目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第十三章 雨の夜とキス(2)

今澤は寿のアパートのリビングにいた。リビングといっても畳敷きで八畳ほどの薄汚く狭い空間で、普段は二十畳のリビングのソファーで寛いでいる今澤からすれば、狭すぎて落ち着かない。


それでも出された座布団はきちんと洗って日に干してあるらしく湿り気がなく、炬燵テーブルの上もきれいに拭いた跡があって、室内の管理はきちんとされているのがわかる。



「せっかく来てもらったのに、ごめんなさい。寿おじちゃん、まだ仕事から帰ってなくて。今お茶、お出ししますね」


「悪いね、気を遣わせちゃって。こっちこそ、連絡もなしにいきなり来てしまって……」



 言いながら今澤の目は刑務所のサーチライトのように、なごみの一挙一動を実に細かく観察していた。その立ち居振る舞い、仕草のひとつひとつ、しゃべり方、アクセント。刑事かあるいは探偵にでもなったつもりで、彼の持つ観察力を総動員させる。


 時刻はまだ夜の七時前で、レースのカーテンの外に見える空は真っ黒ではなく、夕方と夜の中間を示すぼんやりした藍色だ。表向きは寿に用があるということにしての来訪だったが、この時間ならまだ寿は帰ってきていないだろうという確信があった。邪魔者がいなければ、その分この少女をじっくりと観察できる。


 今澤はなごみを、堀切なみという名の少女を疑っていた。


 最初に会った時からこの年頃にしてはやけに大人びた、しっかりした子だと思っていた。はっきりと違和感を覚えた。今澤も離れて生活しているとはいえ子どもがいるのでわかるが、小学一年生の子どもというものは普通こんなに落ち着いても、しっかりしてもいない。


しかも堀切なみの場合はそこに何かしら異常な、不可解な背景がある気がして仕方なかった。それに津幡なごみが消えたのと同時に堀切なみが現れた、これはあまりにもタイミングが良過ぎるのではないか。


なごみとなみ。名前も似ている。極めつけは、この間原宿で偶然漏れ聞いてしまった、二人の会話。一語一句すべてを聞き取ったわけではないが、あのやり取りからすると、堀切なみはおそらく……



 今澤は四十を過ぎたいい大人だし、約四十年間ずっと筋金入りの常識人として生きてきた。CGクリエイターとして芸術的なセンスを養う一方、SFとか超常現象とか幽霊とかUFOとか、そういったものについてはごく若い頃から冷めた考えを持っていたし、今でもテレビでその類の番組を見かけると、不愉快になってチャンネルを変えてしまうほどだ。


なので堀切なみに対してこんな考えを持つことは非常識の極みであり、彼の主義に反するのだけれど、どうしてもそうとしか思えないような事実が、そこにはいくつもあった。自分の目で確かめ、確証を掴まないことには納得できなかった。だから今日、ここに来た。堀切なみと一対一で接触した。ところが。



 確かに堀切なみを構成する要素のいくつかは、今澤の知る津幡なごみとぴったり一致していた。ちょっとした動作や何気ない癖、しゃべり方、そしてその面立ち。


今澤の目の前にいる七歳の少女の顔は、津幡なごみの面影を至るところに宿していた。目元口元、輪郭、鼻の形。成長すれば間違いなくなごみの顔になるだろう。なごみの妹や姪、あるいは娘と言われても信じてしまうかもしれない。



 しかし今日の堀切なみは過去に三度ほど目にした時とは違うところがあるのも事実だった。相変わらずしっかりしていて来客への応対の仕方も大人そのものだが、例えばテレビ画面に流れているのは女児向けのアニメーションだし、畳の上にはそのアニメの主人公が使うものだろう、ピンクの可愛らしいおもちゃのステッキが転がっている。


そして今澤と自分のために麦茶を運んできた堀切なみは、行儀よく座布団の上に腰掛けながらも、身を乗り出してアニメに見入っている。その真剣な横顔は、アニメに夢中の小学生と何ら変わらない。



「なみちゃん。このアニメ、好きなのかい?」


「はい。ミラクルプリンセスっていうんです、知ってますか? 普通の女の子が変身して悪い奴らと戦うんです、かっこいいんですよぉ」


「ふぅん。かっこいい、ねぇ」



 目をらんらんと輝かせて画面に見入る堀切なみは、どこからどう見ても七歳の少女だった。以前会ったときに感じた大人びた違和感が薄れ、子どもらしくなってきている。これはどういうことなのか。今澤は首を捻らざるを得ない。


 最早堀切なみ=津幡なごみ説は、彼の中でかなり揺るぎないものになっていた。でも今、堀切なみと向かい合っていると、やはり自分が抱いていたのはとんでもない妄想で、ここにいるのは堀切寿の姪の、ただの小学一年生なのかと思わざるを得ない。


けれどそうであるというはっきりした根拠もなければ、そうでないという根拠もない。いずれにせよ堀切なみの顔は津幡なごみにあまりにも似過ぎているし、そしてこの間原宿で、今澤がその耳で聞き取ったあの会話は、どう考えても説明がつかない。



 しかし仮に堀切なみが津幡なごみだとして、これは一体どういうことなのか。どんな現象が津幡なごみの身に起こったというのだろう。


先述したように今澤は超常現象も魔法もまったく信じない至って現実的な人間だから、なごみの身体に何らかの病変が起こったとしか思えなかった。身体が小学生化してしまう病気なんてもちろん聞いたことはないが、複雑な現代ではいろいろなことが起こり得るし、その病気もたまたま今まで発見されていなかっただけなのかもしれない。


寿は既に知り合いの高名な医者や科学者の顔を何人か思い浮かべていた。堀切なみが津幡なごみだという確証を掴みさえすれば、すぐにでも彼女をここから連れ出し、専門家の手に委ねるつもりだった。あの堀切寿とかいう頼りない男に彼女を任せておくわけにはいかない。堀切なみには、いや津幡なごみには、きっと自分が必要なのだ。


 今澤はだいぶ前から津幡なごみに恋愛感情を抱いていた。



「そういえば、シュークリームを買ってあったんです。スーパーのやつですけど。食べますか?」



 アニメがCMに切り替わった途端、堀切なみが突然また大人びた顔になって今澤を見た。今澤は甘いものは好んで口にしないが、わざとらしく笑顔を作って頷いた。これもまた、堀切なみを観察するチャンスだろう。



「じゃあ、ひとつ頂こうかな」

「わかりました、ちょっと待っててください」



 短いスカートがめくれるのを気にしつつ立ち上がり、台所に続く引き戸に手をかけた時だった。ぐにゃり、と小さな身体が折れ曲がった。あまりに突然で今澤も一瞬何が起こったのかわからなかった。折れ曲がったのではなく、ふらついたのだと気付いて、慌てて駆け寄り、肩に手をかける。タンクトップからはみ出た肌が生まれたてのひよこを抱えているように、熱かった。



「どうした!? 大丈夫かい、君、すごい熱だよ」

「大丈夫です、ちょっとふらついただけだから」


「いや、違うだろう。これは明らかに熱だ、風邪だ。おじさんはすぐに帰るから、テレビなんか見ていないで寝てなさい。君の叔父さんにも、早く帰ってきてもらうように連絡するんだ」

「そう、します……」



 肉体の苦痛を飲み込み、無理に作った笑顔が今澤を見上げる。それで確信した。本物の子どもはこうやって、やたら大人に気を遣ったりしない。


 君は誰なんだ? 堀切なみ、君はいったい何者なんだ? その言葉を、すんでのところで飲み込んだ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?