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第十四章 海と本当の愛(1)

なぁご! なぁご!! なぁご!!!



 深夜の病院の廊下に寿の絶叫がこだまする。ストレッチャーに乗せられ、酸素マスクで顔を覆われて運ばれていくなごみに取りすがり、寿は叫んでいた。なごみと一緒にそのまま集中治療室に入ろうとして、医者に止められた。当然のように抵抗して、当然制された。


集中治療室専属の精神科医という人がやってきて、寿をゆっくりした言葉で慰めた。患者やその家族が混乱に陥りやすい集中治療の現場で彼らの心のケアをするスペシャリストの対応に、寿もやっと落ち着いて、「処置中」のランプが見える廊下のベンチに座った。


精神科医はまだ寿と一緒にいたがったが、一人になりたいと言うと彼はおとなしく引き下がった。そして深い静寂がやってきた。時折医者やナースの足音が聞こえる他は、心臓の鼓動のような規則正しい機械音が空間を満たしているだけの、静かな場所だった。



 何もかも、実際のことと思えなかった。気絶したなごみを抱き留めたのも、震える手でスマホを操って119にかけたのも、救急車の中で意識を失った恋人の名前を連呼したのも、みんな夢の中のことみたいだ。


ある時点から、おそらくアパートのドアを開けて床に倒れているなごみをバスタオルで拭いてやって、その唇にキスした時から、現実感がぷっつり失われている。寿は悪夢の中にいた。出口のない、永遠に覚めることのない、真っ黒な悪夢の中に。



 今、彼はさよりとのことを心から後悔していた。別に彼女と何があったというのではない。ただ同じ傘の中で帰り、最寄り駅が一緒なので家の近くまで送ってもらって、そして彼女からあの話を聞いて、抱きついてきた彼女を受け止めただけだ。


たっぷり五分はあのままでいた後、さよりはそっと寿の胸から離れた。涙で化粧の崩れた顔を恥じらいながら、ためらいがちに聞く。だいぶ濡れちゃった。寿くんの家で、シャワーを借りてもいいかしら。



 そこで寿は踏みとどまった。もしなごみの存在がなければ十中八九、さよりの提案を受け入れていただろう。でもなごみという一人の少女は、いや女は、寿の心の中心にしっかりと根を下ろし、そこから決して離れることはなかった。八年間の歳月を経て、恋は惰性に落ちるでもなく消滅するでもなく、愛へと昇華していた。それはこの世で最も稀で、貴重なことだった。



「今日、部屋に彼女来てるんで」



 寿はやんわりとさよりを拒んだ。さよりはアイラインが滲んだ目元で小さく苦笑いしただけだった。そっか寿くん、彼女のこと、本当に大好きなのね……


その言葉に嫌味はこもっていない。寿ははい、と堂々と答えることができた。できればそのまま続けたかった。俺は彼女が好きなんです。愛しているんです。世界中のどの女性よりも、どの人間よりも、ずっと、深く、強く。その気持ちが一生消えない自信だってあるんです、と。



 そうやって寿はさよりを拒み、なごみの元へ戻ってきたわけだが、一瞬でも寿の気持ちがさよりにぐらついたことは否めない。雨の中でさよりと抱き合ったあの五分は、決して消すことのない事実だ。そしてその事実がこんな結果を生んだように思えて仕方なかった。


さよりと一緒に帰らず、一人でコンビニでビニール傘を買ってまっすぐ帰宅していたら、あと家に帰るのが五分早かったら。なごみは深夜に救急車に乗ることなんて、なかったかもしれない。



 いつかの、まだ子どもの姿になってしまったばかりの頃の、なごみの言葉を思い出す。おとぎ話の世界ではこういう時、キスしたら元の姿に戻れるの……


ひょっとしたらひょっとすると、なごみが意識を失ったのもあの全身が発火しているような高熱も、元の身体に戻る兆候なのだろうか。だとしたらこれほど寿にとって嬉しいことはないけれど。でももしその逆だったら、いやそれ以上に恐ろしいことが起こっているとしたら……



 なごみが集中治療室で手当てを受けていたのは二時間ほどの間で、その後は個室に移された。その際医師から説明を受けたが、彼の説明はまったく要領を得ず、聞いている寿は何度も反抗期の中学生のように「ブチ切れ」そうになった。


とにかく原因がわからないんです。どんな検査をしても何の異常も見られずまったくの健康体で、血圧も脈拍も至って正常です。なのにこの高熱は、いったい何が原因なんでしょう。いやそりゃこっちが聞きたいわ!! と白衣の胸倉に飛び掛りたいのを抑え、寿はその毒にも薬にもならない説明を黙って聞いていた。


あるいはその医者がちょうど今澤と同じぐらいの年恰好で、今澤と同じタイプのハンサムだったことも、寿の敏感な心を刺激したのかもしれない。


とりあえず今のところは、点滴をして様子を見るしかありませんね……そう言って医者が出て行くと、白い病室の中には寿と七歳のなごみと、ぽん、ぽん、とメトロノームのように正確なリズムを刻む機械だけが残された。


なごみの身体にいくつもの透明なチューブが伸び、その顔色は漂白したように真っ白だった。触ってみると、点滴の効果か熱はだいぶ引いていた。少しだけ安心してベッド脇のパイプ椅子に腰掛けた。そしてどうしようもない無力感が寿を襲った。



 自分は何ひとつなごみにしてやれない。彼女を元の姿にしてやることも、幸せにしてやることも、命がかかっているこの状況から救い出してやることも。なごみのことがこんなに好きなのに。


愛しているのに。愛していると気付いたのに。なごみがパンドラの箱に願ったみたいな、しっかりした大人の男になったつもりだった。そして彼女を守ってやりたかった。けれど実際、自分は何ひとつできない、ただのちっぽけな三十路前の男だ。



「お悩みのようじゃな、若いの」



 あまりにもこの場にも相応しくないしわがれた声だったので、一瞬幻聴かと思った。



 あぁこんな幻聴まで聞こえるということは自分の神経は相当参っている証拠だなぁと、そんな思いで億劫に首を曲げると、黒づくめの人間がドアの横に立っていた。魔女か隠者のような黒い、裾の長い服を身につけ、頭をすっぽりと覆った頭巾の下に、男とも女とも判別のつかない、年齢不詳の不気味な顔が不気味な笑みを湛え、寿を見ている。


いつかスーパーの前で、たこ焼き屋の隣で見つけた怪しげな人物だった。なごみが言っていた「パンドラの箱をもらった占い師」の特徴とぴったりと一致する、普通に歩いていたら間違いなく職務質問で警官に捕まりそうな、怪し過ぎる人物。その存在も、最初は混乱した脳が見せた幻影だと思った。次の言葉を聞くまでは。



「このお嬢さんに術をかけたのは、わしじゃ。わしならばお主の悩みをきれいさっぱり解決してやることができる」



 寿は勢いよく立ち上がった。あんまり勢いが過ぎたのでパイプ椅子が派手な音を立てて床に転がった。それでも今回は占い師は煙のごとく消えたりしなかった。寿は占い師に掴みかかり、激しくその肩を揺さぶる。


およそ人生というものを達観してしまったような、上下を皺に囲まれた窪んだ目が見開かれた。さすがの占い師も寿の行動にびっくりしていた。寿にしてみれば、掴みかかられるぐらいが何だ、という感じだ。この野郎、ぶん殴られないだけでもありがたく思え。


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