アパートの前まで来ると、寿の予想に反して部屋の明かりは点いていて、なごみがまだ寝ていないことを示していた。階段を上る途中から、テレビの音まで聞こえてきた。
まったくもう、子どもはとっくに寝る時間なのに。中身が大人なんだから夜更かしを咎めるのも妙だが、身体がか弱い七歳児である以上、あまり遅くまで起きていると明日の学校が辛くなる。
いや、もしくは自分の帰りが遅いのを心配して、起きて待ってくれているのかもしれない。そう思うと急になごみへの愛しさが胸を占め、改めて嘘をついてさよりと食事した罪悪感がチクチクと心を刺した。
リビングに続く引き戸を開けると、テレビに夢中だったらしいなごみが初めて振り向いた。画面に映し出されているのは寿もすっかりキャラクターの顔を覚えてしまった「ミラクルプリンセス」。
なごみの顔もテレビの中の少女戦士たちのように輝いている。何だ、自分の帰りを待ってたんじゃなくて、テレビを見て夜更かししていただけか……苦笑が寿の唇を曲げる。
「あ、お帰り、寿」
「ただいま。随分遅くまで起きてるんだなー。なぁご、最近いつも九時とかに寝ちゃうじゃん」
「身体が七歳だから、あんまり遅くまで起きてられないみたい。でも今日は、なんか寝れなくて」
それだけ言って、また顔は画面に向いてしまう。その横顔が異様に真剣なのに、寿はぞっとした。それが寿が慣れ親しんでいた二十七歳の津幡なごみからかけ離れ、完全にアニメに夢中の七歳児の表情をしていたからだ。
子どもになってからも、なごみは見た目は七歳、しかし心は二十七歳という不思議な女の子で、寿の前でも時折とても七歳とは思えない、大人びた顔つきをすることがあった。しかし今夜のなごみは、違う。見た目だけでなく、心までも七歳の、ごく普通の子どもに見える……
「それ、ミラクルプリンセスだよね? こんな時間にやってるの?」
「ううん、DVD。今やってるのじゃなくて、去年のやつ。千瀬ちゃんが貸してくれたんだ」
「ふぅん。あのさ、なぁご、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
「うん」
生返事だけはするが、顔はテレビを向いたまま。どう見てもなごみはアニメに、ミラクルプリンセスの世界に夢中だ。
寿は再びぞっとした。先ほど自分が経験したことに対する興奮の名残と、それを早くなごみに伝えなければという焦りのようなものが一気に吹き飛んでしまうほど、ぞっとした。
よく考えれば、二十七歳の女が子ども向けのアニメを見ていること自体がおかしいのだ。つまり今目の前にいるのは、寿が八年間付き合ってきた津幡なごみという女ではない。自分がまったく知らない、ただの小学一年生の少女だ。
「なぁご、聞いて」
「聞いてるよ」
「だからこっち向いて聞けよ」
「聞いてるってば」
「こっち向けって言ってるだろ」
得体の知れない戦慄に焦りが加わって、つい声がきつくなった。その時だった。
「ミラクルアタック!!」
テレビの中の金髪の少女と、なごみの口から同時に同じ言葉が飛び出した。叫びながらなごみは顔じゅうに喜びを溢れさせ、「ミラクルステッキ」を振り上げる。
この間、寿がデパートで買ってあげたやつだ。おもちゃなんて欲しがる二十七歳を寿は笑ったが、なごみは「子ども同士の付き合いで必要なの、ランドセルと同じ。
みんなが持ってるものを持ってないと、付き合いが成り立たないんだってば」と、むくれながらも理路整然とした主張をして、大した額でもないので結局買ってやった、のだが……
「……なぁご、今の何?」
声が掠れていた。またあの脳味噌が溶けかけたような、ふわふわした感じが寿を支配していた。いや、今のはあれとは違う。あの不思議な感覚じゃない。これが本物の茫然自失、というやつなのだ。突然食らった衝撃を、とても受け止めきれない。
そしてなごみは寿の心中をちっとも察することなく、無邪気な七歳児の笑顔で振り返る。
「知らないの? ミラクルアタックだよ、ミラクルプリンセスの必殺技!」
「必殺技……」
「そう、どんな敵でもこれで一撃なの! でも使えるようになるにはミラクルクリスタルっていうのが必要で……」
ぴしゃり、と肌が肌を打つ高い音がした。畳の上にほとんど新品のミラクルステッキが転がった。柔らかなプラスチック製の、ちゃちな造りのおもちゃだった。なぜ、こんなものになごみが夢中にならなくてはいけないのだろう。
理性の防波堤を超え、熱い感情が襲い掛かってくる。身体全体ががくがくと震えだす。突然手を払われ、ミラクルステッキを奪われたなごみは、ただ呆然としている。テレビの中からは「ミラクルキーック!」と少女の元気な声が聞こえてくる。
「なぁご、どうしちゃったんだよ!? 変だよ、おかしいよ、普通じゃないよ! こんなアニメなんか見て、こんなもの振り回して遊んで……」
「……」
「しっかりしろよ。お前は見た目は七歳でも、中身は二十七歳だろ!? 大人だろ!? 大人がこんなことしてちゃ、おかしいんだよ!! いつのまに、中身も子どもになっちゃったんだ!?」
「どうして」
一気にまくし立てた声が、頼りなく揺れるもうひとつの声によって遮られた。はっとした。なごみが泣いている。おおよそ気が強くてしっかり者で、八年間の付き合いの中でも寿の前でほとんど涙を見せなかったあのなごみが、今や完全に七歳の少女になって、その大きな丸い目を潤ませている。
「どうして、そんなに怒るの? 夜更かししてたから? 夜更かしして遊んでたから?」
「……」
「それなら謝るから、もうしないから、ごめんなさい、許して……手首、痛いよ」
そこで初めて、寿は叩いた細い手首が赤く腫れていることに気付いた。あんまり必死だったので、手加減を忘れていた。なごみがわあっと顔を覆った。可愛らしい指の間から涙が溢れ、鼻水が零れる。そうやって泣く姿は、七歳の無力な少女にしか見えない。もう彼女のどこにも、二十七歳の気が強くてしっかり者の女性の面影を見つけられない。
熱く煮えたぎっていた寿の胸が急速に冷めていった。
「ごめん、なぁご」
言いながら寿は目の前の少女を抱き締めた。泣いているうちに止まらなくなったのか、なごみの嗚咽はより激しくなる。感情の起伏も、七歳児並みになっているのだ。寿の鼻の奥もツンとし始めた。
既に割り切っていた。自分なりに考えて、結論を出したはずだった。無理をして大人の姿に戻るより、このままでいたほうがなごみにとっては幸せなのだと。
もちろん寿としては二十七歳のなごみを抱き締めたいし、キスしたいし、交わりたいと思う。しかしそれは寿の望みであって、なごみの望みではない。自分の幸せよりも、相手の幸せを優先する。それこそが愛だ。そうじゃないか。
でもさっき、あの「怪しい占い師」らしき人物を見た時、希望が寿の頭上に降りてきた。もしかしたら、なごみはやはり大人の姿に戻れるのかもしれない。もう一度元の津幡なごみに会えるのかもしれない。
その希望は彼、あるいは彼女が消えてからもしっかりと寿の胸に根付いて、家に帰るまで消えなかった。しかしなごみの涙が、その希望を流し去っていこうとしている。
なごみにかけられた魔法は姿かたちだけでなく、やがてその心までも子どもにしていくものだったのだ。これからなごみは更に子どもに近づいていくことだろう。しかしそれがなごみの幸せだ。他ならぬ愛する人の幸せだ……
涙腺を必死で堰き止めながら、寿は力強くなごみの身体を抱き締めた。その小さな肉体からは子どもだけが放つことのできる、ミルクのような優しい匂いが漂っていた。