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第一章 「青花夕莉」1


 今日も頭痛で目が覚めた。寝返りを打っても頭は痛くなる一方なので、あきらめて起きる。時計を見た。深夜二時半。家族を起こさないようにゆっくりとベッドから下りて、自室を出る。ズキズキと痛む頭に手を当てながら、夕莉ゆうりはリビングルームへと向かった。


 冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで飲む。分厚い遮光カーテンを開け、マンションの上階から見える東京の夜景を眺めた。ベランダに出ようかとも思ったが、まだ肌寒い四月の始めの夜なので部屋の中で見ることに決めた。


 頭痛がひどい時には、街の夜景を見ると落ち着いた。下には人工的なネオンの輝き。ミニチュアのような車。上を見ると、ほんの少しの星と黄味がかった真ん丸の月。こんな時、東京の空はなんてきれいなのだろうと思う。すべてが幻で、すべてが飾り物。これくらいがちょうどいい。親戚の家に行った時の田舎の夜空は怖かった。こちらを見下ろしてくる星たちの大群。天の川。音もない世界。静寂に満ちた闇。あれは人間が知ってはいけない世界だ。現地の人たちは、毎日あの底のない得体の知れなさと触れ合っていて、気でも狂わないのだろうか。彼らは何を思い、何を考えているのか。東京の空を見るたびに思い出す。


 窓のそばに椅子を引いて座り、じっとネオンの光を見ていると、ふいにリビングのドアが開く音がした。夕莉は振り向く。兄がいた。苦しそうに咳をしながら、先ほど夕莉がやったみたいに麦茶を飲み、テーブルに着く。


「夜景見ないの? お兄ちゃん」


 夕莉が問いかけると、兄のみどりはだいぶひどい咳をして、しゃがれた声を出した。


「どうせ見たって治らないから」


 本当の翠の声は渋みのある低音で、十代の男の子の中ではとても大人びた落ち着いたものなのだが、今の彼は持病の喘息のせいでひどい有様になっている。


「気休めでも見たほうがいいよ」


 夕莉はそう言うと兄に手招きをした。翠は少し面倒くさそうな顔をしながらも、黙って椅子を動かして彼女の隣に来た。


 二人は何を話すでもなく、ただじっと真夜中の都会の街並みを眺め続けた。


 小さい頃の記憶は、あまりよく覚えていない。ずっと頭が痛くてどこでも泣き喚いていたということしか思い出にない。五歳の時に大きな病院へ行かされ、そこで慢性的な片頭痛だということを知らされた。それ以来、定期的に病院へ行き頭痛薬をもらう日々を繰り返している。


 頭痛は、いつどこで起こるかわからない。学校の授業中でも頭が痛くなったし、家でも突然襲ってきた。痛み止めの薬を常備していて、それがないと気が気でいられなかった。一番困ったのは夜寝ている時だ。頭が痛くて目が覚める。そういう時はたいてい涙が出ている。とある日の夜、母が寝室から夕莉を連れて行ってリビングルームから街の夜景を見せてくれた。その時、不思議と頭痛が和らいだ。心も落ち着いた。母は夕莉を抱きしめて、背中をさすってくれていた。外は綺麗だね。そう言いながら、一緒に夜を過ごしてくれた。


 そして、隣には、いつも翠がいた。


 夕莉と同じように喘息で苦しみ、同じように母に寄り添って窓の外の風景を眺めていた、双子の兄。


 あの頃、唯一心が安らいだのは、母と兄の三人で夜を眺めている静かな時間帯のリビングルームだけだった。






 明け方近くになって、ようやく頭痛は治まった。翠も同じタイミングで調子を取り戻し、ふらふらと自室へ戻った。夕莉はその姿を見送りながら、あと二時間は眠れるだろうかと壁時計を見た。四時二十分。コップを注ぎリビングを出る。父と母の寝室の隣にある六畳の部屋が夕莉の自室だ。翠は少し離れた玄関側の自分より少しだけ広い部屋にいる。物置部屋になっている三畳ほどのスペースを挟んで、二人の自室はある。夕莉はドアをそっと閉めるとベッドに仰向けになり、目を閉じた。痛みでこわばっていた身体がゆるみ、眠気がさざ波のように押し寄せてきた。


 携帯のアラームが鳴っていた。寝ていたというよりは気絶していたという状態に近い身体を何とか起こして、アラームを止める。七時だった。朝日は完全に昇り、カーテンの隙間から眩しい光が漏れていた。頭痛は治まっていた。朝の支度を済ませ、パジャマ姿のままで朝食を食べに食卓へ向かう。両親に朝の挨拶をして翠の隣に座る。朝食はスーパーで買ったパンと牛乳で、共働きの両親は出勤前の身なりを整えるためせわしなく動いていた。


「洗濯物干しておいてね。食器洗い機かけてね」


 母から発せられる怒涛のような指示に、夕莉と翠はまだ寝ぼけまなこで適当な相槌を打つ。「あとルンバかけて! 埃たまってるから!」と母は言い残すと最後に「行ってきます!」と叫んで父とともに出て行った。しばらく二人は無言のままパンを頬張ると、どちらからともなく皿を洗って食器洗い機にかけ、翠は全自動掃除機のルンバを起動し、夕莉は洗濯籠に洗い立ての服を入れた。二人が一番遅く家を出るため、朝の家事は二人の仕事だった。


 ベランダに出ると日差しは温かかったものの、ひんやりとした空気が頬に冷たく当たった。まだ本格的な春まで少し遠い、どこか冬の気配が残る青空を見た。白い半月がちょうど夕莉の視線の上にあった。


「……お月様はいいなあ。ただ浮かんでいるだけで皆に美しいなんて思われてさ」


 自分の赤みがかった茶色いセミロングの髪をいじりながらそれだけつぶやくと、夕莉はせっせと洗濯物を干し始める。十分ほどで仕事を終えると、自室に戻って制服を着る。髪をブローしてリップだけを塗り、学生鞄を持って玄関に出た。先に支度を終えていた翠が「おせーぞ」と言いたげな視線をやるとドアを開けた。夕莉は翠のあとに続いて、マンションの共有廊下に出た。


 あんたたちは持病があるのだから、お互い助け合えるようになるべく二人でいなさい。


 それが両親の口癖だった。夕莉と翠は必ずと言っていいほど同じタイミングで具合が悪くなるため、よく一緒の部屋で寝かされた。忙しい両親の代わりに父方の祖母や母方の祖母が交代制で二人の面倒を見ていた。しかし二人の祖母は年のせいで今は介護福祉サービスを受けている。


 中学生となった今でも、二人は一緒に登校している。親からのいいつけがいまだに身体の奥底に染みついているからか、それとも自分に理解のある接し方をしてくれるのは互いしかいないということに気づいているからなのか、夕莉と翠は離れ離れになったことがなかった。しっかりと互いにくっつき、寄り添い合い、今日から通学することになった新しい学校へ特に何の感慨もなく向かうのだった。


 夕莉たちのような子どもを集めた隔離学級—『デイケア学級』のある中学校へと。





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