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第十三章 雨の夜とキス(3)

 外に出ると生温い雨が直線になって歩道を刺していた。寿は思わずため息をついた。鞄の中に折り畳み傘は入っていない。夕方にオフィスの窓から見た空は、雲ひとつないきれいな夏色だったのに。この時期の天気は本当に気まぐれだ。


 仕方なく鞄で頭を覆って走り出そうとした時、斜め後ろからひょいと傘が差し出された。白いマーガレットの花が表面に散っている、女物の傘。



「今夜も、偶然ね」

「そうみたいですね……」



 笑みを返しながら、本当に偶然なのかと疑っていた。この間、さよりと食事をした時と、まったく同じ状況ではないか。いや、まさか。


今年四十にもなる女が、まるで校門で好きな先輩を待ち伏せする女子中学生のようなことをするわけがない。大体十歳も年下の、さよりにしてみればほんの若造でしかない自分が、彼女の恋愛対象になっているはずが、ない。



 ちょっとした疑念を抱きつつも、このシチュエーションでさよりを避け、自分一人で雨に濡れて帰るのも妙に思われるだけなので、結局ひとつの傘に二人で入り、並んで歩くことになった。


夜遅いのでオフィス街の人通りはまばらだが、時々すれ違う人たちは決まって寿たちに好奇の視線を当てる。二人の年齢差が気になるのだろう。決して愉快とは言えない周りの目に、怒りにも似たものを感じた。その情動反応も、妙なものだが。



 二人の最寄り駅はたまたま一緒だった。この間食事をした時に初めて知った。同じ駅を使うといっても寿は東口から、さよりは西口から入るので、一度も会ったことがなかったのだ。



「それにしても変よねぇ、同じ駅を使ってるのに今までずっと会わなかったって、不思議じゃない?」

「そうですね。乗る電車もほぼ一緒のはずだし」


「といってもわたしがこの辺りに引っ越してきたのはつい一ヶ月前だから、当然かもしれないわね」

「引っ越したんですか」


「ええ、犬が飼いたくなって、ペット可のアパートに引っ越したの。まだ飼い始めたばっかりだけど、可愛いのよ。ほら、これが写真」



 さよりのスマホの待受は多くの愛犬家と同じく、自分の犬の顔だった。可愛らしい、でもどこにでもいるような、ごく普通のロングコートチワワだった。


 電車を降りても雨は相変わらず降り続き、それどころか雨脚は強くなる一方だった。コンビニでビニール傘を買って帰るという寿に、さよりは家の前まで相合傘で送っていくと主張した。悪いと思ったが、結局言葉に甘えた。


さよりの目の端には単なる親切以上のものが見えた気がしたからだ。この人はきっと、自分ともっと一緒にいたがっている。男の本能のようなものが察していた。


相合傘のせいで肩が半分濡れたさよりの身体からは、艶やかで甘い匂いがした。なごみの身体から放たれるミルクのような匂いとは全然違う、男の部分を嫌でも刺激する匂いだ。



「寿くんは確か彼女、いるんだったわね?」

「はい。俺より三つ下で、もう八年付き合ってます」


「八年! そんなに長く付き合ってるんだ。結婚はしないの?」

「いや、それは……ちょっと、今のところは考えられないっていうか……」



 ふぅん、とさよりの相槌は少し不審そうだった。寿はアパートで自分の帰りを待っているなごみのことを考えた。今夜も一人きりで、小学生に「留守番」をさせてしまった。


 あの日以来、なごみの精神の幼児化は留まることがなかった。本人にはその自覚はないのだが、趣味や嗜好が確実に七歳児のそれに近づいている。


テレビを見てもアニメばっかりだし、逆に大人向けのバラエティやニュースを映し出すと退屈そうにしている。


ヒラヒラフリフリした可愛らしい子ども服を嫌がらなくなり、むしろ買い物に行くと積極的に「あのリボンのついたスカートが欲しい!」と駄々をこねたりする。そういう時、寿の胸は既に慣れ親しんだ戸惑いとこれはまだ慣れることのない悲しさで、冷たくきしむ。



「あたしも前の夫と五年付き合って結婚したけれど、付き合いが長いからって、結婚して幸せになれるなんて限らないわよね。愛情じゃなくて、ただ惰性でなぁなぁのまま、関係が続いてることもあるし。そういうカップルって、結婚してからもいろいろなことを乗り越えていける強さがないもの」


「惰性、ですか」



 さよりの彫りの深い横顔がはっきりと頷いた。彼女のハイヒールがアスファルトを打つ音は、激しい雨音に負けていない。アパートまではまだ、距離があった。



「わたしね、妊娠していたことがあるの」



 その言葉は随分遠くから聞こえてきた。寿は思わず隣を歩くさよりの顔を凝視していた。驚くほど表情というものが希薄な、能面のような顔だった。


 妊娠していたことがある――微妙なニュアンスを帯びたセンテンスだった。それに、さよりに子どもがいるという話は聞いたことがない。とすると、つまり。



「三ヶ月目で流産したの」

「……」


「本当に辛くて、しばらくは仕事も家事も、何もかも手につかなかった……何をしていても、考えちゃうのよね。生まれてこなかった赤ちゃんのこと。そして会うことのできなかったその子を自分がどれだけ愛しているか、痛いほど思い知らされた」



 カツカツカツ。さよりのハイヒールは規則正しくアスファルトを打つ。雨がその甲高さに張り合っているように、勢いを増して地上に降り注ぐ。



「最初は夫もそんなわたしを支えてくれた。でも何ヶ月経ってもわたしがそこから立ち直れなくて、精神科のお世話になっちゃって……そういうのがうまく理解できなかったみたい」


「……」


「男の人にはわからないのよね、生まれてさえこなかった命を愛おしむ気持ちが、それが失われたことを悲しむ気持ちが。まずはいつまでも落ち込んでるんじゃないって、怒鳴られるようになった。次は大事な身体なのにお前が無理をしたからこんなことになったんだって、わたしを責めた。最後は、欝気味の妻が待つ家に帰りたくなくなったんでしょうね、女遊びを繰り返して、帰りが遅くなった。そんなことが一年ぐらい続いた後、別れた」



 何と言っていいのかわからなかった。さよりが抱えていたものは、そこにある事実は、寿の許容範囲を遥かに超えていた。寿は当然誰かを妊娠させたこともないし、自分が父親になることなんて想像がつかない。いや、今寿はある意味でなごみの父親だけれど、そのことをうまく受け入れられないから悩んでいるし、苦しい。



「ごめんなさいね、こんな話しちゃって」



 寿の混乱を見透かしたようにさよりが言った。ハイヒールの音が止まった。能面のごとく固まっていた顔が笑みを取り戻していた。無理をしているのだと一見してわかる、切なく引きつった口元。



「困るわよね、こんな重い話、いきなりされても」

「いや、そんなことないです。むしろよかったです、さよりさんの話が聞けて」



 さよりがはっと顔を上げた。それで自分がついうっかり、副島さよりの下の名前を口にしてしまったことに気付いた。しかし寿は謝らなかった。



「そういうのって自分の中で溜め込んでても、どんどんどす黒くなってくだけだし……誰かに話しちゃったほうが、楽ですよね」

「……」


「俺でよければいつでも、話聞くんで」

「寿くん」



 マーガレット柄の傘が落ちた。寿とさよりの頭上に冷たい雨が容赦なく落ちてきた。同時に寿の両手がその胸の中に飛び込んできたさよりの身体を受け止めた。


 意外なくらい小柄で華奢な身体が、少女のように頼りなく震えている。接近に伴って甘い匂いが強くなる。路上でのことだが今は雨の夜で時間も遅く、行きずりの好奇の視線が彼らを邪魔することはない。



「さよりさん……」

「少しだけ、このままでいても、いい?」



 数秒迷った末、小さく頷いた。細い背中にそっと両手を回した。大人の女性の確かな重みが、随分懐かしい感触が、そこにあった。


 反対側の歩道でピンクの傘が落ちた。ミラクルプリンセスのプリントが施された、子ども用の傘。なごみはそれをそのままにして、踵を返して走り出した。熱い息が絶え間なく小さな唇から漏れていた。


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