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「青花夕莉」4


 両親に心配されながらも、夕莉はがんばって学校に通った。どんなにつらくても学校へ行く。それが家族と交わした約束だったから。


 隣にはいつものように翠がいた。昨日のような地に足のつかない感じはもうなくなっていて、しっかりとした兄に戻っていた。そのことにひどく安心しながら、夕莉は翠にもたれかかるようにして這うように学校へ行った。


 肌身離さず持っている頭痛薬を教室で飲み、机に突っ伏して時が過ぎるのを待った。佳純が「大丈夫?」と優しく声をかけてくれるが、返事をする気力もなかった。


 ようやく薬が効いてきて、昼になる頃には佳純とともに弁当を食べる準備ができていた。


「ごめんね。いつも心配かけさせちゃって」「ううん、平気。夕莉こそご飯食べられる?」佳純は弁当箱を広げながら気を使ってくれる。


 ふと、彼女は一体どこが悪くてこのクラスにいるのだろうと再び思ったが、まったく健康そうに見える彼女には身体が弱い人間特有の「隙」というものがなくて、質問することも夕莉にはできそうになかった。


 教室のドアが開いた。その瞬間、クラスの気配がピリッとした張りつめた空気になった。何だろうと思い振り返ると、そこに見慣れない顔があった。


 一般クラスの女子生徒だった。人工的に染めた明るい色合いの茶髪が、肩のあたりで綺麗にくるくる巻かれていた。猫目を思わせる愛らしい瞳が、その場の緊張感にも動じずきょろきょろと辺りを見回していた。その女子生徒は物おじせずに夕莉の兄の名前を呼んだ。


「青花翠君、いますか?」


 女の子らしい軽やかな甘い声で、その女子生徒は言った。翠はトイレにでも行っているのか、教室にいなかった。


「いないのか。じゃあ誰か、青花君に早くアレ返してって伝えてくれる?」


 女子生徒は堂々と振る舞っていた。皆は顔を見合わせて、その気の強そうな女子生徒に怖気づいている。夕莉は兄のことが気になって、勇気を出して席を立った。


「あの、私が伝えます」


「おー、サンキュー」


 夕莉はおずおずと近づいて、相手の名前を尋ねた。女子生徒は「飯塚舞衣いいづか まい。二年。顔似てるね。兄妹?」と軽い調子で言った。


「妹です」


「双子か。あいつ、何も言ってないぞ。むー」


 舞衣と名乗った少女は口を尖らせた。


「名前、教えてくれる?」


 そしてすぐにパッと表情を変えた。


「青花夕莉、です」


 そう答えると、舞衣は「ああ、ここデイケア組だっけ。ごめん、ごめん。怖がらせちゃったね。でも取って食いやしないよ」と笑って「伝言よろしくねー」と去っていった。一般クラスの舞衣が姿を消すと教室に張っていた緊張が一気に緩んだ。佳純がそれとなく近づいて「翠君と知り合いなのかな?」とつぶやいた。夕莉は、あの日、翠が冬華と何か話し込んでいたのはこの子と関わりがあるのかと思い当たった。


「……ちょっと派手な人だったなあ」


 口からそんな言葉が漏れていた。とりあえず兄が戻ってくるのを待とうと、夕莉は伝言を告げるために席に戻った。


 帰ってきた翠に舞衣のことを伝えると、渋い顔をされた。「ったく、あいつ、せっかちだな」と不機嫌そうにブツブツ言いながら翠は学生鞄を探り、一冊の本を取り出した。いわゆる自己啓発の書物らしい。カバーがかけられているので完全には読めなかったが、『……の方法』という字体がでかでかと印刷されているのが見えた。


「それ、何の本?」


 試しに訊いてみたが、翠は「借りてたやつだよ」という曖昧な返事をしただけだった。舞衣という少女とどのようにして知り合ったのか推測して、夕莉はそれとなく尋ねた。


「……冬華先輩を通して借りたの?」


 蚊の鳴きそうな声になっているのに自分でも驚いたが、翠が一瞬、物悲しい顔になったことに何かがパチンと弾けた。


「他人は敵じゃなかったの?」


「お前こそ夏央先輩と仲良くなっただろ」


「約束したじゃない。互いしか必要としないって。親からも言われていたじゃない」


 声がかすれて、泣きたくもないのに涙声になってしまった。情けなく思いながらもあふれた思いは止まることを知らず、夕莉は一つの真実にたどり着いた。


「……一般クラスに移るの?」


 翠は答えない。茶色がかった瞳だけが事実を述べていた。


「いつから? どうして? ここを捨てるの? せっかく見つけ出した場所なのに」


 本当は、こんなところどうでもいい。ふれあいトークとか馬鹿馬鹿しい。コミュニケーションの勉強をしたって、心のケアをしたって、救われない時は救われないのに。


 あの時から、自分の唯一の味方は兄の翠だけだったのに。


 夕莉は周りの視線も構わずに大きな声で問いかけていた。翠が淡々とした声で言った。


「二学期から一般クラスに編入する。そのための参考書とかを冬華先輩たちに借りていた。ずっと前から決めていた」


 昨日の今日で知り合ったばかりなのに、どうやって参考書を借りる仲まで行ったのだろう。翠はフットワークが軽いほうではない。夕莉ほどひどくないが、かなりの人見知りだ。それなのにこの親密度は不自然だ。


「……最初から知っていたの? 先輩たちのこと」


 合点が行くのにそう時間はかからなかった。翠はおそらく、夏央たちに名簿を渡す係を頼まれたのだ。いや、自分から志願したのかもしれない。夕莉に気づかれないように一般クラスのボランティア部と接触し、「一般人」の仲間入りを果たすために関係を築いた。


 デイケア組の入学式の日、翠は「ちょっと待ってて」と夕莉を一階のホールに待たせていた。


 待った時間はそれほど長くなかった。きっと忘れ物でもしたのだろうとしか思わなかった。職員室はホールから少し遠い。しばらくすると翠が何事もなかったかのように帰ってきた。夕莉は何も疑問に思うことはなく、翠と帰路に着いた。


 あの時、すでに翠は決心していたのだ。一般クラスに移ると。そしてその頃には、とっくに親と話し合いがついていたのだ。昨日の晩の相談とは、最終的な確認のことだろう。翠は夕莉を置いていく。妹から離れていく。夕莉は一人ぼっちになる。そのことに本人が一番耐えられなかった。


「夏央先輩も、冬華先輩も、皆グルだったんだ」


 身体が震えている。これは怒りか、悲しみか。夕莉はキッと兄をにらんだ。翠は無表情だった。能面のような顔でまた淡々と言葉を紡いだ。


「先輩たちは、お前を騙していたわけじゃない。俺たちが双子だということまでは話していないし、俺は単にいずれあなたたちの学級へ編入するつもりです、と言っただけだ」


「でも、私に隠し事していたじゃない」


 わなわなと震えながらそれだけを言うと、もうそれ以上の台詞が口から出てこなかった。言いたいことは山ほどあるのに、言葉のサインを送る脳の部分が麻痺して喉から音にもならない喘ぎが出ただけだった。


「……バレたの意外と早かったけど、そういうことで、俺はもうここには来ないから」


 翠は鞄を下げて席を立った。夕莉のことを振り返ることもなかった。


「午後はただのトークだから俺サボるわ。もっといっぱい勉強したいし、担任にも頼んで編入試験のための課題もらっているから。じゃあな」


 まるで逃げるようにして翠は教室を出て行った。周りのクラスメイトがざわざわと翠のことを話し始めたが、夕莉の耳には兄の「じゃあな」という別れの言葉だけが響いていた。周りの声が聞こえない。佳純の顔も見えない。気がつくと夕莉は放心したように涙だけを流していた。


 ズキリと頭が痛んだ。とたんに猛烈な痛みが襲った。夕莉は頭を抱えてその場に泣き崩れた。もう自分たちは同じように体調を崩さない。一緒の部屋で互いを気遣いながら他愛のない話をすることもない。寄り添い合って学校への道を歩くこともない。帰ることもない。すべてが突然終わったのだった。


 誰かが夕莉の腕を取って、立ち上がらせた。細い指先から女子生徒だと思い、佳純の顔がぼやけて見え始めると夕莉はふいに泣き止んだ。頭は変わらずひどく痛んだが、佳純がそっと背中を撫でながら夕莉を連れて行ってくれたので、絶望のような感情はふと薄まった。佳純はそのまま夕莉を外の世界へと連れ出した。






 四月の半ばの空気は爽やかだった。日差しが燦々と降り注ぎ、昼間のこの時間帯には若葉の匂いもした。人気のない中庭へと行き、授業中のクラスの死角に入るように隅っこへ寄ってベンチに腰かけた。すると不思議と落ち着いた。


「ごめん……。私、また馬鹿やっちゃって……」


 夕莉がぐずると、佳純は母のように背中をさすり続けた。


「……私たちね、小さい頃は特に仲良かったわけじゃなかったの」


 佳純が「うん」と相槌を打ってくれる。その優しさにすべて委ねようと夕莉は洗いざらい話した。


 二人は手のかかる子どもだった。四六時中泣くしすぐにお腹を壊すしミルクは吐くし、双子だったせいか両親は軽い育児鬱になりかけていた。


 父方か母方か今ではもう覚えていないが、祖母が「こんなに泣くのはおかしい。どこかが悪いのかもしれない」と言って二人を病院へ連れて行き、検査を受けた。そこで初めて夕莉は慢性的な頭痛、翠は喘息発作と知らされた。五歳になる頃だった。


 夕莉の頭痛と翠の喘息は、たいてい夜中に起こった。両親が電気をつけて二人の看病をした。母が夕莉たちに街の夜景を見せた。すると二人とも大人しくなり、なぜか症状も治まった。それ以来、両親は子どもに言い聞かせた。「あなたたちはほかの子より身体が弱いのだから、お互いに助け合って生きていきなさい」と。


 小学校に上がった時、二人はいつどんな時でもくっついていた。相手に何かあった場合、すぐに助けられるようにと。


 しかしクラスは、別々になった。


 一年生の二人は頻繁に体調を崩し、まったく同じタイミングで保健室へ行ったり学校を欠席したり遅刻、早退を繰り返した。朝八時半から昼の三時まで体力が持たないのだった。二人はだんだんと衰弱していき、二年生になる頃には「病弱兄妹」と学年の名物にされて有名になってしまった。二人は—少なくとも夕莉のほうは、ますます互いに依存していった。代わりにノートを取ってくれる友達も教科書を見せてくれるクラスメイトもいなかった。勉強に遅れが生じた。もう何もかもどうでもよかった。


「お兄ちゃん、もう死んじゃおうよ。そのほうが楽だよ」


 熱にうなされて一つの部屋で布団にくるまっている時、夕莉は隣のベッドで寝ている翠に助けを求めた。「死」とは、助けだった。


「こんなポンコツの身体、捨てたいよ。生まれ変わりたい」


 他人はいつだって冷たかった。夕莉と翠に理解のある接し方をしてくれる者などいなかった。生徒も教師も同じだ。自分をわかってくれるのは親とこの片割れだけだ。


「うん。いいよ」


 翠が苦しそうに咳をしながらもそう答えたのが聞こえた。夕莉は翠と見つめ合った。彼の目にはちゃんと自分が映っていた。


「いつか死のう。絶対に」


 翠は、はっきりと言った。


「……いつがいい?」


 夕莉が泣きながら問うと、翠は天井を見上げた。


「小学校を卒業したら」


「……わかった」


 二人は死ぬことを誓い合った。具体的な日にちは特に決めなかった。ある日ふと、兄が「そろそろ死のうか」と言ってくれるのを今日に至るまで待っていた。


 中学生になれば死ねると思った。卒業式には出なかった。まるで運命のように二人とも病状が悪化したからだった。


 両親が学校を下調べして、このデイケア学級がある場所を突き止めたのは、二人が死を決意してからしばらく経ってからのことだった。


 デイケア組には受験勉強がない代わりに、面接と診断書が必要だった。「ここに入れば生きるのも少しは楽になるよ」と両親が優しく諭してくれるのを、夕莉はただただ申し訳なく思った。自分たちはもうじき死ぬ。兄が合図を出してくれる。だから他人などいらない。自分たちに未来などないのだから。


 しかし兄はいつの間にか変わっていた。生きる決意をしていた。夕莉にも気づかれないほど、一人で生きようとし始めた。


 私は一体どうなるの?


 叫びたくなった。この激しい感情をどこにぶつければいいのかわからなかった。怒りなのか悲しみなのか憎しみなのかもわからないまま、夕莉は佳純に昔の話を打ち明けていた。


 話が終わると、佳純はギュッと夕莉の手を握った。


「いい天気だね」


 そう言って、空を見上げた。夕莉もつられて顔を上げると、筋状の白い雲が薄く伸びた真っ青な空が、きらきらと日の光を落としながら一面に広がっていた。


「今が一番いい時期だね」


 佳純の手は温もりがあった。


 夕莉の目にまた涙がにじみ出てきた。もう何度泣いたのかわからない。どんなに泣いたところで現状がよくなることもないのに。それでも泣かずにはいられなかった。


「助けてほしいわけじゃない」


 夕莉はしゃくり上げながら、精いっぱいの抵抗を言った。


「たとえ助けられても、私は何もできないポンコツな人間だって、わかるだけだから」


 佳純の手を強く握り返す。彼女もそれに応えるように手の力を強める。


「同情なんか、いらない。かわいそうって言葉が、一番嫌いだ」


「うん。私も」


 佳純は落ち着いていた。夕莉の泣き声が大きくなった。


「こ、これから、生きなきゃいけない。私一人じゃ死ねない」


「うん」


「でも、どうしよう。どうやって生き残ればいいの」


「私もわからない」


 佳純がボソッと言った。夕莉は小さな子どものように泣きじゃくる。


「お、お兄ちゃん、いつか話してくれるかな。どこで変わったのか、教えてくれるかな。もう会えないかもしれないけど」


 佳純は何も言わなかった。


「わ、私、もう行かなくちゃ。お兄ちゃんに追いつかなくちゃ。今さら遅いけど」


 佳純の掌が汗ばんでいた。それともこれは自分の手汗かもしれない。


「が、がんばらなくちゃ。そう思わないと、勝てないよ」


 私は、何に勝てるのか。私に勝つ手段が残されているのか。


 空を見上げた。佳純の言う通り、本当にいい天気だった。進まなければいけない。夏央や冬華たちを、もっと知っていかなければいけない。知ることは、繋がることだ。


 自分が何の役に立てるのかは、まだわからない。ただ、掌に佳純の体温があった。柔らかくて湿った、小さな手だった。この手を握ることに、意味があるのだろう。


 呼吸を整える。空に浮かぶ飛行機雲を見上げる。夕莉は立ち上がって、佳純と一緒にもっと日の当たる場所に出た。


 大きく伸びをした。なぜだか急に身体を動かしてみたくなり、ストレッチをした。佳純も気持ちよさそうに太陽の光を浴びている。


 一般クラスの授業が見えた。窓際の生徒たちがこちらに気づいて怪訝そうな顔をする。夕莉は、あそこに兄が行くのか、と教室を見つめた。一人と目が合った。すぐに視線をそらされた。思わず佳純と笑い合った。


「案外ビビリだね」


「皆そんなもんだよ」


 夕莉は歩き出した。デイケア組の教室へ。「もうふれあいトーク始まっちゃったなー。今から行くの気まずい」「じゃあサボっちゃおうよ」佳純が楽しそうに言うので、夕莉も「どこにしようか?」と笑った。


 ホールへと続く中扉を開けて、夕莉は一歩を踏み出した。まだ若干震えている身体を佳純に悟られないように、足を踏みしめた。




 隣では、佳純が微笑んでいた。





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