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「青花夕莉」2


 モノレール線に乗って停車駅で降りたところで、自分たちと同じ制服を着た子どもたちを見た。しかしその子たちは健全的な雰囲気を身にまとっていて、『普通学級』の子たちなのだとすぐに察しがついた。入学式の時に一度行ったきりなのでこの辺の土地感覚が今ひとつわからず、二人はとりあえずその生徒たちのあとをついていった。駅を出ると最近発展したと思われる賑やかだがどこか素朴な店が立ち並び、そのアーケード街をどんどん進んだ。そこを抜けるとアスファルトの照り返しがきつい傾斜の道があり、その道に入ったとたん嘘のように先ほどまでの人ごみがなくなった。静かな空気が流れるアスファルトの小高い道を、二人と同じ制服の子が歩いていく。夕莉と翠も懸命に足を動かし、坂を上っていく。いつの間にか同じ制服の子どもたちがほかにも大勢歩いていた。皆は楽しそうにおしゃべりを交わしながら、坂道をぐんぐん進んでいく。夕莉たちは何人もの生徒に追い抜かされて、ようやく学校へ着く頃には軽く息が切れていた。


「新学期早々、死ぬっての」


 翠がぼやいた。その投げやりな感じが何とも彼らしくて、夕莉は苦笑した。


 二人の下駄箱は、一般の生徒たちから離れた隅のほうにあった。上履きに履き替え、入学式の時に指示された教室へ向かう。そこは坂の傾斜の関係上、渡り廊下を通った地下へと続く場所だった。下り坂のところに構えている教室で、そのため地下といっても太陽の光は届く。窓の外からは見渡す限りの東京の街並みとその向こうの小さな山々が見える。


 地下一階。一年生の教室へ入る。クラスの名は『デイケア組』。夕莉はだいぶ緊張して足が一瞬すくんだが、翠のほうは大胆にずかずかと足を運ぶ。あわてて兄のあとをついて、自分と同じ赤みがかった茶髪を目で追う。一番前の席に座り、夕莉と翠は再び無言で時が経つのを待った。


「兄妹?」


 ふと声がかかった。二人は条件反射で同時に振り返った。


 艶のある長い黒髪をハーフアップに結い上げた、優しげな雰囲気の女子生徒がいた。


 夕莉と翠は目を見合わせた。「他人」に声をかけられた時の対処法を、翠が瞬時に見つけ出した。


「うん。そう」


 翠が突き放したように言った。夕莉は黙って目の前のそばかすの浮いた少女を見つめている。若干怯えるように。


「えっと、お兄さんで、妹さんかな?」


 女子生徒はふんわりと問いかけ、微笑んだ。この「他人」は果たして敵か、そうではないのか。夕莉にはまだわかりかねていた。


「ああ。双子」


 翠が言う。少女は「ああ、そうなんだ。そんな気がしてた」とまた笑った。


「私は伊織佳純いおり かすみです。青花あおはな、さん?」


 佳純と名乗ったその少女は入学式の時に配られたプリントを広げた。


「そう。俺が青花翠で、こっちが妹の青花夕莉」


 翠が自分の名を言ったので、夕莉はビクリとした。「他人」にここまで話していいのかと、心配そうに兄のほうを見る。翠は、多分こいつは大丈夫、と目で言った。


「よろしくお願いします」


 佳純はうっすらと浮かんだそばかすでにっこりと爽やかに笑った。夕莉も決心して、ぎこちない笑みで返した。


「……よろしく」


 自分とは程遠い、艶やかな黒髪が記憶に残りそうなほど綺麗だった。






 新学期一日目の授業は、国語、数学、英語、情報だった。このクラスは午前授業のみで、午後は『生活体験クラブ』というデイケアサービスに変わり、音楽鑑賞をしたりDVDを観たりする。一番多いのは『ふれあいトーク』という自己紹介のようなスピーチで、自分の好きなものやはまっている趣味などを披露するのである。一般クラスよりも一時間早めに学校は終わり、生徒たちはほとんどどこにも寄り道せずにまっすぐ帰る。中には親が車で迎えに来てくれるケースも少なくない。夕莉と翠は両親が働いているので、夕方の家事をするために家に直帰する。誰かと遊んで帰るなどという発想は今まで一ミリもなかった。


 それが今、二人のそばに歩いている女子生徒が一人。


「青花さんたちはどこに住んでいるの?」


 佳純がふんわりと笑って当たり障りのない質問を口にしていた。


「モノレール線のところ」


 夕莉が黙っていると、翠が代わりに答えてくれた。


「わりと遠いね」


「でも三、四十分くらいだから」


 翠が佳純に話を合わせているのを見て、夕莉はますます縮こまってしまう。佳純は空気を察したように「私はバスなの。また明日ね」と爽やかに答えるとバス停のほうへ歩いていった。


 佳純の後ろ姿が遠くなると、翠があきれたように夕莉を振り返った。


「お前、もっとシャキッとしろよ」


「……うん」


「うじうじオドオドしているから、皆に舐められるんだよ」


「……ごめん」


 翠は溜め息を一つ吐き、「まあ今回は大丈夫だと思うけど」と言って先を歩いた。夕莉も後ろについてくるように足を運ぶ。二人は肩を並べて真昼の春の日差しに照らされながら帰り道を進んだ。伊織佳純は悪い人間ではなさそうだと、夕莉は自分の心に言い聞かせていた。






 翌日の体育の授業はバスケだった。


 夕莉はいつものように見学で、体育館の隅っこに正座していた。翠と佳純は出席している。この授業も一般クラスのような本格的なものではなくて、仲間とパスの練習をしたりシュートを入れる回数を競ったりする程度だった。しかしそのレベルの運動も夕莉はこなせない。昔から身体を動かすと決まってひどい頭痛に襲われるからだ。


 今もズキズキと鈍い痛みがうずいている。体育館の中は熱が溜まっていて、埃臭くて暑いくらいだった。夕莉は制服のブレザーを脱いで膝にかけ、ベスト姿になった。あらかじめ持っていた保冷剤を側頭部に当て、時間が過ぎるのを待つ。翠は華麗にシュートを決めていた。佳純もほかの女子と楽しそうにパスを回している。


「おい青花、大丈夫か?」


 体育教師がちらりと視線をやって夕莉に声をかけた。かなりひどい顔色なのだろう。体育教師は心配そうな表情をしていた。


「すみません、保健室行ってもいいですか?」


「そうしなさい」


 夕莉は一言断わり、プレイ中の皆の邪魔にならないようにそろそろと動いた。体育館を出て、廊下を渡り一階の保健室へ向かう。移動教室に使う施設はデイケア組と一般クラスに分かれていない。すべて一緒だ。今日のように体育館や保健室など使う場合は一般クラスの生徒と出会うことになる。それが緊張したが、使わないわけにはいかないので仕方なく行く。一階に着いてデイケア組の教室の道にある保健室の扉を開いた。微かな薬品の匂いと落ち着いた色合いの部屋にどことなくほっとした。


 ここの保健室はかなり大きい。ベッドが全部で五台あり、間隔も広く開けられている。休憩スペースは十人ほどが座れる長方形の真っ白なテーブルがあり、女性の保険医二人が受けつけのように入り口付近のデスクに座っている。


 保険医の一人が「頭が痛いの?」とすぐに夕莉の状態を察してくれた。「はい。ちょっと」と言うと同時に右側頭部がズキンと激しく痛んだ。「一年の青花です。あの……。頭痛もちで、これからたくさんお世話になると思うんですけど」言葉を濁しながらそう告げると、保険医は「実はベッドが空いてなくてね。どうしましょう。ソファーで横になる?」と困ったように視線をうろつかせた。デイケア組の子が使っているのだろうかと思いながら「じゃあそうします」と言ってソファーに座った時だった。


「ベッド空きましたよ」


 翠の声とよく似た低温ボイスが聞こえた。ふと後ろを振り返ると、何やらきつそうな外見をした背の高い男子生徒が立っていた。寝癖のついた黒髪を手串で直しながら、ふわ〜と間の抜けた欠伸をしている。


内海うつみ君、具合は治ったの?」


 保険医が「まだ三十分も経ってないけど」と戸惑ったように訊いた。内海と呼ばれた男子生徒は目をこすりながら「俺、眠くてサボっていただけだから。この人のほうが具合悪そうだし」とぼやけた声で言った。そして「あと俺の勘なんだけど、その人、デイケア組でしょ?」と何の悪気もない調子で暴露した。


「まあ、あなた、そうだったの」


 保険医がやけに優しい顔になった。夕莉は気まずくなって思わず内海をにらんだ。内海のほうも「あ?」と威圧的な視線を向けた。しばらく両者はにらみ合った。


「せっかくベッドが空いたんだし、青花さん、しばらく寝ていましょう」


 保険医があわてたように夕莉を促した。ふんと鼻を鳴らして内海のほうをすり抜け、彼がいたベッドに横になる。保険医がカーテンを閉める際、ちらりと内海のことを再び見た。彼はすでに背中を向け「じゃあさよなら〜」と扉を開けひらひらと手を振っていた。まだ成長途中の夕莉とは対照的に、程よく筋肉もあり大人びた身体つきだった。その広い背中を一瞬だけ見つめ、ふと兄の翠も成長したらこんな感じになるのだろうかと思った。カーテンが完全に閉まると、すぐに夕莉は寝る体勢に入った。内海の体温が少しだけシーツに残っていた。






 横になっているうちに授業が終わるチャイムが鳴った。結局眠れなかったが頭痛はだいぶ治まり、夕莉はゆっくりと起きて制服のスカートを整えた。外していたリボンタイをつけ、枕元に畳んでいたブレザーを羽織ってカーテンを開ける。「具合はどうかしら?」保険医の言葉に「よくなりました。次の授業は出られそうです」と返してソファーに座った。「兄が迎えに来てくれると思うので、ちょっと待っていていいですか?」


 そう言うと保険医は「お兄さんがいるのね。仲が良いのね」と穏やかに笑った。夕莉は誇らしい気持ちになるのを抑えられなかった。そう、いつだって兄は迎えに来てくれる。弱くて情けない自分をビシッと叱ってくれる。同じ日に同じ時間帯で生まれて、まるで運命のように持病を患って、それでも自分よりはいくらか丈夫な兄。兄が導いてくれるから、さっきのようにデイケア組だということを暴露されてもかろうじて負けなかった。あとで兄に言いつけよう。そういえばあの男子、なぜデイケア組だということを知っていたのだろうか。


 悶々としていると体育の授業を終えた翠がやって来る気配がした。不思議と、翠の迎えはすぐにわかるのだった。足音や歩き方で判断するのではなく、直感で察することができるのだ。


「夕莉」


 扉が開いて、翠が顔を出した。夕莉は立ち上がって体操着のままの兄のそばに行く。


「次の授業はちゃんと出ろよ」


「うん」


 自分と同じくらいの背丈の翠を見て、あの男子は上級生なのだろうかと考えた。そして保険医に「ありがとうございました」と挨拶をして教室に戻る。渡り廊下を渡って地下へ降りる時、翠に内海のことを話した。すると翠は「それ、多分ボランティア部だろ」と答えた。


「ボランティア?」


「うちの学校、デイケア組があるくらいだからそういうことに力入れてるんだよ。ボランティア部は一年から三年までいて、そいつは多分、二年か三年だな。今年入ったデイケア一年の名簿でも見たんだろ。青花って名字は珍しいから」


「ふうん」


 夕莉が納得したように相槌を打つと、翠は続けた。


「ボランティア部は週に一度、俺たちのクラスに来て親睦会みたいなのするんだってよ。ふれあいトークに一般クラスが入ってくるような感じ」


「えぇ……?」


 夕莉は顔をしかめた。「一般人」という丈夫で健康で遠慮がない無粋な人間が自分たちの世界に入ってくるということに、夕莉はまったくと言っていいほどいい印象を抱けなかった。


「いつから来るの?」


「今週だろ」


「早……」


「お前、何も知らなすぎ」


 翠はまたあきれたように妹を見た。「入学式の日に全部説明されただろ。ガイダンスにも書いてあったし。ちゃんと見ろよな」と深い溜め息を吐く。夕莉は「えへへ」と誤魔化すように笑った。一度も告げたことはないが、翠に叱られるのは好きだった。両親が怒る時はひたすら怖いが、翠の怒り方はどこか可愛げがあって、嫌な気持ちにならなかった。


 更衣室で別れて先に教室へ入ると、着替えを終えた佳純が「頭が痛くなっちゃったの?」と遠慮がちに訊いた。


「うん。実は私、かなり重い頭痛もちで。またこれからも迷惑かけるかもしれないけど……」


 さらりと自分の持病を話せたことに、夕莉は内心驚いていた。佳純と出会ってまだ間もないのに、ここまで告白できるのは、彼女がお人好しを絵に描いたような見た目だからか。それとも「デイケア組」という安全な檻に囲まれた中で、ある種の心地よさを抱き始めたからか。どちらにせよ、すっきりしたことは確かだった。


「そっか。それは大変だね」


 佳純の言い方は丁寧で、気遣いが感じられた。彼女はどんな事情でこの学級にいるのだろうと問いかけたくなったが、向こうから言いだしてこない限りは詮索しないほうが優しさだろうと思い、やめた。夕莉は佳純と他愛のない話をしながら次の授業の教科書を準備した。翠も制服に着替えて戻ってきて、そばにいた男子たちと楽しそうにしゃべり始めた。お互い友人ができたことで、余裕が生まれた。今日の帰りはそれぞれ別かな、と考えた。





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