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第二章 「伊織佳純」1


「フルーツバスケット!」と夏央が手を叩いた。とたんに皆はわっと席を立ち、空席の椅子へ向かった。佳純はすばやく席を取り、夕莉を目で追いかけた。彼女はおろおろと戸惑って、ほかの生徒に椅子を取られてしまった。余った生徒は夕莉となった。


「夕莉、またお前かい! どんくせーなあ」


 夏央がからかうように言うと、皆もどっと笑った。夕莉は拗ねたように夏央をにらみながら、それでもどこか楽しそうに問題を考え始めた。夕莉が外れるのはこれで三回目となる。


「じゃあ……。朝ご飯はパン派の人!」


 夕莉が問題を出すと、該当した生徒がわっと動く。すかさず席を取り、今度は外れることから免れた。


 周りの子より頭一つ分小さい男子生徒があぶれる。そこで時間が来て、先生の「今日はここでお開き〜」と軽やかな声を合図に皆はがやがや話しながら椅子を片付けて机を戻した。


 もうすっかりボランティア部はデイケア組に溶け込んでいた。夏央と冬華は周りから人気があるらしく、二人のそばにはいつも誰かしらくっついていた。


 夏休み明けからしばらく経った、九月の終わり。残暑がようやく和らいできた季節。翠がデイケア組から一般クラスへ編入したことを除けば、いつもと変わりない平穏な毎日だった。


 帰り支度をして夕莉と一緒に教室を出ると、冬華から声をかけられた。


「お二人さん、文化祭って出る?」


 佳純は夕莉と目を合わせ、考え込んだ。身長が低い二人はすらりと背の高い冬華の切れ味鋭い美貌を見上げ、声を合わせた。


「夏央先輩と冬華先輩が一緒に回ってくれるなら」


 すると冬華の切れ長の目に、困ったような表情が浮かんだ。都合でも悪いのだろうか、と佳純は思った。


「実はそれ、ほかの子にも言われているのよねえ」


 冬華は苦笑いを浮かべながら頭を抱えた。「うーん……」と唸ってブツブツと何事かつぶやいている。


 十月に行われる文化祭の下準備期間へ入った時期である。デイケア組は参加自由という形式を取っており、実際にはほとんどの人が自宅休みを取っている。冬華たちは何とかしてデイケア組の生徒を文化祭に参加させたいようだった。


「一度も文化祭を知らずに学校卒業するなんて、寂しすぎるでしょ?」


 冬華はさっぱりと言った。「何とか勇気出して来られない?」と誘う彼女に、佳純は一つの提案をした。


「一日中遊ぶのは無理ですが、午前か午後、または後夜祭だけなら」


 了承の意を示した佳純に、夕莉がチラッと不安そうな目を向ける。佳純は彼女に視線を合わせ、大丈夫だよ、とサインを送った。


「ふむ、時間を区切るわけか。後夜祭は友達との付き合いもあるしなあ……。午前か午後にどう?」


 冬華がキリッとした笑顔で提案した。今度は佳純が夕莉のほうを見た。夕莉はまだ不安げな顔をしていたが、ボソッと「佳純が行くなら……」と茶色がかった瞳を伏せて言った。


「詳しいことはまたあとで連絡するよ。文化祭は出るって方向でいい?」


「はい。待っています」


 佳純の返事に冬華は嬉しそうな表情を浮かべ、二人を通り抜けて先に渡り廊下を渡って部室に帰った。佳純と夕莉も下駄箱へ向かい、帰り道を歩いた。


 日差しを肌に浴びながら、秋の匂いを纏った風を頬に受けて、佳純はつぶやいた。


「文化祭、私たち初めてだね」


「……うん」


 夕莉のか弱い声が聞こえた。それでもその声はあの時の消えそうな声ではなく、いくらか芯の通ったものだった。


「きっと楽しいよ。生徒が主役のお祭りだって言っていたから」


「佳純は、小学校の文化祭には出たことあるの?」


 夕莉の問いに、佳純は「うん」と答えた。


「でも、小学校のやつって本格的な遊びじゃないから、盛り上がりは段違いだよ」


「そんなにすごいのか……」


 夕莉は少し興味を持ったように顔を上げた。


「夏央先輩たちと周れるようにしたいね」


「でも、二人とも人気者だからなあ」


 佳純の言葉に夕莉はまだ不安げな声を出す。それでも彼女が少しずつ前を向き始めていることに、佳純はほっとしていた。


 この儚い少女を守るのは、自分の使命だ。


 佳純は戒めにも似た誓いを、胸に秘めていた。





 バス停のところで夕莉と別れて、七つ目の停車場所で降りる。新築マンションや立派な一軒家が立ち並ぶ住宅街の、小さな坂になっているその道を歩いた先に、佳純の家はある。正確には佳純が新しく住み始めた家がある。


「ただいまー」


 居間のほうに顔を出すと、親代わりの五十代半ばの女性—聡子さとこがソファーで洗濯物を畳んでいた。


「あら、お帰りなさい」


 聡子は佳純を見ると微笑み、冷蔵庫のほうを指差した。「アイス入ってるわよ。まだ暑いから」聡子の優しい声に「ありがとう。あとで食べるね」と返し、佳純は二階の自室へ行った。あの時の自分の家とは比べものにならないくらい広々とした部屋もようやく目に慣れてきたところだった。聡子が掃除してくれたらしい。床が綺麗になっていた。


「何でもしてくれるなあ。聡子さんは」


 佳純はボソッとつぶやくと、苦笑いを浮かべた。制服を脱いでハンガーにかける。部屋着に着替え、また一階へ降り冷蔵庫からアイスを取り出して食べた。バニラの味がじんわりと口の中に沁み出して、自然と笑みがこぼれた。


 佳純はアイスが好きだった。冬でも構わずアイスを食べた。しっとりとした口どけと甘い味が何ものにも代えがたい幸福だった。ほかに楽しむものがなかったというのもある。おもちゃやぬいぐるみなどは買ってもらえなかった。「金がないから駄目」という親の決まり文句に、いつしか佳純も兄たちもあきらめがついていた。


 今のこの家庭では、聡子が自分の欲しいものを買ってくれる。誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントだってくれる。ケーキもちゃんとした店のものを用意してくれる。佳純は聡子に感謝してもしきれないほどの情を感じていた。


「今日の夕飯はロールキャベツね」


「え、またあ? 私あれあんまり好きじゃない」


「好き嫌いしないの」


 聡子が注意するが、彼女は本当に怒っているわけではない。むしろ佳純が一人前の口を利けるようになったことにほっとしている気配さえする。この家に来たばかりの佳純はとても手におえるものではないほど殺気立っていった。それから比べれば、今の佳純は落ち着いている。きちんと聡子たちになつき、本当の子どもらしく振る舞っている。居間では二人の会話が楽しげに交わされていた。


 夕飯時、聡子の夫—みのるが帰って来て、三人はテレビを観ながら食事をした。


「青花さん兄妹は、どう? 元気にしてる?」


 聡子から訊かれて、佳純は夕莉の気の弱そうな丸い目の奥の弱々しい瞳を思い浮かべた。あの子はまだ自分の足で立てていないきらいがあるが、前に進もうという決意はある。それとなく言葉を濁して「だいぶ元気になったかな」と曖昧に笑った。


 本当は、兄の翠は夕莉の家から出て行って、学校の寮に入ってしまった。夕莉と翠は今ではもう何の接点もない。彼は何の説明もなく、誰にも相談することなく、家族から離れてしまったのだった。


 聡子と稔には「双子の友達が大きな喧嘩をしてしまった」ということしか話していない。何となくあの二人のことを詳しく説明するのは気が進まなかった。


「双子って、すごく仲が良いのとめちゃくちゃ仲が悪いのとに分かれるよね」


 佳純が何気なくそうつぶやくと、稔がテレビを見つめながらぼんやりと言った。


「あまりに近すぎるから、客観的に見られないのだろう」


 佳純はふいに家族のことを思い出した。


「うちのお兄ちゃんたちも、お父さんも、客観的に見ることができなかったってことなのかなあ」


 聡子と稔が気まずい表情になり、その場に糸がピンと張ったような緊張が走った。佳純はあわてて「まあ、私にはこの家があるからいいか」と声のトーンを上げた。聡子たちが目配せして、さっと優しい人間の顔をする。「私たちは、もう新しい家族だよ。お前の過去も、病気のことも、全部委ねていいんだよ。安心しなさい」と稔が言って、聡子がうなずいた。佳純の心にスッと白けたような冷めた気持ちがよぎったが、ばれないようにいい子のふりをして「ありがとう」と礼を述べた。


 白いご飯がだいぶ冷めていた。




 この家に来た時のことは、よく覚えている。毎晩、悪夢を見続けたからだ。家族と完全に離別して、家にいることが難しくなった子どもを一時的に保護する施設に預けられ、聡子たちと出会った日、恐ろしい夢を見るようになった。窓から突き落とされる夢。それはマンションの屋上だったり、高層ビルの最上階からだったりと形を変えたが、いずれも地に落ちる時の胃がふわりと浮きあがるような感覚がやけにリアルで、うなされて叫んだ。寝汗をびっしょりとかき、七畳の部屋で一人泣いた。すると聡子たちが必ずやって来て佳純の身体を抱きしめてくれるのだった。毎晩そうやって慰められるうちに、次第に佳純は心を開き始め、聡子たちのことを親だと思うことを決めた。あの家は、多分、間違って生まれたのだろうと思った。自分の本当の家はここなのだと決めつけたかった。けれど心のどこかで、なぜこんなことになったのか、家族はなぜバラバラになったのかという気持ちが湧き上がり、その負の感情に苛まれては悪夢を見た。ようやくぐっすりと眠れるようになったのは、行きつけの心療内科の医師に「あなたは運がなかっただけ」と言葉をかけられた時からだ。それ以来、不思議と悪夢は見なくなった。落ち着きを見せ始めた佳純に聡子たちはほっとしたように愛情を注いだ。ただ悪夢を見なくなった代わりに、明け方頃に目が覚めてしまう癖がついた。そんな時は自室のカーテンを開けて夜明けの空と街並みを眺めた。青々とした色合いと静まり返った空気が気持ちよかった。


 佳純は現在、少し特徴のある子を集めた特別学級のある中学校の面接を受け、そこに通っている。学校には遠くから来た生徒たちのための学生寮があり、そこも一般とデイケア組に分かれている。学校帰りには月に二回の診察を受けている。明日はその診察日だ。


 寝る時間が来てベッドにもぐりながら、佳純は双子のことを思っていた。


 夕莉。


 私と似ている子。放っておけない子。


 翠。


 とてもかっこいい人。美しい人。


 私の初恋。





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