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第3話「魂名」




「ニジカ! 逃げてください!」


「ルナ? うわあ!」


 ルナの警告にいち早く反応したのは、動物たちの方だった。

 猪がニジカの服を噛み、強い顎と首の力で宙へと放り投げて背中に乗せ、ルナの方へと走り出す。

他の小動物たちも続いた。

 直後、地響きと共に地面が割れ、潜んでいた者が首を上げる。

 ルナが斬った蛇と同じ、青銅の鱗と額に3つ目の眼を持ち合わせた、全長が10mはある巨大な大蛇が腹で花畑を踏み潰しながら、獲物と定めたニジカを追いかける。


「なに!? なにあれ!?」


「ニジカ!」


 ルナは翼を広げ、護りたい者の元に飛んだ。

 猪も懸命に走る。

 だが、生物としての絶対的優位性、差のあり過ぎる体の大きさは無情にもルナが辿り着くよりも速くニジカに大顎アギトを到達させようとする。

 それを阻止したのは、意外な援軍だった。

 空から急降下してきた数多の鳥、森から猛進して来た熊や狼などの動物たちが大蛇へと襲い掛かり、ニジカの危機を救った。


「こんな事って」


 ルナが空から見たのは、信じ難くも奇跡的な光景だった。

 森の動物たちが、まるでニジカを護るために大蛇に立ち向かっていた。

 勘違いかもしれない。動物たちは種の垣根を越えて、ただ住処を荒らす共通の敵を追い払おうとしているだけなのかもしれない。

 どちらでも構わない、ルナは心の中だけで彼らの勇気に感謝した。


「ルナ!」


「私の後ろにいてください」


 ようやく手に届いたニジカをルナは抱きしめてから、背後に移動させる。


「貴方もありがとうございます。危ないので避難してください」


「ブヒ!」


 通じていないとわかっていても、勇敢な猪にも感謝の言葉を送った。


「ニジカ、あれはネフシュタルという凶暴な大蛇です。蛇とは私たち天使の天敵であり、貴方の敵でもあります」


「そう、なの?」


 ニジカはルナの背中から暴れる大蛇を覗き、醜い見た目と凶暴性にこれまでに感じた事のない恐怖を覚えさせられた。


「怖いよ、ルナ…………」


 ルナの服を掴む小さな手が、細い足が震える。

 不安と恐怖に潤む瞳で縋るニジカへ、ルナは安心させるために微笑みかけた。


「安心してください、貴方は私が護ります。すぐに終わらせますのでそこを動かないでください」


 ニジカは、離れたくないと思いながらも邪魔をしてはいけないと服から手を離す。

 ルナはいつもの冷静な態度のまま、恐怖心など覚えていないとばかりに数歩先に進む。

 両翼を広げ、柄を両手で握りしめながら剣を頭上に振り上げ、深呼吸をする。

 ネフシュタルにはまだ距離があり、刃は届かない。

 それでも彼女はその場に立ち止まり、敵から目を離さず、呼吸を整え、ただ一撃の剣を降り下ろすための力を溜める様に集中する。


「風?」


 ニジカは、突然に方向を変えた風の異変に気付く。

 さっきまで何者にも縛られず自由に天界を駆け巡っていた風が、ルナの振り上げた剣の刃を中心に渦となって集まって来る。

 風と、加えて日の光を吸収する様に刃と純白の翼が光輝く。


「我が【魂名】こんめいリージョン剣の天使。この使命は、我が身を以って神子を護る剣となる事」


 そう口ずさみ、剣を降り下ろした。


「空閃」


 彼女の無駄な力みのない上から下への流麗な一撃と同時に、刃に纏っていた風と光が三日月形の閃光として閃き、飛ぶ。

 風としての身軽さと、光としての刹那の眩さを持つそれは、一瞬の後にネフシュタルの巨体を縦に走り抜けた。

 それが斬撃であるとニジカが知ったのは、10m級の巨体が脳天から左右に真っ二つに分かれ、花畑に倒れた後だった。


「こん、めい?」


「魂名とは、私たち天使の魂の名前です」


 ネフシュタルが倒れた衝撃で宙に舞い散る花びらたちを背に、ルナはニジカの方を振り返る。


「天使は、それぞれがこの天界が成す流れを循環させる役割、魂の使命を持って生まれると言われています。魂名とはその魂の使命を指す名であり、能力の源でもあるのです」


「あ、う」


 ルナの微笑みは、ニジカの言葉を詰まらせる。


「私の魂名は剣の天使を意味するリージョン。役割は貴方を護り、導くための剣となる事です。ニジカ、貴方が無事で良かった」


「うあぁ……」


 堰を切って喉奥からこみ上げてきた熱が目まで昇り、涙と声が溢れ出る。


「うわあああああああああ! 怖かった、凄く怖かったよぉ!」


「怖かったと思います。誰だって命を狙われればどうしようもなく怖くて、泣きたくなるものです」


 ルナはひたすらに泣くニジカへと近づき、優しい口調で言葉を掛けながら涙を掬い取る。

 彼女の背後では共闘した動物たちが勝利の雄叫びを上げ、ネフシュタルの死肉を貪っていた。

 自然の摂理。命の循環の景色。如何なる生物も死した肉体は別の命の糧となる。

 これも、神が創造したこの天界の成す流れの1つだった。

 その時、ふとルナは不穏な気配を全身で感じ取った。

 気配とは要素の集積物。音、臭い、風景、風の流れ、五感で捉えた数多の要素が形成する状態を気配と言う。

 どういう訳か、背後の動物たちの動きが、気配が変わったような気がした。

 そして、動物たちの悲鳴と怒号が入り交ざった咆哮がいくつも上がり、疑問は確信へと至る。

 ルナが目撃したのは、死骸となったはずのネフシュタルの復活だった。

 2つに分かれた肉塊の断面から、無数の小型のネフシュタルが肉を抉って生えてきたかと思えば、大型のネフシュタルが失った半身を補う様に寄せ集まる。

 そうして小型のネフシュタルたちはその身を骨や肉の代わりへと姿を変化させ、巨大ネフシュタル本体の致命的な欠損を復元させる。

 完全な元の姿を取り戻した大蛇は、再び起き上がった。

 しかも、今度は2匹に増えて。




 天界において、古より蛇とは不死の象徴である。




「そんな馬鹿な!?」


「なんで!? 倒したんじゃないの!?」


 復活し、2匹に増えたネフシュタルは再び暴れ出す。

 同一の存在が増え、対等だったはずの戦力差が覆される。

森の動物たちは次々と喰い殺され、尻尾で蹴散らされ、絞殺されていく。


「やめて、やめてよぉ!」


「ニジカ! 行ってはいけません!」


 ニジカの悲鳴にルナは同情だけができた。

 一方的な戦いは駆逐であり、残虐行為であり、綺麗だった川や花畑が死骸と血の海へと一変していく有様だった。


「蛇め!」


 片方が動物たちを駆逐している間に、もう片方のネフシュタルがルナとニジカに向かって大口を開けた。

 吐き出されたのは毒々しい紫色の液体。

ルナはニジカを抱えて飛んでくる液体を避けるも、液体が付着した地面は草花どころか土自体も煙を揚げて溶けているのを目の当たりにし、戦慄する。

 浴びれば溶けて死ぬ恐怖がすぐそこに、殺意を含んで飛んでくる。

 翼を羽ばたかせて空へ逃げるルナを、ネフシュタルは毒を飛ばして執拗に撃ち落とそうとする。


「空閃!」


 直線的に飛んでくる猛毒を、ルナは自分たちに届く手前で風と光の斬撃で斬り弾く。

 どんなに強い毒も触れなければ、届く前に斬って勢いを殺してしまえば脅威ではない。

 ひたすらに攻撃を弾き、距離を置こうとより高く、より遠くへ移動する事に努める。

 ルナ1人なら戦う選択肢も選べたが、ニジカを抱えるために片腕を使い、満足に動けない状態では荷が重すぎる相手だった。


「一先ず逃げます! しっかり捕まっていてください!」


「ルナ、何か変!」


 ニジカの警告は、遅かった。

 ネフシュタルの喉元が丸く大きく膨らみ、空に目掛けて吐しゃ物を飛ばす。

 今度は毒ではなく、無数の小型ネフシュタルだった。

 空を埋め尽くす量の蛇が、ルナたちよりも上空から毒牙を剥き出しにして雨の様に頭上に落下してくる。

 降り注ぐ範囲は、ルナが逃れられる範囲を超えていた。

 多くは墜落死するが、単体の死に意味はないとばかりに恐れる様子はない。

 神子を、邪魔をする天使を殺す。

 そんな目的のためだけに、群れは命を惜しまず、主はただ動く。


「ごめんなさい、ニジカ」


「え?」


 腰に回されていた腕の感触がなくなったかと思えば、ルナに振り払われ、ニジカは宙に放り出されていた。

 落ちた先は木の上であり、樹冠に紛れ込み、いくつもの枝葉で全身に傷をつけながら地上に落ちる。


「う、ぐぅ……、ル、ナ」


 背中から落ちた衝撃で一時的に呼吸ができなくなり、息苦しさと痛みで呻きながらもニジカはルナの心配していた。

 なんとか立ち上がって空を見上げたが、望んだ者はいなかった。


「ルナ?」


 純白の天使は、地に堕ちていた。

 全身に蛇が食らいつき、首元、翼、右手首、左足、噛まれた部位の傷口から赤い血が流れ、肌色は紫に変色していた。

 肌の変色は、毒が浸透しているのを意味する。

恐ろしくは、天使にとって特別効き目の強い蛇の猛毒をもし彼女たちが喰らってしまった場合、身体は腐り、朽ちていくという事だ。

 剣を握っていた右手首が、傷口を境目に陶器のように砕けた。

 次は翼が、膝から下の左足が、首の一部が。

 次々と身体が砕け、崩れていくにつれて、ルナの顔色が白から青、青から土色に変わっていく。

 砕け朽ちていく様子は、初めて見るニジカにもそれが天使の死であると理解させた。


「嫌だ、駄目そんなの! ぎゃあ!?」


 蛇の毒牙はニジカにも届く。

 木の樹冠に落ちたのはニジカだけではなく、小型ネフシュタルが枝を伝って肩に降り、首元に毒牙を喰い込ませた。


「うわあああああああああ!」


 牙が食い込む激痛と、身体の中に異物が流れ込んでくる悪寒に咄嗟に蛇の胴体を掴み、引きちぎる。

 足がもつれて倒れる。その拍子に木の下に置いたままにしていた荷物を蹴散らしてしまい、ランチボックスに入れていたリンゴがニジカの手の先に転がった。


「熱い……! 苦しいよ、ルナ…………助け、てぇ!」


 蛇の毒はニジカにも猛毒だった。

 噛まれた首元の傷から血が漏れ、肌の変色が始まり、砕けはしなかったがすぐに顔の半分まで浸食される。

 傷口は焼ける様な耐え難い苦痛を生み出し続け、変色した部分は風に当たるだけでも鈍い痛みを訴える。

 片目に至っては涙は血に変わり、景色の半分が赤黒くなっていた。

喉もやられ、口の中は血の味しかしなくなっていた。

痛みに耐えようと、生きようと息を吸おうとすればするほど痛みは増し、生き地獄を味あわされる。


「ルナぁ」


 救いを求める弱々しい声は、誰にも届かない。

 それでも他にニジカには助かる方法がわからず、一心不乱に頼れる天使の居る方へ身体を引きずっていく。

 顔を上げた先の光景に、一瞬だけ痛みも呼吸を忘れた。

 血で白い肌と衣服を赤く染めながら。

 失った利き手の代わりに左手で剣を握り。

 半分以上の面積を失って飛べなくなった翼を広げ。

 剣を杖代わりに片足だけで、ルナが立ち上がっていたからだ。

 四肢と翼を奪われて戦う術を失い、敵わない敵だとわかっていても、剣の天使は護る者に背を向けて蛇を睨み付けている。


「なん、で?」


 痛々しい背中だった。

 ニジカはそうして湧き上がった感情と衝動よって熱くなってくる心臓を、服の胸部を握りしめて疑問を投げかける。

 それは、自分への問いかけだった。


「なんで、僕は!?」


 助けてを求めてばかりいるのだろう、と。

 ニジカは神子だ。

 神子は、天界を7つの災禍の破滅から救うために神に作られた子どもだ。

 そう、幼い頃からルナに教えられ、育てられてきた。

 しかし、この時のニジカはまだ神子としての能力に目覚めてはいない成長段階だった。

 1人では何もできない子どもは、庇護対象として、保護者に護られるのは当然の事だった。


「違う!」


 ニジカは、否定するために叫ぶ。


「僕の、神子の使命……! ルナを僕は、僕だってぇ!」


 呻きながら嘆いていると、不意に天界に古より語り継がれている伝承の最後の一文が脳裏を過った。




 全ては、あまねく魂を救済するために。




「僕だって! ルナを護りたいのになんで!?」


 それは、ニジカが生まれて初めて経験するどうしようもない大きさの、内から発する怒りという感情だった。

 ルナは、かけがえのない天使の少女だ。

 家族の様に、家族以上の想いと絆を育み合いながら一緒に暮らしてきた。

 そんな彼女が傷ついているのに何もできない自分に腹が立ち、傷つけている敵に憎しみを抱く。

 立ち上がりたかった。

 立ち上がって、今すぐにでも傷だらけのルナを助けたかった。

 なのに、毒の痛みに身体が上手く言う事を聞いてくれず、立ち上がれない。


「ルナを助けるんだ、僕が!」


 身体が動く様になってくれさえすれば! そうニジカは必死に何か使える物はないかと探す。

 その時、眼前にリンゴが転がってきた。

 あの時のリンゴをくれたリスが、また持ってきていた。

 ニジカよりも上を見上げ、何もない宙に向かって小首を傾げていた。


「リンゴ?」


 リンゴには毒があるとルナは言っていた。

 どんな毒なのかはわからない、でももしリンゴの毒で身体が動く様になるのなら食べる覚悟があった。

 他に可能性のある方法は見当たらず、迷っている暇はない。

 縋りつく様に、祈る様に、ニジカは自ら毒に齧りついた。


















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