世界は7つの災禍により、魂の飢餓に窮すだろう。
1つは、暴食のアラ。
2つは、万雷のアジダカーハ。
3つは、凶星のウロボロス。
4つは、黒点のキリム。
5つは、無限のネメアー。
6つは、地獄のアンフィスバエナ。
7つは、・・・・・・。
この予言は、避ける事は叶わない。
この予言に、抗う事は厭わない。
なぜなら、魂たちの持つ罪を天使が清算できないからである。
なぜなら、全ての魂に名が刻まれているからである。
故に、我々は希望を授けよう。
掴めるのなら掴むがいい。
溺れるのなら溺れるがいい。
縋れるのなら縋るがいい。
希望は、お前たちの全てを受け止めてくれるだろう。
災禍を打ち払った後に、虹の橋を越えた楽園で我々は待っている。
その時に、全ての魂の罪は洗い流されるだろう。
帰環を成せ、我が子たちよ。
全ては、あまねく魂の救済のために。
🌈
「お目覚めですか?」
つい先日まで何もなかった地面から、植物の芽が出ているように。
前触れも予告もなく、しかしさも元からそこに存在していたかのように息を始める。
眠りから目覚めるというのは、そんな感覚に近かった。
「おはようございます、【神子】様」
「・・・・・・、おはよう?」
「はい、神子様はお昼寝をされていたのですよ。覚えていませんか?」
少女は微笑みながら答え、膝枕をしている神子と呼ばれる子どもの髪を優しく撫でる。
神子は13歳程度の外見で、碧色の瞳と桜色の髪をしていた。
少女は16歳程度の外見で、銀色の瞳と髪をしていた。
「わからない」
「そう、ですか」
神子がまだ寝起きのぼんやりとした思考で答えると、少女は知性と品性を感じさせる整った顔立ちで微笑んだまま、優しい声には落胆の色を滲ませていた。
「わかりました、他に聞きたい事ありますか?」
気を取り直して、質問を促してくる。
考えを読まれているような気味の悪さを感じたが、神子は構わずに従う。
なぜかはわからない、でも、この名も知らない少女は信用できると思えたからだ。
「ここはどこ?」
「【ラレア教会】です。私のような
少女の背中には白い羽の翼が生え、頭上には光の輪が浮かんでいた。
純白の翼と光輪こそが、白天使の特徴なのだとおぼろげながらに理解した。
「僕は誰?」
「貴方はニジカ、私たちはそう呼んでいます」
「お姉さんは誰?」
「私はルナ・リージョン。この教会で貴方と暮らしながら身の回りの世話をしている者です」
「僕はどうして寝ていたの?」
「今日は天気が良く、暖かかったので庭で遊んでいたのです。遊び疲れた貴方が寝てしまったのでこうして私が膝枕をしていました」
「そうなんだ」
神子ニジカは、思いつく限りの質問を出し尽くした後もルナに見つめられ、逃げるように視線を逸らす。
きめ細かい白い肌、長いまつ毛、形の良い薄い唇、目鼻立ちのはっきりした綺麗な顔立ちをした彼女の、好意を含んだ眼差しの笑みを向けられると無性に気恥ずかしくなったからだ。
外側に向けられた視線は周囲の景色を認識させ、ニジカは自分の居る場所をちゃんと目で見て確かめたいと頭の向きを変える。
女性みたく柔らかな毛質の、天界では希少な桜色の髪が枕代わりになっているルナの太腿を撫でる。
「あんっ!」
突然、ルナが身体を揺らして甘い声を出した。
実り豊かな胸も、一緒に柔らかそうに揺れる。
驚いたニジカが見上げると、手で口を押さえ、白い肌の顔を耳まで赤くしていた。
「どうしたの?」
「す、すいません、変な声を出してしまって! できれば頭を動かす時は言ってください。ニジカの髪はとても柔らかく、その、くすぐったいので・・・・・・」
ニジカの髪が、彼女のスカートのスリットから露わになっている敏感な柔肌を刺激してしまったみたいだ。
意図してなかったとしても、目を潤ませながらも恥ずかしさを微笑みで隠そうとするルナを見ていると罪悪感が浮かぶ。
「ごめんなさい」
「良いのですよ、ニジカになら私は」
許されたのをニジカは意外に思う。
やっぱり、ほとんど何も分からなかったからだ。
今いる場所も。
自分の名前も。
少女の名前も。
全てが、記憶にない事ばかりだった。
自分の名前すらもわからない【人間】が、どうして見ず知らずの場所で、見ず知らずの天使の少女に膝枕をされて眠っていたのか、聞いても何も思い出せなかった。
諦めずに記憶の底まで探ろうとしても、まだ意識が完全に覚醒していないせいか見えない壁にそれ以上思い出す事を阻まれている、そんな気がした。
ただ確かなのは、ニジカと呼ばれる自分という存在は人間であり神子であるという事。
他の一切がわからないというのは、暗闇の中を明かりも無しに歩かされているかのような絶望的な不安を生み続ける。
それでもニジカがルナの傍を離れようともしなかったのは、記憶がなくとも彼女に触れて伝わってきた温かさと匂いに安心感を覚え、味方だという直感があり、信じるべきと選択したからだった。
大人しくしていると、髪を撫でてくる彼女の手の感触がとても心地良かった。
今いる場所は、ラレア教会という木造建築物の壁に囲まれた広い中庭だった。
2人はその中庭のベンチで、休息をしていた。
陽気は暖かく、そよ風が気持ち良い。
雲のない青空には、地上に光を届ける星があった。
他には天上の星を中心に囲う幾何学模様を描く光の線が浮かんでおり、時間の経過と共に少しずつ回転をしている。
「あれは?」
「あれ?」
もう1つ、空に浮かぶモノを見つけた。
視界に収まりきらない青のキャンパスを横切る、7色の光が混ざり合った
「あれは・・・・・・たしか、虹?」
ニジカは光の名を閃いた。
閃いたのではなく、思い出したと言った方が正しかった。
最初は虹が虹という名前であるのも、光が見せる幻なのもわからなかったはずなのに、初めから知っているかのように知識が起こった。
「虹が視えたのですか? 虹は私たち天使には視えません、神子であり人間であるニジカだけに視える特別な光の橋なのです。言い伝えでは、虹の先には神々の住む世界に通じる扉があるのだと言われています」
神子。人間。神々の住む世界。言い伝え。
ルナが親切に答えてくれているが、ニジカには興味のない他人事みたく聞こえていた。
そんな事よりも、あの虹に無性に触れたい、届きたいと手を伸ばしていた。
虹を手で覆うように重ね、握る。
掴めたモノはない。
代わりに行動がスイッチとなり、これまで鈍っていた思考が急激に冴え、何もなかったはずの記憶から思い出や知識が次々と溢れ出し、満たされていく。
「!?」
「きゃ!? 急に起きてどうしたのですか?」
昼寝をする前までの記憶も。
自分の事だけ、今日の事だけに限らず、朝に起きて夜になって眠るまでずっとルナと一緒に過ごしていた過去数年分の記憶も、ニジカはこの瞬間に思い出した。
「僕はニジカ、そうだ、ずっとそうだったのに・・・・・・!」
「ニジカ? 大丈夫ですか?」
「ごめんなさいルナ!」
「ひゃあ!?」
ニジカは細腕の精一杯の力でルナを抱きしめる。
ルナは熱い抱擁をされるだけでなく、胸元に顔を埋められて、再び顔を赤くして可愛い声で絶叫した。
「だ、駄目ですニジカ! 私には貴方の世話役という役目が、大事な使命があるのに、まだそんな蜜月の関係になんて!」
「ごめんなさい! 僕今さっきまでどうかしてた、ずっと一緒に居たはずなのにさっきまでルナも、今まで一緒に暮らしたのも全部忘れてたんだ! 本当にごめんなさい!」
記憶を思い出して必死に謝るニジカにとって、ルナはそれほど身近にいた少女だった。
覚えている限りの記憶の中で、ルナはニジカが生まれてからずっと傍にいてくれた唯一の天使であり、他に身寄りも居場所もなかったからだ。
「・・・・・・もしかして、私の事を思い出したのですか?」
「そうだよ! なんで忘れてたんだろう、理由が自分でもわからないんだけど本当にごめんなさい! ルナ許して! 僕を見捨てないで!」
「大丈夫ですよ、ニジカ」
涙目になって謝るニジカを、ルナは恥ずかしさを忘れて髪を撫でながら宥める。
「貴方が記憶を無くす事はこれまでに何回もありました。今更それに対して騒ぎ立てたりなんてしません、ましてや怒るなんて、見捨てるなんて絶対にありえません。例えまた忘れても、何度でも私は変わらない関係を築くために努力をします。それが、神子の世話役となった私の使命なのですから」
「・・・・・・うん、ありがとう」
「私の事だけでも思い出してくれた、それだけでもとても嬉しいですよ」
もしかすると、まだ他にも大切な誰かや何かを忘れているのかもしれない。
もしかすると、また明日にも、次の瞬間にもまたルナを、彼女と過ごしてきた記憶を忘れてしまうのかもしれない。
「ニジカ」
いつ忘れるかわからない不安と恐怖に、もっと深い悲しみと熱い涙を流すニジカに、ルナは微笑み掛ける。
「時間を掛けても構いません、でも必ず泣き止んでいつもの元気な貴方に戻ってください。泣いてばかりいても何も報われません、貴方は強くならなければなりません。貴方はいずれ、この天界に現れる災いを払い除けるために生まれた神子であり、神々の住む世界の扉に辿り着く権利を持った唯一の人間。私たち天使は、貴方が生まれ持った使命を果たすその時まで命を賭けても尽くすために存在しています。だから今だけは、どうか安心して私の胸で泣いてください」
そうして、ニジカは彼女の胸の中で素直に受け入れる。
「全ては、あまねく魂の救済のために」
理屈なんてなかった。
生まれたばかりの命が生きるために呼吸を始め、手足や翼の使い方を自然に覚えていくように、ルナに言われた全てがニジカにとっては必然として聞こえたからだ。
「落ち着きましたか?」
「たぶん」
涙が止まり、頃合いを見計らったルナが聞くとニジカは目と鼻を赤くしながらも頷いていた。
泣き止みはしたが表情はまだ落ち込んでいて、記憶を無くしていたショックは大きかった。
ルナは、不謹慎ながらも微笑ましくなる。
良くも悪くも、彼女の知る正直で感情が豊かないつもどおりのニジカだったからだ。
「気が沈んでいる時は明日の楽しみを探しましょう」
「明日の?」
「明日ももし、天気が良ければピクニックに行きましょう。教会から少し離れた大きな木のある場所まで。貴方の好きなサンドイッチを持って」
「ピクニック・・・・・・サンドイッチ・・・・・・・・・・・・」
ルナの言った単語に反応して、ニジカは真顔になった。
意味を思い出しているのか、しばらくの間を置いて。
「行きたい! 食べたい!」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたく、明日の楽しみに興奮して目を輝かせていた。
元気が戻ったニジカを見て、ルナも嬉しくなる。
「今からはダメなの?」
「行ってもすぐに日が暮れてしまいます。どうせなら、いっぱい遊べた方が嬉しくないですか?」
「そうだけど、でも、うー! 早く外に行ってみたい!」
可愛い声で唸って、そわそわと落ち着かなくなる。
それだけニジカにとって、教会の敷地内から出るのは稀な出来事であり、知らない外の世界に触れられる、子どもらしい好奇心が刺激される大きな楽しみでもあった。
「サンドイッチもいっぱい作る必要がありますから、菜園に具となる野菜を取りに行きましょう。手伝ってもらえますか?」
「うん! ルナの作るサンドイッチ大好きだから!」
「ありがとうございます。行きましょうか、ニジカ」
ベンチから立ち上がり、歩き出す。
ルナが差し出した手を、ニジカはしっかりと握り締めていた。