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最終章 大人と子ども(1)

興奮と焦燥と絶望感で、寿はとても運転ができる状態ではなかった。今澤はそれを無理のないことと思い、白いメルセデスはとりあえず埠頭に残したままにして、黒いメルセデスの助手席に寿を乗せ、自分がハンドルを握った。


運転は極めて荒っぽかった。一般道を時速100キロ近くで突っ走り、信号無視を何回犯したかわからない。警察に捕まらなかったのは、奇跡だ。



 二人が病院にたどり着いた時、なごみの病室には慌しく医者とナースが出入りし、ひっきりなしにガチャガチャと機械らしきものが触れ合う音が空気を叩いていた。ドラマの中でしかお目にかかったことのない光景の中に、自分はいる。寿はしばらく呆然としてなごみの病室の前に、リノリウム張りの冷たい廊下に立ち尽くした。今澤が垂れ下がった腕を乱暴に引いた。



「行きましょう」



 今澤に引っ張られるようにして病室に入ると、今度は寿はすかさずベッドの上のなごみに取りすがろうとして、今澤と医者たちに止められた。なごみは最後に見た時よりもずっと痛々しく見えた。


たった二時間ほどの間に細い腕はより細く、白い顔はより白くなっていた。身体のあちこちに刺さった機械のチューブはその数を増し、幾人もの医者とナースに囲まれたなごみは、解剖されるか弱い実験用動物のようにも見えた。



「なぁご! どうしたんだよなぁご!! 何でこうなっちゃうんだよおぉ!!」



 その動きは今澤たちによって制されたが、寿の悲痛な叫びは誰にも止めることはできなかった。いつのまにか視界が歪んでいた。自分が泣いているのに気付き、それでいて男が人前で涙を見せた時の羞恥心がちっとも湧いてこなかった。


 寿を冷静にさせたのは、のんびりと発音するしわくちゃの声だった。



「大したもんじゃ。確かに邪悪な念は消えておる。見直したぞ、お主」

「あなた!!」



 名前がわからないので、あなた、と呼びかけるしかなかった。今澤たちを振り払い、寿は白い病室の角に立つ占い師の元に駆け寄る。全身黒づくめの悪魔ような容貌のこの人物が、今の寿にとって唯一の神様だった。



「いったい何が起こってるんですか!? これはどういうことなんですか! ?なぁご、今危篤なんですよ!? なぁごはちゃんと助かるんでしょうね!?」


「まぁまぁ、そう一気に疑問を並べ立てるでない。周りの者も変な目で見ておるぞ」



 はっとして振り返ると、訝しげに寿を見ている若いナースと視線がぶつかり、彼女は慌てて目を逸らした。他の医者やナースたちもほぼ同様の反応だった。


どうやら彼らには占い師の姿は見えておらず、寿が何もない空間に向かって一人でしゃべってるようにしか見えないらしい。訝しげだったナースは今は悲痛な表情で手を動かしていた。


娘の危機に瀕し、頭がおかしくなって幻覚症状まで出るようになったんだ、この人は、とでも思っているのだろう。今澤だけがなぜか占い師が見えるらしく、彼に焦点を合わせてぽかんとしていた。


占い師がちらっと今澤に微笑んでみせると――それももちろん自然な笑みではなく、例の不気味な笑い方で――およそ恐れを知らなさそうな今澤の顔にふっと恐怖の色が差した。



「ちゃんと説明したろう。長い間術にかかっていたせいで、お嬢さんはだいぶエネルギーを消耗している。急いで術を解かんと、その身体は崩壊する」


「だったら早く術を解いてください! 今すぐに!! もう今澤さんの邪念ってやつが消えたんだから、できるんですよね!?」


「あぁ、できる」


「あの堀切さん、この人はいったい誰なんですか? そしてあなたたちは何の話をしているんですか?」



 今澤は突然の怪しい黒づくめの男の出現に動揺はしていたが、冷静さは失っていなかった。今澤に一から説明するのも億劫で、寿と占い師はとりあえず今澤をほうっておく。



「この部屋の中では術は使えん。もっと広くて、かつ人のない場所にお嬢さんを移動させなくちゃならん」

「病院の裏庭で大丈夫ですか?」


「直径五メートル四方の魔法陣を描く。その程度の広さはあるかのう?」

「たぶん大丈夫だと思います」


「よし、それでは早速お嬢さんの身体を移そう」

「はいっ」


「ちょ、ちょっと、あなたたち何をしようとしてるんですか!? 移動って……なごみさんをですか!?」



 キンキン喚く今澤を寿と占い師はいかにもうるさそうに見つめたが、今澤は二人の迷惑顔には構わず、唾を飛ばしてまくし立てる。



「言っときますけどね堀切さん、私はそこにいるのがなごみさんだってことは認めたし、勝負に負けた以上彼女を諦める決意もした。でも魔法なんだのってそこのところは認めてません!! あなたは確実に精神の病に冒されているし、専門的な治療が必要な状態にある。頼みますから、こんな時にわけのわからないことだけはしないで下さい!!」


「うるさい奴じゃな」



 占い師が黒いローブに包まれた手を持ち上げ、開いた。複雑に絡み合った手相だな、と寿は思った。今澤がぎょっとした顔をする。それだけだった。


 時間が止まっている、ということに寿が気付くまでに、数秒がかかった。今澤も、医者も、ナースも、部屋の中のあらゆる人間が動きを止めていた。注射器の載った盆を抱えて走ってくるナースなんて、口をあんぐり開けて走る姿勢のまま、ぴたりと止まっている。今澤も当然、大きな目をぎょっと見開いたちょっと面白い顔のまま、固まっていた。



「じ、時間が止まった……すごい、あなたがやったんですね!?」

「時間が止まったのではない、この場にいる人間の動きを封じただけじゃ。よく見なさい、機械も動いているし、窓の外でカラスも鳴いておる」


「ほ、本当だ……でも、それにしたってすごいです、本当にすごい人だったんですね、あなた!!」

「お主もうるさいのぅ。いいか、術に驚いている場合ではない。この術の効力は五分だけじゃ。その間に早くお嬢さんを移動させなくてはならん」


「五分! わかりました!!」



 それからの寿の行動は素早かった。なごみの身体に刺さっていた機械から伸びるチューブ類をいささか乱暴に引き抜き、その身体を抱きかかえる。軽かった。


大人の頃と比べて軽いのは当たり前だが、ほんのつい数時間前、アパートの下でなごみを抱いて救急車を待っていた時よりも、小さい身体は重みを失っていた。


急いで術を解かんと、その身体は崩壊する……占い師の言葉が間違いでないのだと思い、改めてなごみを失う恐怖が胸の底から突き上げてきた。なごみを背負って占い師と共に廊下を駆け抜けながら、背中にかかる重量感がありがたかった。



早朝の病院の裏庭には誰もいなかった。夜勤明けの医者が煙草を咥えていたり、ジョギング中の一般市民にお目にかかってもおかしくないと覚悟していたのだが、そこは寿たちのためにあつらえたように、人っ子一人なく静まり返っていた。


ただ頭上に朝日がオレンジ色を撒き散らし、スズメやカラスの声がどこからともなく聞こえてくるだけだ。


占い師は寿に何も指示を与えず、勝手に作業を始めた。たまたまそこに転がっていた木の枝を取り、地面に魔法陣を描き始める。寿に言った通り、直径五メートルほどのかなり大きなものだった。


コンパスを使っているわけでもないのにその弧は正確な円形を描き、円の中に複雑に線が引かれていく。少し前によくテレビでやっていた、ミステリーサークルというやつを思い出した。これは宇宙人ではなく、人智を超えた能力を持つ男によって描かれるミステリーサークルなのだ。


魔法陣が完成して、占い師はもう用はないと言わんばかりに乱暴に枝を放り投げた。



「この中央に、お嬢さんの身体を横たえるんじゃ。土で汚れてしまっても構わん」



 寿は言われた通り、魔法陣の中央にそっとなごみの身体を横たえた。地面に下ろす時ついバランスを崩し、脚の部分が音を立てて土に打ち付けられたが、なごみはその衝撃にも目を開けない。よほど昏睡が深いのだろう。寿の胸がきりきりと裂かれるように痛む。



「これから術を始める。お主は魔法陣の外に下がっておれ」

「はい」



 またもや言われた通りにした。寿が十分に魔法陣から離れると、占い師の黒いローブに包まれた胸が大きく上下した。深呼吸をしているのだと思った。次に彼は胸の前で奇妙な形に手を組み、何やらブツブツと呪文らしきものを唱え出した。



 不思議なことが起こったのは、その後だった。地面に引かれた線が青白く光り出す。最初は蛍のようだった儚い光が徐々に勢いを増し、燃え盛るコバルトブルーの炎が地面から噴き上げる。朝日はいつしか雲に隠れ、辺りは時間を巻き戻したように暗くなっていく。


寿は自分の目の前で起こっているありえない現象を、一分たりとも見逃すまいと見つめていた。もう占い師を疑う気持ちも、魔法やら術やらの存在を疑う気持ちもなかった。魔法でも術でも占いでも、何でもいい。なごみさえ助かれば。


 占い師の口から漏れていた呪文がぷつっと止み、寿に怒鳴り声が殴りかかってきた。



「想像以上にお嬢さんの体力の消耗が激しい!! このままでは術をかけても、身体が術の威力に負けてしまう!!」

「そ、それって……どうすればいいんですか!?」


「お主の念を送るのじゃ、お主の念をお嬢さんに注入してやれ!! そこで一心に、集中して、お嬢さんを思うんじゃ。お主のお嬢さんを救いたいというありったけの思いを念じるんじゃ!!」

「わかりました!」



 胸の前で手を合わせた。占い師がやっているような奇妙な手の組み方ではなく、普通に手のひらと手のひらをくっつけただけだったけれど。自分の集中力に自信はなかったが、言われた通り、一心になごみを思った。なごみに助かってほしい。なごみに生きてほしい。生きて、元の姿に戻って、一緒に自分と人生を歩いてほしい。


 文字通り、愛によって恋人を救う戦いが始まった。


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