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第十三章 雨の夜とキス(4)

どこをどうやって走って家まで帰り着いたのかわからない。気がつけばなごみはアパートの三和土たたきに立っていた。背後でドアが閉まるがちゃんという音がした。


あれだけの雨の中を走ってきたので、服を着たままシャワーを浴びたように全身から盛んに雫が滴り落ちている。全速力で走ってきたため、息は荒く目の前がぼんやりとしていた。


それでも機械的な動作で長靴を脱ぎ、床が雨粒で濡れてしまうことも構わず家に上がった。雨に濡れたことで、小さな身体が再び内側から激しく火照らされていた。



 今澤が帰っていった後、なごみは彼の言いつけどおり風邪薬を飲んでベッドに潜り込んだ。三時間は眠っただろうか、目が覚めるとまだ頭が呆けたような感じはするものの、だいぶ気分はすっきりとしていた。しかし寿は帰ってきていない。窓の外からは激しい雨音が聞こえる。


寿のスマホに連絡を入れようとして、やめた。いきなり駅まで迎えに行って、傘を差し出して、びっくりさせてやろう。子どもらしいいたずら心が頭をもたげ、気がつけばなごみは走り出していた。こんな夜遅くに一人で外出することに、さして気は咎めなかった。その辺りはまだ大人の感覚が残っていたのである。



 しかし知らない女と抱き合っている寿を見て、すべてが崩壊した。浮気をされたとか信じていたのに裏切られたとか、そういった単純なものではなかった。なごみがずっとその胸に抱き締めていたひとつの世界が、一瞬で跡形もなく崩壊した、そういう感じだった。


今、なごみは寿と二人で帰ってくるはずだったアパートに一人でいる。雨が地面を打ちつける音がひっきりなしに聞こえてくる。今頃寿とあの人はどうしているだろう。あのまま寿が彼女の家に行ってしまっても不思議じゃない。



 膝から下の力が抜けて、なごみは床に崩れ落ちた。どういうわけか涙は出なかった。ただ肩がふるふると頼りなく震えるばかりだった。床に近づいたなごみの目に「ミラクルステッキ」が飛び込んでくる。この間寿にねだって買ってもらったものだ。その隣には「ミラクルコンパクト」、テレビの前には千瀬から借りたミラクルプリンセスのDVDの、可愛らしいパッケージが散らばっていた。


 なんてこと。気がつかないうちに、自分は身体だけでなく、心のほうもまるで子どもになっていたのだ……この時初めて、なごみの中に精神の幼児化に対する自覚が生まれた。



 寿と抱き合っていたあの女の人が誰なのかはわからない。寿より随分年上に見えたけれど、会社の人だろうか。それとも別のどこかで知り合った人? 


寿は確かにぐうたらでいい加減で頼りない男だったけど、それでも浮気だけはしなかった。そこがなごみが寿を八年も愛せていた理由のひとつだった。


しかしその「寿は浮気をしない」という「神話」とでも呼ぶべきものが今、崩壊してしまった。寿を責める気にはならない。悪いのは自分だ。小学生の自分は寿の男の部分を満たしてあげることはできないし、ならば寿が自分ではない、きちんとした大人の女性を求めたくなるのは当然だ。


ミラクルプリンセスが大好きで、傘も靴下もパンツもミラクルプリンセスで、フリフリのスカートを喜んで身に纏うただの小学一年生。こんな自分を、寿がどうやって愛し続けてくれるだろう?



「傑くん」



 なぜか寿ではなく、その名前が可愛らしい唇からこぼれた。困った時に人が「神様」と呟くのと同じようなものなのかもしれない。


例の草むらでのキス以降、なごみと傑は毎日下校を共にする仲で、クラスの公認カップルとでも言うべき状態になっていた。もちろん小学一年生のこと、手を繋ぐ、唇を合わせるだけのキスをする、付き合いといってもそんなもので、それ以上のことには発展しない。当たり前だが。


それでもなごみは傑といると楽しかったし、今では傑にはっきりと好意を持っていることを認めていた。寿に悪いとは思わなかった。男女交際といっても小学一年生の、ごく可愛い、子どもらしい付き合いだ。浮気の範疇には入らない。寿があの女の人としたことと、自分の場合とは全然違う。都合のいい考えだが、そう思っていた。



「傑くん」



 もう一度彼の名前を呟きながら、なごみは床に転がった。三日間雑巾がけをしていないが、構わなかった。抱き締めた肩が熱い、吐く息が熱い。また熱が上がってきているのだろう。こんな時こそ、傑に会いたかった。傑に会って、キスをして手を繋いで、大丈夫だよと優しく囁いてほしかった。


なごみは二つの思いの間で揺れていた。八年間胸に抱えてきた根強い寿への思いと、ついこの間芽生え始めたばかりの傑へのほのかな思い。言い換えれば大人の世界に対する未練と、子どもの世界に対する執着だ。


ずっとこのまま小さな子どもでいたい。千瀬たちと遊び、傑と遊び、そんな日々を繰り返しながら能天気に過ごしていたい。世の中のしがらみや重苦しい大人の責任とは、もう関わりたくない。


そんな気持ちの一方で、このままでいてはいけないという思いも、今はっきりと芽吹いていた。それは寿があの女の人と一緒にいたのを見てしまったからなのだろう。



 このまま寿を奪われたくない。誰だかよくわからない人に、寿をさらっていってほしくない。何せ自分は、寿ともう八年もずっと一緒にいるのに。その存在がなくなったら、確実になごみの中でも何かが変わってしまう気がする。それが恐ろしくて仕方ない。寿を失うことが怖い。だってまだ、寿が好きなのだから。傑に対する気持ちとは別に、その強い思いはまだ確実に存在しているのだから。



 しかし寿を取り戻すには、あの女の人から奪い返すには、このままではいけない。大人の姿にならなくては、元に戻らなくては。どうやってそうしたらいいのかわからないが、とにかくまずは元に戻らないことには何も始まらない。


いや、今さら再び大人になったところで、寿の心は既にあの人に絡め取られてしまって、二度と自分のところには戻ってこないのかもしれないけれど……



「ただいま」



 七歳児の思索は寿の声と、ドアの開閉音によって打ち切られた。二つの音をなごみはふわふわとした聴覚で聞き取った。身体を起こして首を捻ると、玄関で立ち尽くし、こっちに顔を向けて目を見開いている寿がいる。


なごみと同じく、頭から足の先までずぶ濡れだった。こんなに早く戻って来たということは、あの女の人の家には行かなかったのだろうか。いや、あの状況ならキスぐらいはしたかもしれない。自分と傑がするのとは全然意味の違う、ちゃんとした大人のキスを。



「なぁご!? そんなとこで何やってんだよ!? 床で寝てるなんて……しかもびしょびしょじゃないか、外にいたのか!?」



 言うというより叫びながら、自分も濡れていて更に床が濡れてしまうのも構わず、とりあえずバスルームに直行して、バスタオルを手にして戻ってくる。


まだ床に転がったままのなごみの隣に屈みこみ、小さな身体をいささか乱暴な手つきで拭いた。ごく小さな子どもの頃、風呂の後にこうやって父親に身体を拭いてもらった覚えがある。その時とまったく同じ。あぁ、自分はやはり寿にとってもう「娘」でしかない。「恋人」ではないのだ。そう思うと改めて悲しくなり、喉の奥が痛いほど熱くなった。



「……キスして」

「え」



 バスタオルを持つ寿の手が突然止まった。なごみの丸い目が潤みながら寿を見上げていた。その意味深な視線が寿の動きを封じていた。



「キス、してよ、今すぐ」

「なぁご……?」

「キスしてよ。だってわたし、寿の彼女でしょ……?」



 あの女の人とはしたくせに、わたしとはできないの!? 後に続けようとしたその言葉は舌の上で打ち消した。なごみの中で、寿とさよりはキスしたことになっていた。空中で止まったままだった寿の手が動き出す。何かに激しく突き動かされるように、誰かに背中を押されたように。二人は無言のまましばらく、見つめ合った。



「なぁご……」



 実に二ヶ月ぶりに、二人の唇が重なった。傑の時とは違う柔らかくて温かい感触がなごみを満たしていった。目の端からひと雫涙が落ちた。もう十分。これで十分。


 唇が離れたのと同時に、寿の腕の中に小さな身体が落ちてきた。すごい熱を持っていた。



「なぁご!?」



 しばらく寿は狂ったようになごみの頬を叩いたり、背中をさすったりしていた。


 なごみは完全に意識を失っていた。



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