内海が双子の姉を連れて夕莉たちのクラスに来たのは、それから三日後のことだった。
あの保健室のにらみ合いなどすっかり忘れた頃、夕莉は初対面する一般クラスの生徒たちにかなり緊張していた。担任教諭が「今日のふれあいトークはボランティア部の人が来てくれます」と滑舌のいい話し方でそう告げた際、クラス中に緊張のような張りつめた空気が伝わった。皆、一般人に対して悪い印象しかないようだった。もともと大人しい人たちが集まった教室はますますしんと静まり返ってしまった。
「そんなに怖がるな。皆、誰かを助けたいという気持ちを持った子たちなんだから」
担任は苦笑しながら言った。それは理解しているつもりなのだが、どうしてもあの明るすぎる空気感が苦手だった。それは夕莉だけでなく、皆も思っていることのようだった。
そうこうするうちにいよいよ時間が来てしまい、廊下に人だかりができた。一般クラスの生徒たちだ。夕莉は思わず身構えた。周りのクラスメイトも不安そうに顔を見合わせている。
「ボランティア部の二年生が来てくれました。どうぞ」
担任が教室のドアを開けた。七名ほどの男女合わせた生徒たちがぞろぞろと入ってきた。その中で一人、ぽっと背の抜きん出たスタイルのいい男子生徒が「あっ!」と突然声を上げた。夕莉たちはビクリと飛び上がった。
「青花!」
重厚感のある低温ボイスに、夕莉は「あ……」と思い出した。
あの時の「ベッド空きましたよ」と席を外した目つきの鋭い黒髪の男の子が、夕莉のことをまじまじと見つめていた。
ボランティア部は、デイケア組の時間割に合わせて午後の授業を立て替えて行われるため、夕莉たちが帰ったあとにはその分の授業を巻き返さなければいけない。つまりほかの生徒たちより帰りが遅くなるのだ。放課後に部活動を行っている者と同じ時間帯に帰るので、週に一度このような活動をするのはその名の通りボランティアだった。
「俺、下の名前、夏央な」
彼が自分の名前を教えたので夕莉も簡単に自己紹介をした。「青花ってあまり見ない名字だから、すぐに覚えたな」と夏央が笑うと、意外と愛嬌のある表情になった。翠が言っていた「デイケア組の名簿でも渡されたんだろ」という台詞を思いだし、問うと、夏央は「ああ、そうだよ。一通り覚えてくださいって」と答えた。
離れたグループにいる翠を見る。兄はすらりとした背の黒髪ショートヘアの女子生徒と何やら話し込んでいる。夕莉の視線に気づいたのか、夏央が「あれは姉の
「どっちが上なの?」
兄妹構成を訊かれているのだと気づいた夕莉は「兄の翠のほうです」と簡潔に答えた。
「ふうん。夕莉が妹で、翠が兄か。こっちは姉と弟だし、双子同士だな」
さらっと下の名前で呼ばれたが、嫌な感じはしなかった。
「な、夏央先輩」
自分も思い切って名前で呼ぶと、夏央は特に表情を変えずに「ん?」と視線を合わせた。
「先輩たちも、同じ時期に具合が悪くなったりしませんか?」
これは夕莉が前から誰かに問いかけたかった質問だった。翠と夕莉はそれぞれ喘息と頭痛を抱えているため上手く身体を動かせない。一般クラスにいる夏央たちはどうなのだろうと、今まで周りに双子がいなかった夕莉は前から感じていた疑問をぶつけることにした。
「私たち、大体同じタイミングで体調を崩すんです。あの時は体育の授業だったから私だけでしたが……」
「翠のほうは運動できるのか?」
「あ、はい。お兄ちゃんは運動している時は調子がいいんです。激しい運動はできないけど。私の場合は身体を動かすだけで頭が痛くなっちゃって。たいていは季節の変わり目と梅雨の時期に身体が弱ります」
夏央は「へえ」と興味深そうにつぶやいた。そして「俺らはめったに風邪ひかないからなあ」と頭を掻いた。夕莉は「……丈夫なんですね」としか返せなかった。
「双子は学問的にもまだまだ解明されていないことが多いから、謎だな。お前らのそれも、何か通じ合っていたりして」
夏央は少し楽しそうに言った。自分と同じ双子という存在がいたことが嬉しいのは、どうやら夕莉だけではないらしい。
「一卵性の人たちは、通じ合ったりするんでしょうか」
「どうだろうな。あまり自分と似ているのも嫌な感じがするかもしれないな」
夕莉たちは性別が違い、二卵性である。今まで自分の世界には翠しかいなかったが、佳純や夏央たちと出会ったことで、何かが変わるかもしれないことを夕莉は実感していた。
Aグループの夕莉と夏央は、司会を行っている一般クラスの生徒から少し離れるように距離を置き、こそこそと話していた。トークのテーマが決まり、デイケア組の子が話し始めたところで夏央は「まあ、これからよろしくな」と椅子を引いて周りの人たちの会話に参加した。夕莉も椅子の位置を直して隣にいる夏央の横顔を見た。切れ味の鋭い目つきとは裏腹に大らかそうな雰囲気を纏ったその男子生徒は、「敵」ではないかもしれないと思い、夕莉は警戒を解くことにした。
Bグループのほうで朗らかな笑い声が起こった。佳純が口に手を当てて上品に笑っている。ボランティア部が何か洒落た冗談でも言ったのだろう。Cグループの翠は夏央の姉である黒髪ショートヘアの女子生徒—冬華とぴったり寄り添ってずっと何かを話している。ふいに胸の奥をじりじりとした日焼けのような痛みが走った。嫉妬だろうか。だとしたら、自分は相当嫌な女だ。
ボランティア部の生徒たちは、明るく話し上手で常にこちらをリードしてくれていた。夕莉たちも少しずつ口を割るようになり、まだどことなく緊張感があったが大きなトラブルもなく、その日の午後のふれあいトークは終了した。
「お兄ちゃん、冬華さんと何話してたの?」
帰り道、夕莉は翠に尋ねた。二人はいつものようにモノレール線までのアーケード街を寄り添って歩いていた。
「ん、別に」
翠の返事はそっけない。昔から無愛想なところはあったが、最近は特にそうだ。感じたこともなかった不安がこの日、種となって夕莉の心に植えつけられた。
「あのね、夏央先輩と冬華先輩は両方とも丈夫でね、あまり風邪をひかないんだって」
「うん、聞いた」
翠の声はどこか上の空だった。夕莉は懸命に口を動かした。
「夏央先輩は、世話好きな親分肌って感じがした。冬華先輩はどうだった?」
「同じ。姉御肌な女。同性から慕われている感じだった」
翠は温度のない声で言う。彼はいつも面倒くさそうに夕莉に接していたが、目はきちんと妹の視線を捉えて真っ直ぐだった。綺麗な二重のラインがスッと横に伸びて、その芸術的なほど美しい目の形が夕莉は好きだった。しかし今は、ぼんやりと膜の覆ったような虚ろな瞳で、少しも妹の話に耳を貸していなかった。
夕莉は不安を抱えたまま、それきり黙って兄の横を歩いていた。心地よかったはずの二人の沈黙が、重苦しくて暗いものになった。
その日の夜、翠は両親に「話がある」と言って夕ごはん後のダイニングテーブルに居座り、夕莉を部屋から追い出して親と長い相談を始めた。自室に戻った夕莉は寝るまでの時間、ひたすらベッドに座り込んで膝を抱えていた。何かが動く気配がした。自分ではどうすることもできないほどの、大きな運命のようなものが。唯一わかるのは、兄が何か大きな秘密を抱えているということだった。助け合って生きていくことを理念としていたのは、自分だけだったのだろうか。
真夜中のことだった。また頭痛に襲われた。それは今までとは何かが違う、粘っこくてしつこい痛みだった。自分の無力さを嘲笑しているかのような激しい痛みが襲った。リビングルームに行って水を飲みながら窓の外の夜景を見た。兄が来るのを待った。しかし翠は一向に来なかった。いくら待っても頭痛は治まらず、嫌な予感がした。兄と自分の波長がずれている。どのように修正したらいいのか、夕莉にはわからなかった。
ソファーに横になりながら、空を見る。濃い黄色の三日月が光っていた。空は晴れているらしい。星を一つ見つけた。一人で見る夜の街は、頼りなく儚かった。それでもまだきれいだと思える自分に安心して、夕莉はリビングのソファーで朝まで眠った。