暁の国道を二台のメルセデスが連なって走っていた。前の黒いメルセデスが今澤で、後ろの白いメルセデスが寿。もちろん寿のものではなく、今澤の所有物だ。
車を持っているかと聞かれ、持っていないと答えると、今澤は自宅マンションまで寿を乗せて行き、ガレージに停まっていたメルセデスを運転するように言った。というか、命じた。
わけのわからないまま、寿は生まれて初めてメルセデスのハンドルを握った。運転自体が三年ぶりくらいなので、ひどく緊張する。それにしてもこの男! 五十を前にしてメルセデスを二台も持っているとは。
住んでいたマンションだって、芸能人や一部上場企業の社長ばかりが借りるような超一級品だった。そして超一級品の生活をしている人間の考えることはわからない。目的地も知らされないまま、寿はひたすら前の車を、今澤を、追いかけていた。
小一時間ほど走って、黒いメルセデスが停まった。その五メートルほど後ろで寿の白いメルセデスも停まった。外に出ると海を渡ってきた風が右の頬に吹きつけてくる。
香ばしい磯の香りが密閉された車内で凝り固まっていた神経を解してくれる。反射的に大きく息を吸い込んだ。朝日を反射して淡いパープルに輝く波がゆらゆらしていた。
そこは埠頭だった。埠頭といっても人や犬が散歩できるように美しく整備されているわけではなく、停まる船の影もなく、ただ背後にプレハブ作りの倉庫がずらりと並んだ、忘れ去られた海辺だった。
だからこそ、こんな海のすぐ側まで車で乗り入れることができたのだろう。夏の早朝のことでサーファーも釣竿を垂れる人の姿もヨットもなく、辺りは奇妙なほど静まり返っていた。
埠頭はまっすぐ海岸線を縁取り、右側は今澤と寿の立っているところから300メートルほど続いて、ぶっちりと途切れていた。左側はそれこそどこまでコンクリートが敷かれているのかわからない。寿の目では、端は見えなかった。
「できれば私の車の後ろじゃなくて、横に停めてほしかった」
唐突に今澤の声が降ってきた。すっかり暁の海に見とれていた寿はこの瞬間、今澤の存在も、ここに来た目的も忘れていた。たしか勝負と言ったっけ。ここでどんな勝負をやるというのだろう。
見たところ寿も今澤も中肉中背、背丈もほぼ変わらないが、Tシャツからはみ出した腕の太さ、それも脂肪に包まれたものではなく筋肉に固められた健康的な太さ、それを見る限り腕力では勝てそうにないと思った。
「今すぐ停め直して下さい。私の車の横に、そうですね、二、三メートルほど間隔を空けて」
「あの今澤さん、これは一体何を」
「私はこう見えても若い頃はちょっとしたワルだったんです」
寿の質問には答えず、勝手にしゃべり出した。寿はとりあえず勝手にしゃべらせておくことにした。
「まだ運転免許も持っていなかった高校生の頃、よくここで度胸試しをやりました。大体このへんからスタートして、二台の車が同時に走ります。あの埠頭の切れ目まで全力疾走して、ギリギリでブレーキを踏む。そして前に出ていたほうが勝ちです」
「今澤さん、まさか……」
「今から思うと、よくもまぁそんな危険なことをやってたもんだと思いますよ。一年半くらいの間で、二十回ほどやったでしょうか。私は負けたことなかったですね。その頃から上手かったんです、運転は。そのうち高校も卒業して、いつまでもバカなことばかりやってられなくて、その頃の仲間ともつるまなくなって、自然とそういうこともやらなくなったんですけどね」
ワルだった、というのは今澤の作り話ではないのだろう。彼の二重の目が不良少年特有の暗い輝きを帯びてきた。二十年以上の時を経ても、生死を賭けた戦いの生々しい記憶と快感は、彼の奥にしっかりと刻み付けられているに違いない。寿は大きく息を吸い込んだ。ダメでもともと。一応、説得を試みる。
「今から俺らでその度胸試しをやって、前に出たほうが勝ちってわけですか」
「そうです。私が負けたら、潔く身を引きます。その代わり勝ったら、すぐに病院に戻ってなごみさんをこちらに渡してもらいます。どんなことがあっても、私は彼女の病気を治してみせる」
「今澤さん、魔法だとか占い師だとか、そういうことはあなたにとってはバカらしくて、今からやるようなことはバカらしいとは思わないんですか」
今澤の唇が再びにやり、の形を作った。何度見ても、不気味な笑い方だった。
「バカらしいですよ。しかしそれは、私を止める理由にはならない」
「でも、これは圧倒的に僕にとって不利です。あなたはこの勝負で二十回以上勝っている、対して俺は初めてだし、そもそも運転だって今日が三年ぶりぐらいです」
「私にだってこの勝負には、二十年以上のブランクがあります。それに若さではあなたに勝てない」
若さ、そう来たか。自分だってもうそれほど若いというわけでもないのに。
寿の唇が今澤と同じ笑みを作る。
「わかりました、やりましょう」
もしこの場になごみがいたら、何やってんのとすかさず頬を張られたことだろう。なごみなら何をしてでも、どんな言葉を使ってでも、寿たちを止めたに違いない。
わたしのために何バカなことやってんの!!……しかしたとえそうだとしても、もしここになごみがいても、寿はなごみをどうにかこうにか説得して、白のメルセデスに乗り込んだに違いない。男には避けられない戦いがある。そんな、どこかの不良漫画から拝借したような台詞のひとつでも吐いて。
二台のメルセデスが同時にスタートした。最初の100メートルほど、二人は並行して走っていた。しかし八番目に左手に見えたプレハブ倉庫の脇を通り過ぎた頃から、寿は強くアクセルを踏み込んだ。
白いメルセデスはぐいぐい黒のメルセデスを突き放していく。スピードが上がる。100、120、140。途中からメーターを見なくなった。寿はメルセデスと一体化した。今や白い車体そのものが寿になって、海へ向かってまっすぐ切り込んでいた。
ふとバックミラーを見やれば、黒い車体が急に速度を上げて自分を追いかけている。寿の的外れな勇気が今澤の負けず嫌いに火を点けたのだろう。メルセデスたちはあっという間に並んだ。黒と白、相反する色を持つ二台の高級車が埠頭の端へ、パープルから黄金色へと変りつつある海へ、突き刺さろうとしている。
二人ほぼ同時にブレーキを踏んだ。激しい音が暁の空気を切り裂き、潮騒をかき消した。老朽化したコンクリートが削られ、計八個のタイヤが火花を吹いた。
たまたまそこに転がっていたガムの包み紙が火花を浴びて一瞬赤く燃えたが、すぐにメルセデスたちの放つ風に舞い上げられ、海に消えた。寿は思った。ヤベェ、本当に死ぬかもしれない。
ブレーキの炸裂が止んだ。潮騒が戻ってきた。のん気なカモメの声が二人の頭上に降り注いでいた。寿は死んでいなかった。今澤も死んでいなかった。ただし白いメルセデスのその車体の前半分が埠頭からはみ出ていた。黒いメルセデスはコンクリートの切れ目のぎりぎり前で停まっていたが、はみ出してはいない。
寿の勝ちだった。
ドアを開ける音がする。まだ運転席で呆けている寿に向かって、今澤が窓を叩いて注意を惹く。今澤は薄く笑っていた。とても自然な微笑だった。
「バック、できますか?」
「はい……もちろん」
白いメルセデスを後方に走らせながら、わずかに股間が湿っているのに気付いた。幸いシートにまでは達していない。ため息にもならない空気が、舌の上ではじけた。やれやれ。命を賭けた勝負なんて、やるもんじゃない。当たり前だが。
「私の負けです」
負けたというのに、今澤はやたらと爽やかな顔をしていて、恐怖に憔悴しきっている寿のほうが敗者に見えた。そんな寿でもわかった。この男の言葉に嘘はない。あの老人が言っていた「邪念」は、彼の中からすっかり消えている。
「堀切さん、あなたの言う通りです。人が幸せになるために、愛以上に必要なもの等ない。少なくとも私はまだ、それを知らない」
「……」
「私は一度結婚に失敗している人間です。妻も子どもも、多くの者を自分の勝手によって傷つけてしまった。だからもう二度と失敗したくないと思ったし、次に選ぶべきは本当の本当に、自分の理想に叶う女性でなくてはいけなかった。だからやたらと出会いを求めたりもせず、相手は慎重に慎重に選びました。それで見つけた相手が、なごみさんです」
「……」
「私の厳しいお眼鏡に叶ったくらいですから、なごみさんならきっと、あなたと幸せな家庭を築くでしょう」
そこで初めてジーンズのポケットから煙草を取り出し、咥えた。勝負の後の、負けてひび割れた心を慰めるための、ささやかな一服らしい。勝負の前よりもずっと晴れやかに見える敵に、寿は笑いかけた。
「あの、今澤さん」
「何ですか?」
「ひとつ、生意気言わせて下さい」
「いいでしょう」
「大事なのは理想の相手を探し出すことじゃなくて、今澤さん自身が変わることだったと思うんです。でも今澤さんは変わった。だからきっと、もう、大丈夫です」
ふふ、と今澤が煙草を咥えたまま笑った。合わせて寿も笑った。くすくす笑いがクレッシェンドをかけて、やがて二人の男は腹を抱え、狂ったように笑い出した。涙が出て、鼻水も出て、わけがわからなかった。あぁ、自分は生きている。生きてるから、笑える。生きているというのは、何と素晴らしいことだろう。
男二人の大爆笑を遮ったのは、スマホの着信音だった。一瞬見知らぬ番号に顔を顰め、そしてまさかの思いで発話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし、堀切さんですか? こちら敬愛病院ですが、今どこにいらっしゃいます?』
「えっと、ちょっと、外に……」
寿と今澤の視線が空中でかち合った。考えていることは二人とも同じだった。スマホを握っている指先の熱が急速に失われ、心臓が悪い予感に駆られて暴走を始める。
電波の向こうの若い女性は、切羽詰った声で無情に告げた。
『今すぐ戻ってきて下さい、娘さんが危篤の状態です……』
指先の熱が完全に消失した。プラスチックの塊がやけに安っぽい音を立てて、コンクリートに転がった。