になった時だった。彼が東京から地方の実家へ帰る時が来たの。もっと空気が綺麗なところで過ごさせたいという両親の考えで。別れの日、彼が私たちにだけ手紙をくれたの。教室で簡単な挨拶を済ませた後の、帰り道だった」
冬華の顔がぽっと上気していた。彼女は、その男の子のことが好きだったのだと佳純たちは気がついた。
「彼が泣きながら手紙を渡したの。そして、今までありがとう、という言葉だけを告げて、走って帰っちゃった。私たちは二人そろってその場で手紙を開けた。便箋にびっしりとお礼と感謝の言葉が書かれていた。胸が熱くなった。その時思ったの。もっともっとたくさんの人たちの力になりたいって。困っている人を助けたいって。同情じゃなくて、偽善じゃなくて、力になりたかったの」
冬華が話し終えると、夏央が「あいつ今どうしているかな」とぼんやりとした顔で言った。
「彼とは連絡が途絶えちゃったけど、今でも忘れてない。私は決心して、そういう人たちの助けとなる仕事に就きたいと思うようになったの。それでここの学校を見つけ出した。夏央も巻き込んで、このボランティア部に入ったの」
冬華はそこまで言うと、口調を変えて話した過去の思い出から帰ってきたかのように、カラッと笑っていつもの話し方に戻った。
「だから、あんたたちも大丈夫よ! 私たちがついているから」
夕莉がもじもじとしていた。何か訊きたいことがあるのかと彼女の肩をつつくと、夕莉は思いきったように尋ねた。
「あの、初めて私たちのクラスに来た時、兄と何を話していたんですか? 知り合いだったんですか?」
おそらくこの質問をずっとしたかったのだろう、夕莉の切羽詰まった表情が横顔からわかった。佳純は隣で二人の反応を待った。
「ええとね……」
冬華がそこでどもった。チラッと夏央の顔を見て、二人は言葉を濁しながら話した。
「入学式の時に私たちボランティア部は、一回集まってデイケア組の名簿を渡されるのよ。それであらかじめ顔と名前を覚えて、初対面する時にこっちから話しかけやすいようにいろいろと下準備するわけ。そこへあなたのお兄さんが来て、顧問の先生を通して先に自己紹介してもらったの。多分、お兄さんは最初から先生に話をつけていて、あなたの知らないところで動いていたんだと思うな。どうして隠していたのかは知らないけど」
「翠は、一般クラスに移るために必死だったよ。俺たちと同じように勉強して、運動して、同じ目線に立ちたいって真剣に話していた。その熱意は買ってやってもいいんじゃないか? 隠し事していたのは悪いかもしれないけどさ」
夕莉はじっと二人の話に聞き入っていた。気の弱そうな丸い目は、強い光を伴ってしっかりと開いているのだろうとわかった。夕莉はうつむいて、手の指をいじり始めた。彼女は悩むと指をいじる癖がある。佳純は夕莉が何をしたいのかを察した。
「じゃあ、翠君のクラスの出し物に寄ってみませんか?」
夕莉が思い出したようにはっと息を飲んだ。佳純はポンと彼女の肩に手をやって「皆なら、翠君も懐かしがってくれると思うよ」と諭すように言った。
「そうだな。じゃあ、行ってみるか」
夏央がさっと席を立った。
「考えてみれば、あの子ずっと一人で戦っているしね。どうしていきなり夕莉と離れたのか、今なら訊けるかもしれないし」
冬華も立ち上がってにっこりと佳純たちに微笑んだ。
「翠君のクラス知ってる?」
「多分、二組。先生から聞いた」
佳純の問いに夕莉は自信なげに答えた。
「あいつ、本当に何も言ってないんだな。しょうがねえなあ」
夏央があきれたように溜め息を一つ吐いた。
「一年生はほとんど展示会だから、翠君がクラスにいるかどうかはわからないわね。友達と遊んじゃっているかも」
冬華が持っていたパンフレットを取って、推測するように告げた。佳純は夕莉の背中をそっと押して促した。夕莉が覚悟を決めたように歩き出すと、ほかの三人もついていった。翠に会うことに、佳純の心も高鳴っていた。夕莉の幸せを願っている自分も嘘ではないと言い切れるが、翠に恋心を抱いていることも否定できなかった。結局何一つ行動に移せなかったけれど、会えるかもしれないという期待だけでよかった。
廊下を抜けて校舎の南側に着き、グラウンドを見渡せる一、二、三組の教室に向かった。二組はちょうど真ん中にある。夕莉の視線が落ち着かない様子できょろきょろとしている。佳純も心臓の鼓動が速くなって、二人は自然と手を握った。夏央と冬華の後ろをついて歩くように、互いの足取りは頼りなげにふらついていた。
受付係の一年生が二人、クラスの前にいた。机について「どうぞ寄ってくださーい」と明るく宣伝している。夏央たち上級生が近づくと、一年生たちはちょっと緊張気味になって姿勢を正した。
「急に悪いんだけど、青花翠ってこのクラスだよな?」
一年生は顔を見合わせて「はい。一応」と意味深な台詞を放った。
「一応?」
夏央がきょとんとして聞き返すと、「あ、いえ、何でも。青花君はこのクラスです」と一年生はあわてて訂正した。そのしぐさに佳純たちは疑問を抱きながらも、彼の居所を問うた。
「青花君は、今どこにいるか知ってる?」
夏央の問いに一年生は不吉そうな顔をして「えっと……」と言いにくそうにしていた。何かあったのだろうか。彼に。佳純は不安を隠せなかった。しかしそれ以上に夕莉の瞳が揺れ動いていた。互いの握る手の力が強くなった。
「どうかしたのか?」
夏央が問いただすと、一年生はおずおずと話した。
「今朝、体調を崩して保健室に運ばれました。もしかしたらもう帰っているかも。今朝っていうか、もうずっとこんな感じで、しょっちゅう倒れるし、もう勘弁してよって感じなんですけど」
一年生の顔には明らかに迷惑している表情が浮かんでいた。言葉にも彼に対する棘が感じられた。佳純の心臓に刺すような痛みが走った。瞬時に夕莉の顔を見る。彼女も頭から冷や水をかけられたような呆然とした色のない顔色をしていた。唇が軽く震えていた。
「……教えてくれてありがとう。皆、行くぞ」
夏央が固まってしまっている佳純と夕莉の肩をポンと叩いた。そして大股で歩き出す。冬華も「行こう」と真剣な瞳で二人に語りかけた。佳純は夕莉と握っていた手を離して、おろおろと夏央たちについて歩いた。夕莉が横で兄の名を呼んだのが聞こえた。
廊下を突き抜けたところにある保健室へ入ると、夕莉が「先生」と保険医のほうへ駆け寄った。保険医はまるでずっと待っていたかのように、柔らかな笑みを携えて「青花さん」と夕莉の肩に手を載せた。
「青花君。お友達が来てくれたよ」
保険医が奥のカーテンをそっと開けて、中の様子を見た。続けて「……友達? 舞衣か?」とあの懐かしい低い声が聞こえた。眠いのかどことなくとろんとしている声が余計に懐かしさを増幅させた。
カーテンの奥から、翠が現れた。しばらく経った間に背が伸びたのか、身体つきがほんの少しだけ大きくなったような感じがした。切れ味鋭い刃物のようなスッとした目に、困惑したような瞳がその場にいる者を捉えていた。
「久しぶりだな、翠」
夏央が代表して彼に挨拶をした。
「ああ、久しぶりです。すみません、ずっと忙しくて……」
翠は夏央を見るとほっとしたように笑顔を浮かべた。「冬華先輩も久しぶりですね」と言いながらベッドから下りて、二人に歩み寄ろうとした。
その時、夏央と冬華の陰に隠れていた夕莉が、ひょこ、と顔を出した。佳純も続けて翠の前に姿を見せたが、彼は自分には目もくれていなかった。妹の姿を見て、時が止まったかのように硬直した。そして見る見るうちにその冷たい美貌が殺気を漂わせた。
「お兄ちゃん」
夕莉はそのことに気がついていないようだった。
「久しぶり。身体は大丈夫?」
当然のように兄を気遣った妹に、翠は、突き刺すような鋭い視線を向けた。
「何でここがわかった」
押し殺したような声に何かを感じ取ったのか、夕莉がおびえたようにビクッとした。
「一般クラスに移ってから、ずっと体調悪いって聞いて、お兄ちゃんのクラスの出し物に皆で行ったんだけど、いなくて、保健室にいるって言われたから」
たどたどしく説明する夕莉に、翠はこれ以上ないほど殺気じみた瞳で、がなった。
「出て行けよ」
その場にしんとした沈黙が流れた。皆が彼の威圧感に負けてたじろいでいた。
「あの、私、ずっとお兄ちゃんのことが心配で」
「うるせえんだよ!」
夕莉の紡いだ言葉を、翠は怒声で叩き潰した。夏央たちまでもがどうしたらいいのかわからず互いに困惑した表情で見つめ合っていた。
「何でこうも俺の前に現れるんだよ! もういい加減離れろよ! 俺がどんな思いで……!」
そう言いかけたところで、突如ドアが開いた。何のためらいもなく入ってきた一人の女子生徒に、全員が唖然とした。佳純は彼女を見ると「あっ」と小さな声を上げた。あの時同じように堂々とデイケア組に入ってきた女子生徒—飯塚舞衣がいたのである。
「ま、舞衣?」
夏央と冬華がそろって素っ頓狂な声を上げた。やはり彼らは知り合いらしい。
「あら、失礼。お取込み中?」
舞衣はすました声で冷静に事の状況を把握した。
「翠を迎えに来たんだけど。倒れたって聞いたから」
先ほど夕莉が言ったこととほぼ同じことを言いだした舞衣に、ただ一人、翠だけが返事をした。
「ああ。来てくれてありがとう。一緒に帰ろう」
翠は誰の顔を見ることもなく、保険医から学生鞄をひったくって夕莉の横を通り過ぎた。妹に一瞥すらくれなかった。佳純は隣にいる夕莉からあふれ出ている激情を、受け止めきれずに逸らした。翠は舞衣のもとへ行き、「いきなり大声出してすみませんでした、先生。それじゃあ先に失礼します。夏央先輩、冬華先輩、お元気で」としらじらしい挨拶をするとバタンと無情にドアを閉めた。その場にいる誰もが動けなかった。
「何で」
夕莉がこらえきれなくなったように、一言つぶやいた。
「何で。何でよ。ちゃんと言ってよ」
夕莉の息が上がり始めた。ついに彼女はしゃくり上げてその場に泣き崩れてしまった。苦しそうに息を吐き、頭痛が起こったのか頭を両手で抱えてしゃがみ込んで、「うぅ……」と喘いだ。倒れてしまった夕莉を保険医と介抱しながら、佳純は気まずそうに顔をしかめている夏央と冬華に、言葉を放った。
「先輩、話してください。飯塚舞衣さんと、あなたたちは、どういう関係なのか」
夕莉を空いていたベッドに運びながら、夏央と冬華も観念したようにソファーに腰かけると、佳純に事情を話し出した。
翠と飯塚舞衣が初めて出会ったのは、ボランティア部がデイケア組に接触した頃だった。
翠はその時、夕莉に付きっきりで登下校していた。夕莉に気づかれないうちに一般クラスに接触するのは、昼休みの時しかなかった。翠はその時間を有効的に活用して、昼の活動をしているボランティア部にたびたび会いに行っていた。
飯塚舞衣は、夏央と冬華の腐れ縁だった。
彼女は保健委員会の副委員長で、昼休み時間に週に二回、保健室に滞在していた。夕莉と面識がないのは彼女が昼休みは佳純とともに弁当を広げている頃だからだろう。翠はその間、夏央たちのところに行き、彼らを通して舞衣と知り合った。次第に翠は彼女と仲良くなった。その時から、彼の妹離れは始まっていたのだろう。なぜ急に夕莉を拒絶するようになったのかは理由が掴めないが、翠は「外」の世界に憧れを抱き始めた。デイケア組に甘んじることは、翠にとって、許しがたい屈辱なのだろう。彼は佳純たちの組を出て行きたくなったのだ。夏央たちと出会ったあの日から。
佳純はそこまで聞くと、ベッドで寝込んでいる夕莉に真相を告げた。夕莉は泣きながらもしっかりと兄の事情を聞きとっていた。話を聞き終えると夕莉は一言「ごめん。弱くて」とか細い声で言った。佳純は曖昧な笑みだけを浮かべた。
夕莉が落ち着くまで、佳純は保健室で待っていた。後夜祭を控えた空は橙色の夕暮れを地平線に残して青々と深くなっていた。夏央と冬華は周りとの付き合いがあるため、最後まで佳純たちに詫びながら保健室を先に出て行った。佳純は薄暗い青の空に佇む薄い雲を窓越しに見上げながら、実家で暮らしていた頃の広々とした空と重ね合わせていた。
「お兄ちゃんが、寮にまで入ったのは、私のせいだったのかな」
夕莉の声が途切れ途切れに聞こえたのは、後夜祭が始まって皆の楽しそうなざわめきが聞こえ出した頃だった。
「私はずっと嫌われていたのかな」
彼女のあきらめに満ちた声に、佳純は思わず過去の一部を吐露した。
「私も、ずっと兄に嫌われていたから大丈夫。あなただけじゃないよ」
夕莉が驚いたように身体を起こした気配がカーテン越しに伝わった。佳純は「そろそろ帰れる? あとで先輩たちにメールしておこう」と言って夕莉の学生鞄を持ち出し、ソファーから立ち上がった。カーテンが開いて、夕莉が泣きはらした目でベッドから下りた。「鞄、ありがとう」と言いながら佳純から荷物を受け取り、黙って状況を見守っていた保険医に頭を下げながら、二人は学校から帰った。
帰り道、佳純は校門を抜けようとした夕莉を止め、こっそりと後夜祭で盛り上がっているグラウンドへ足を運んだ。皆に見つからないように、そっと木の茂みに隠れたベンチに腰かけて、訥々と夕莉に過去の家のことを話した。記憶をたどると死んでもいないのにまるで走馬灯のように兄たちの顔が一人一人浮かんできた。
「私は」
これは絶対に誰にも言わなかった過去だ。それを今、言う。友達のために。自分の分身のために。
「兄に、二階の窓から突き落とされたの」
夕莉が息をのんだ。これを話したら自分は息ができなくなるのではないかと思っていたが、意外にも頭は冷静で、呼吸は正常のままだった。
「私の家はここからすごく遠い田舎の村でね。兄が五人いて、両親と八人家族だった。大家族だったから珍しいってよく言われていたな。でも、お母さんが死んじゃってからお父さんが狂っちゃって。兄たちに事あるごとに八つ当たりしていたの。私は台風の目のような立ち位置で、私だけ父に愛されていて穏やかだった。それで、落とされちゃった。二階から」
「……誰に?」
夕莉がおずおずと訊いてきた。佳純はありのままの心情を述べた。
「それが、わからないの。突き落された時に覚えているのは、夕暮れ時の夜が迫った暗い空と、やけに綺麗な夕焼け。そして家の庭の大きな蜜柑の木。その木に引っかかって私は助かったの。八歳の時だったから記憶に残っているのはそれくらい。誰に落とされたのかは誰も教えてくれない。自分で探し出すしかない」
佳純は、あの時と同じような深い青に染まった空を見つめ続けていた。夕暮れ時の空は、青だ。橙色の夕焼けは、地平線にしかない。本当の夕暮れとは、深い悲しみのような青い空のことなのだ。
「……少し、昔の話をしてもいい? あなたを救えるヒントが隠されているかもしれない。私とあなたは、似ているから」
夕莉が決心したようにうなずいた。佳純は心の奥底にしまった記憶の箱を開けて、ゆっくりと自分の身に起こった出来事を語り始めた。