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第十四章 海と本当の愛(3)

言うだけ言って、占い師は煙のようにふわりと消え……は、しなかった。


寿が心を落ち着かせるために喫煙所に行き、普段あまり吸わない煙草を一本、ゆっくり時間をかけて味わうのを、老人はそばのベンチに座って見守っていた。


ようやくひと通り頭と心の整理が出来た寿がベンチの隣に腰掛けたのと同時に、反対に老人は立ち上がった。


「とにかく急ぐのじゃ。一刻も早く、今澤を殺して彼の念を消すのじゃ。そうすればわしはお嬢さんにかかった術を解いてやれる。またここで会おう」……


そう言い残し、普通に歩いて立ち去った。足の動きすらほとんど見えない奇妙な黒い服が夜の闇と同化していくのを、寿はぼんやりと観察していた。夜といっても、既に午前三時半を回っていた。あと三十分もすれば、東の空が少しずつ青を取り戻し始めるだろう。



 占い師が去って約十分間、寿は喫煙所のベンチに座ったままだった。考えを巡らし、まとめ上げる時間が必要だった。その作業を終えるとスマホを取り出して今澤にかけた。非常識な時間であることはわかっていた。しかし世間の常識に捕らわれている場合ではない。


案の定、今澤はなかなか出なかった。十五回目のコールが鳴り、あと五回鳴ったら一旦切ってまたかけ直しだな、と思いついた時、十六回のコールがその半ばでぷつんと切れた。とても嫌な途切れ方だった。



「津幡なごみの身に大変なことが起こっているんです。すぐに今から指定する病院に来てください」



 堀切なみではなく、津幡なごみの名前を出した。正体がバレているのなら、もう誤魔化す意味もなかった。今澤は深夜の電話に対し、最初は寝起きの不明瞭な声で不機嫌に発音していたが、なごみの名前を聞いた途端に態度が変わった。わかりました、すぐに行きます。そう言い残して、通話は途切れた。一分もしゃべっていなかった。


 二人はなごみの病室で再会した。壁の時計は午前四時二十分を差していた。乱暴な仕草でドアを開けて文字通り部屋に飛び込んできた今澤は息が荒く、額には大粒の汗が張り付いていた。


身支度を整える暇もなかったと見え、ヨレヨレのTシャツ一枚にジーパンといういで立ち、足元はサンダルで髪の毛は寝癖がついたままだ。なるほど、なごみへの思いの強さは確からしい。寿は自分でも驚くほど冷静にこの恋敵を観察していた。



「これは一体どういうことなんですか」



 低い声だった。今澤の視線がベッドの上のなごみから、パイプ椅子に腰掛ける寿にすう、と移動した。怒りとか軽蔑とか嫉妬とか、黒々とした感情が激しくその目の中に渦巻いて、寿を責め立てていた。



「あなたのせいですね!? あなたが彼女をこんな目に遭わせているんですね!?」

「……」


「どうしてずっと側にいるのに、一緒に暮らしているのに、なんで気付いてやらなかったんですか!! なごみさんの身体の具合が悪いことに……!!」


「今、なごみって言いましたね。なみじゃなくて、なごみって」



 今澤の動きが止まった。本当にその一瞬、呼吸も脈拍も内臓の動きも脳細胞を駆け巡る伝達物質も、彼を作る何もかもが静止したようだった。その目から寿を責める光が消えた。代わって寿が今澤を睨みつけ、ゆっくりと立ち上がる。この男。今俺の彼女をファーストネームで呼びやがった。なごみさん、だなんて。たかが職場の上司のくせに、馴れ馴れしい。



「やはり知ってたんですね、彼女の正体に」

「堀切さん、私は……」


「別にあなたを咎めているわけではありません。ただ、俺の話を聞いてください。これからする話は大変に突飛で、非現実的で、あなたのような方には信じてもらえないと思います。でもどうか最後まで聞いてください、お願いします」



 やけに丁寧な哀願口調に今澤が二重の目を見開いた。そして寿は話し出した。できるだけゆっくりと、落ち着いて、ひとつひとつきちんと噛み砕いて。



 長い話が終わった頃には、時計の針は数字二つ分進んでいた。南に面した窓の端が、白い光に包まれ始めていた。夏の夜明けは早い。空調が整えられた部屋の中は涼しいが、一歩外に出るとムンとした熱帯夜明けの空気が肌を潤すだろう。寿が口を閉じる。そして今澤が息を吐く。長く吐く。


煙草を取ろうとしたのかジーパンのポケットに手を伸ばし、ここが病室であることを思い出して、やめる。



「大体の話はわかりました、堀切さん」

「信じてくれますか?」

「信じますよ、あなたの話なら」

「今澤さん……!」

「て、私が言うとでもお思いですか」



 え、と寿の唇が間抜けな形を作った。今澤がもう一度大きく大きく息を吐いた。その目は軽蔑を通り越して、心底呆れて寿を見ていた。



「信じられるわけないでしょう、占い師だの魔法だの、パンドラの箱だのって」

「いや、あの、今澤さん、これは……」


「妄想じゃない、現実の話だと言いたいんですね。心理学的にはこういうことはあまり否定しないほうがいいらしいですが、そんなことを言っている場合でもないので、はっきり否定させていただきます。堀切さん、今のは全部あなたの妄想です、荒唐無稽な作り話です、それも小学生レベルの」



 計画が失敗したショックに寿はガツン、と思い切り後頭部を殴られた。端的に言えば寿は今澤を殺して念を消すのではなく、万が一の可能性に賭けて、彼の魂を洗い清め、なごみを自分から奪ってやるという邪心を消すことを選んだ。


それは占い師が言うほどに難しいこととは思えなかった。要は今澤になごみを諦めさせればいいのだ。一人の男として今澤と戦って、自分が勝てばいいのだ。……いや、それも相当難しいことなのかもしれない。



 たとえなごみのためでも、愛する人のためでも、寿には人殺しを犯すことはできなかった。もしあの父親なら、なごみという存在をこの世に送り出した実の親なら、ためらいなくその手を汚せるのかもしれない。


親というものは子どもに対して、そのぐらい盲目的な愛情を抱いているはずだから。しかし寿にはできない。どうしても冷静に考えてしまうのだ、今澤にも彼を愛する者が、その死を心から悲しむ者がいることを。


会社経営者である今澤が消えた時、その下で働いている者――なごみやその親友の椿も含む――がどれだけ悲しんでその上で多大な迷惑を被るかということを。


そして自分がそこまですることを果たしてなごみ自身が望んでいるのかということを。


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