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最終章 大人と子ども(3)

開いた目に最初に映ったのは寿だった。見慣れた浅黒い顔がなごみを見下ろしていた。


何度も母性本能をくすぐられた子犬みたいな目が赤くなって涙を溜めている。あの少女の、七歳の自分の言う通りなのだと思った。寿はちゃんと、ずっと、待ってくれていたんだ。わたしが、この世界に大人として戻ってくるのを。



「なぁご」



 寿の腕に抱き締められる。彼が流した熱いものがなごみの頬を濡らす。あれ、寿ってこんなに小さかったっけ。寿の身体が急に萎んだように見える。いや、寿だけじゃなくて、世界全体が。


木々は背丈を縮めて、その間を横切っていくカラスの身体はちっぽけで、朝日を振りまく空は低くなっていた。



 違った。寿が、世界が、縮んだんじゃない。自分が大きくなったのだ。


息も止まりそうなほどきつく抱き締められながら、彼の背中ごしにそっと腕を上げ、手を握ったり開いたりを繰り返してみた。すっと白く伸びた指はまぎれもなく大人のものだった。なごみはもう、七歳の少女ではなかった。



「本当に、本当によかった……マジでなぁご、死んじゃうかと思った。もう助からないんじゃないかって、そしたらどうしようって、俺」


「寿、苦しいよ」


「知らないだろ、なぁご、危篤だったんだぞ!? 医者も原因がわからなくて治せなくて、そしたらあのなぁごを小さくしたっていう変なじいさんが出てきて、魔法使って戻してくれて……」


「変なじいさんなんて、いないよ」



 寿の肩越しに辺りを見回してみたが、「変なじいさん」らしき人の姿は見えなかった。ただ黒々とした湿った地面に、魔法陣らしきものが描き残されているだけだった。


そして自分はその中央で、大人の姿になって、寿に抱き締められている。危篤、魔法、変なじいさん。夢から覚めたばかりのなごみの記憶はあやふやでわからないことだらけだったが、そんな疑問は取るに足らないことだった。


 とにかく自分は大人の姿に戻って、ここにこうして寿といる。大切なのは、それだけ。



 ずっとなごみを抱き締めていた寿が、ようやくその身体を離した。なごみの両肩に置いた手が汗ばんでいる。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。三十前の男に相応しい表情じゃない。それなのに、なぜかかっこいいとすら思えてしまう。



「あのさ、なぁご」


「何?」


「なぁごが元に戻れたら、真っ先に言わないといけないって思ってたことがあったんだ。今からそれ、言ってもいい?」



 なごみが頷く。寿がその目を覗き込む。同じ目線で向かい合える。ただそれだけのごく当たり前のことが、たまらなく幸せだった。



「なぁご、結婚しよう。俺とずっと、一緒にいて下さい」



 走馬灯のよう、と言ったら縁起が悪いけれど、確かにその時、なごみの脳裏を寿と過ごしてきたこの八年間が駆け巡った。


東京に出てきたばかりの頃、バイト先で初めて出会った日。初めてのデート。初めてのセックス。初めてのケンカ。寿が夢を諦めた日。自分が寿に幻滅した日。少しずつ二人の歩みがずれていく日々。そしてこの、嵐のような二ヶ月。



 それらを全て超えて、今自分と寿はここにたどり着いたのだ。



 言葉はいらなかった。なごみは返事の代わりに、そっと寿の唇に自分の唇を重ねた。 



 長く甘いキスをする二人を、夏の朝日が黄金色に照らしていた。



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