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第2話「蘇りゆく記憶」




『おはようございます、神子様』




 そう言って部屋の扉をノックするのが、ルナ・リージョンにとって毎朝に行う習慣の1つとなっていた。

 彼女は天使という種族の中で純白の光輪と翼を持つ白天使であり、10代の若く麗しい容姿の持ち主だが、豊かな自然以外に周囲に何もない、丘の上に建てられた教会に血の繋がらない年下の子どもとたった2人だけで住んでいた。

 朝早くに起き、教会内の掃除と中庭にある菜園の手入れ、食事の用意、全てを1人だけで済ませた後にまだ眠っているはずの子どもを起こしに行く。

 一緒に住んでいる子どもはこの世界、神が作り、天使が統治する天界で唯一の人間であり、神子と呼ばれている。

天使たちにとって他に代替の無い貴重な存在とされており、ルナはその神子の身の回りの世話を任されていた。


「・・・・・・」


 だが、神子には重大な問題があった。

 生まれてから10年目を迎えたある日から、記憶障害という大きすぎる欠陥を抱えるようになったからだ。

 ひとたび眠ると記憶が無くなる。

 毎日顔を合わせているルナの事も、自分の名前すらも全てを忘れてしまう。

 毎日毎回、何もかもを1から説明して関係をやり直す羽目になる。

 天使の医師に聞いても、神子の記憶障害は前例がなく、対処法がわからないという。

 そもそも神子の種族は人間であり、天使の医療技術が通用するかも不明な部分が多いため、下手な行為はできないとも言われた。

 何もできず、時間だけが過ぎていった。

 繰り返される何もできない日々に嫌気がさしそうなる時もあったが、世話役という役目としての義務感と5年の歳月を過ごして芽生えた感情が見捨てるのを拒んだ。

 全てを忘れてしまうのなら、それを前提に行動する習慣を身に付ければいい。

 それが最適解だと考えた。

 だからルナは、神子を眠りから起こす時には必ず名前ではなく、『神子様』と呼ぶようにしていた。


「おはようございます、神子様」


 今日も、そのつもりで声を掛けてから神子の部屋の扉をノックしようとする。

 いつもと異なる出来事が起きた。

 ノックよりも先に扉が開けられる。


「おはよう、ルナ」


 出迎えたのは、昨日までなら目覚めては名前を教える事から始まるはずだった神子、ニジカだった。

 女性のようにきめ細やかな桜色の髪。

 性別が曖昧にさせられる、中性的で可愛げのある顔立ち。

 天使と似た姿形をしながらも、頭上には光輪も、背中には翼もない。

 これが人間。

 これが神子。

 これが天界に現れる災禍を打ち払い、全ての魂の罪を洗い流して救済を齎す、神が天使に授けた救世の希望。


「もう大丈夫だよ、ちゃんと昨日の事も名前も全部覚えてるから」


「そうですか、なら」


 子どもらしく無邪気な笑顔をしたニジカに。


「おはようございます、ニジカ」


 習慣を改めなければならない、ずっとそれが続いて欲しい。ルナはそう願いながら微笑んだ。




🌈




 ルナの作る料理は、どれもニジカにとって好物だった。

好みを完全に把握されているとも言えるほどに、味付けも、匂いも、具材の大きさや硬さまでもが調整され、単体では苦手な食材が使われていても彼女の手で調理されれば気にならずに食べられた。

 きっと、ルナが来るよりも早く目が覚めたのはその記憶があり、好きな料理の匂いに気づいたおかげだとニジカは思った。


「記憶があるから好きな料理の匂いに気づいて起きた、ですか」


「うん、そうなんだけど」


 寝間着から着替え、朝食が待つダイニングに歩いて移動しながら、ニジカはそんな気づきについてルナに喋っていた。

 上手く纏まっていない拙い言葉だったが、ルナは煩わしさを一切表に出さずに耳を傾けていた。


「よく考えたらそれが普通なんだよね、忘れちゃう方がおかしいのに・・・・・・ごめんね、変な話をして」


「いえ、興味深い話でしたよ。確かに記憶を忘れる事はそうそうありません、でもそんな経験をしたニジカだからこそ感じ取れた素敵な経験だと思います。これからも、どんな些細な事でも良いのでこうして喋ってくれるとと嬉しいです」


「どうして? 退屈じゃないの?」


「そんな事ありません、ニジカとの会話は私にとっても楽しい時間です。それに、こうした日常の些細な気づきが記憶障害を解決する糸口になる可能性もありますから」


 ニジカの不安な気持ちを察してか、ルナはそっと指を当ててから手を握る。

 それから、とても悲しそうな顔を作った。


「それとも、ニジカは私とお喋りするのは嫌いですか?」


「そんな訳ない! 僕もルナと喋るの好きだし、ルナの事も大好きだよ!?」


「ええ、わかっていますよ」


「え? え?」


 悲しむルナの姿はニジカに罪悪感を生んだ。

 大切な人を傷つけてしまった焦燥と罪の意識。

 なのに必死に否定するや否や、すぐに笑顔になるルナにニジカは混乱させられる。


「からかってみただけです」


「むぅー!」


「私もニジカが好きですよ、だから貴方と話す事がどんな些細でくだらない内容だとしても興味が持てるし、笑っていられるのです」


「そうなの?」


 からかわれて頬を膨らませていたニジカは、純粋な疑問に小首を傾げる。


「そういうモノですよ、心というのは」


 朝食を食べ終え、片づけを済ませたルナはすぐにキッチンで調理の準備を始めた。

 揃えられた具材からすぐにそれがサンドイッチを作るための物だとわかると、ニジカは居てもたってもいられず隣に立った。

 それだけ、ピクニックを楽しみにしていた。


「それピクニックの時に食べるサンドイッチを作ってるんだよね! 僕も手伝ってもいい?」


「ニジカは頑張り屋さんですね、ありがとうございます。では野菜を切ってください、ナイフの使い方を教えますね」


「知ってるよ。調理用ナイフは食材を片手で押さえつけて、繊維の向きに沿って置いたナイフに体重を掛けて、切るよりも潰すってイメージでするんでしょ?」


「え?」


「え?」


 手際よく野菜をナイフで切ったニジカに、ルナは驚いていた。

 手を止めたニジカは、何を驚かれているのかがわからなかった。


「私はこれまで、貴方にナイフの使い方を教えた覚えはありませんよ?」


「そんな事ないよ、前に手伝った時に」


「いいえ、簡単な手伝いならともなくナイフを使わせたのは今日が初めてです」


「え? あれ?」


 ニジカには、朧気ながらにも記憶があった。

 いつの話なのかは、わからない。

 ただ、今と同じようにキッチンで調理している誰かの隣に立って、じっとその様子を見つめていた。

 誰かは見つめられているのが気になり、照れくさそうに笑うとナイフの使い方を教えてくれた。

 ルナと同じ天使の少女だった。

 背が高く、褐色の肌をしていた。

 髪の色は金、光輪は黒、翼の羽の色もまた黒。

 中心が赤い瞳の色も、髪と同じく綺麗な金色だった。


「きゃ! 気を付けてください! 怪我はありませんか!?」


 ニジカがナイフを落とし、ルナが急いで拾う。


「誰?」


「誰、とは?」


「この天使は誰? 僕はまだ誰かを忘れてるの?」


 動揺して頭を抱えるニジカの鮮明になった記憶に映っていたのは、ルナではない天使だった。

 顔も声もはっきりと思い出した、でも、その天使の名前も、どうして、いつ、どこで一緒に居たのかもわからなかった。

 これまでのニジカの思い出せる限りの記憶では、ルナ以外の天使と会った事はないはずだったからだ。

 その矛盾がニジカを混乱させていた。


「ニジカ、落ち着いてください。思い出した天使の特徴をゆっくりと端的に私に説明してください、それ以外は何も考える必要はありません、良いですね?」


 ルナは冷静だった。

 ニジカの状態を把握すると、目線の高さを合わせ、顔を両手で挟んで固定し、強引に視線を自分に向けさせる。

 顔の向きを固定する事で物理的に視界を、会話の選択肢を狭める事で思考を制限させる。混乱している相手を制御するのに適した迅速で適切な手段だった。


「もしかして、エブリン?」


 素直に従ったニジカから得た情報に、思い当たる天使がいた。


「誰?」


「私と同じく、貴方の世話役を任されている黒天使です」


「黒天使?」


「私のような白い光輪と翼を持つ天使が白天使なら、黒い光輪と翼を持つ天使が黒天使です。天使は白天使、黒天使、獣天使と特徴によって区別されており、それぞれから1人ずつ貴方の世話役となる天使が決められているのです」


「どうして?」


「それはニジカが神子であり、神子は全ての天使の財産とされているからです。神子を1つの天使が占有するのは【三徒条約】によって禁止されています」


「どうゆう事?」


「難しい話は追々話します。それよりも優先するべきはニジカの記憶です」


 ルナはニジカを安心させるために、髪を撫で、笑顔を作る。


「聞いてください、ニジカはまだ忘れている記憶があります。私と出会う前、貴方は黒天使の国のエブリンの元で一緒に暮らしていた期間がありました。恐らく、失っていた記憶の中に今と似た状況の場面があり、連想して思い出したのでしょう」


「そうなんだ・・・・・・。ねえルナ、僕はちゃんとエブリンとの記憶を思い出せるのかな? また会えるのかな?」


「ええ、きっと思い出せます。会う事もできるでしょう」


 ルナの言葉は、一時的な慰めなのか本意なのかわからなかった。

 どちらにしてもニジカには信じる事しかできず、信じるべきだと考えた。


「そうなんだ。ねえルナ、お願いがあるんだけど」


「なんですか?」


「今日から料理の作り方を教えて。頑張って覚えたい」


「構いませんが、急にどうして?」


「まだほとんど思い出せないけど、ナイフの使い方を教えてくれていた時のエブリンはルナみたいに優しく僕に笑いかけてた気がするんだ。きっとエブリンは僕を嫌ってはいなかったし、僕もエブリンの事が好きだったんだと思う。だから笑いかけてくれたんだろうし、一生懸命僕に料理を教えてくれてたんだと思う」


 実感は、無かった。

 エブリンに関して思い出せるのは、顔と声、ナイフの使い方を教えてくれていたほんの数秒の短い記憶のみ。

 いくらルナに一緒に暮らしていた事実があると言われても、その間の記憶がほとんどなければ現実味も懐かしさも沸かないのが正直で残酷な現実だった。

 でも、たったそれだけの記憶だけでも意味はある。

 そう、ニジカは信じたかった。


「エブリンとまた会った時に、もしその時までに全部の記憶を思い出せてなくても一緒に過ごした時間は無駄じゃない、忘れたからって意味がなくなった訳じゃないって伝えたいんだ。ちゃんと向き合うためにも」


 ニジカはルナからナイフを受け取ると、刃を綺麗に水で洗ってから野菜を切る。


「そうですね、その方がエブリンも喜ぶでしょう。彼女は感激屋さんですから、ニジカの料理を見たら嬉し過ぎて泣いてしまうかもしれません」


「そうなの? なら頑張って覚えて一杯作られるようにならないとね! ねえ、もっとエブリンの事も教えてよ」


「勿論です。ただし、手は止めてはいけませんよ? ゆっくり作っているとピクニックの時間がそれだけ短くなってしまいますからね」


「うん、わかってる!」



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