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第十二章 年下男子と年上女子(3)

ワインを注ぐウェイターのうやうやしい手つきや踏みしめる絨毯じゅうたんの雲のような柔らかさや聞き慣れないクラシック音楽の荘厳な響きに、寿は完全に参っていた。


窓を一枚隔てたその向こうには、ここは天の川のど真ん中かと言いたくなるほどの煌びやかな夜景が広がっている。赤いシルエットを闇に浮かび上がらせる東京タワーに、地上をうねる光の蛇みたいな首都高、そして無数の人々の存在を示す家やビルの明かりたち。



「寿くんはこういうところは、初めて?」



 寿くん。人前では相変わらず「堀切くん」だが、二人きりになると呼び方が変わることに、少し前から気付いていた。照明の具合のせいか仕事の枷から解放されたせいか、テーブルの向こうのさよりが異様に艶っぽく、美しく見える。



「えぇ、ほとんど初めて、ですね。こんなところに来る機会なんか、そうそうないし」


「そうよねぇ、まだ若いものね。わたしはね、三ヶ月に一回はここに来て特製のローストビーフを味わうの。自分へのご褒美ってやつ」


「そういう時って、彼氏さんとかとご一緒なんですか?」



 さよりが笑いながら顔の前で手を振った。若い女の子は決してやらない仕草は、改めてさよりが自分よりずっと年上であることを実感させる。



「いないわよ、彼氏なんて。八年前に旦那と別れて、それから一人か二人付き合った人もいたけど、続かなかった。友だちだってこの歳になればそんなに多くはないし、こういうとこ来るのも大体一人よ。いわゆるオヒトリサマってやつ」


「すごいですね、こんなとこ、一人で来れるなんて」

「寿くんの歳じゃあ無理だったけどね。三十五超えると、怖いものナシよ」



 ふぅんと相槌を打ちながら、ぎこちない手つきでナイフとフォークを使い、切り分けたローストビーフを口に運ぶ。舌の上でとろけそうな柔らかさ。一人でこんなものを味わっていると知ったら、家で待っているなごみは怒り狂うだろう。


さよりと二人きりで高級レストランで食事。こんな奇妙なシチュエーションに至ったのは、残業のせいだった。入社以来定時と直帰を心がけ、決して仕事に熱を入れることはなかったちゃらんぽらん社員の寿だが、臨時のチームとはいえリーダーの立場ではそうもいかない。


会社を出たのは今日も九時過ぎだった。家に一人でいるなごみのことが気がかりだったが、電話してみてみれば元気そうで、あまり心配する必要もないようだった。なんといっても見た目が子どもなだけで、中身は二十七歳の大人なのだ。



 警備員に目礼して会社のビルを出たところで、さよりに声をかけられた。「今帰り? 偶然ね。わたしもやっと、仕事終わったところなのよ」……


新製品のプロジェクトリーダーに任命されて以来、本来の部署の上司であるさよりとは離れていて、久しぶりの会話は盛り上がった。盛り上がりについでに食事に誘われ、特に断る理由も思いつかず、こうなった。全ては自然の成り行きだった。



「三十五……副島さんって、そんな歳だったんですね。僕と四つ、五つぐらいしか変わらないと思ってました」



 慎重に言葉を選びながら言った。こと女性を相手にした時、年齢の話題は難しい。しかしさよりは至ってあっけらかんとしていた。人生経験と歳を重ねた女の余裕が、そこにあった。



「寿くんってば、お上手。わたし、今年四十よ。寿くんと十も違うのよね、そういえば」

「四十……見えないですね。さっき言ってたけど、結婚されてたこともあったんですか?」


「うん、二十九から三十二の歳までね。社内恋愛の末だったけど、結局失敗しちゃった」

「そうなんですか……」



 好奇心をかきたてられる話題ではあったが、それ以上突っ込むことは憚られた。恋愛、結婚、そして離婚。そんな単語のひとつひとつにさよりが女性であることを思い知らされ、戸惑う気持ちもあった。今まで寿にとっては、さよりはあくまでちょっと怖い女性上司でしかなかったのだ。


思春期に母親と父親のセックスの場面を偶然目撃してしまったような、気まずさと恥ずかしさがあった。


 俯きがちな寿に対し、さよりはまっすぐ語りかける。少し、いやかなり、楽しげに。



「寿くん、結婚相手は慎重に選んだほうがいいわよ。やり直しのきくことっていったらそうだけど、結婚するのも離婚するのも、いろいろ面倒臭いんだから」

「はい、そうします」


 年下の男のいい返事に、さよりは目尻に皺を寄せて満足そうに笑った。


            ※


 なんだかんだで二人きりの食事は盛り上がり、たっぷり二時間はその高級レストランにいた。勘定の際になって、少し揉めた。


さよりは年上の意地で全額支払うと言い張り、寿は男の意地で自分が払うと主張して、結局割り勘になった。なごみと付き合いたての頃、やはり同じように揉めたことを思い出した。もう八年も前の話だ。



 乗り込んだ電車は終電の一つ前だった。腕時計を覗き込み、さすがに後悔する。なごみには同僚に誘われて飲みに行ったと連絡してあった。まったくの嘘ではないものの、相手がさよりであったことが後ろめたさを心に植えつけていた。


どうして後ろめたいんだろう、罪悪感のようなものを覚えなくてはいけないのだろう。さよりはただの上司であって、女ではない。まさか十歳も年下の自分を恋愛対象にしているわけがない。でも今日のさよりがいつもより格段に色っぽく、美しく見えたのは事実だった……



 そんなことを考えながらホームに降り、家までの道のりをやや速足で歩いた。この時間になるとさすがに商店街は静まり返っていて、営業しているといえばコンビニぐらいのもの。家路を目指す人たちの姿もまばらだ。深夜営業が売りのスーパーもさすがに閉店し、たこ焼き屋も閉まっていた。



 ふと、足が止まる。見間違えかと疑いつつ振り返ると、いた。たこ焼き屋の屋台の隣、安っぽい木箱がひとつ置いてあり、「占い」と書かれた紙が貼り付いている。木箱の後ろに座っているのは、魔女のような隠者のような真っ黒い服に身を包み、頭まですっぽりと頭巾で覆った、見るからに怪しい人物。男とも女とも判別のつかない、性別不詳の顔つきをしている。


 なごみの言っていた「その人」の特徴と、ぴったり一致していた。



 彼……もしくは彼女が、ゆっくりと顔を上げ、寿に焦点を合わせた。猫のようにぎらぎらと光る異様な目つきに、金縛りに合ったかのごとく寿の全身が硬直する。頭巾の下の目がにわかに細まり、口元が笑みを作った。黒服の下に隠れていた手を差し伸ばし、手招きをする。おいでおいで。



 金縛りが終わった。脳味噌が半分溶けたように頭の中がふわふわとして、足元が覚束ない。現実感というものがまったく消失した、不思議な感覚だった。ただ心臓の鼓動だけが内側から激しく寿を打ちのめしていた。行け。身体の奥から、直感、あるいは本能とでも言うべきものが寿に命令する。寿はゆっくりと一歩を踏み出す。



 どぉん、と背中に激しい衝撃を感じ、寿はアスファルトに打ち付けられていた。同時に寿の隣にぎゃっという悲鳴を上げながらもう一人、男が転がった。痛みに耐えつつ起き上がると、背後からどたどたと複数の足音が近づいてきて、声をかけられた。



「大丈夫ですか?」

「あ、うん……何とか」

「平気ですか? 怪我とかないですか? 病院、連れていきましょうか?」

「いや、本当に平気。軽い打ち身だけだから」

「マジですいません!!」



 男は五人いた。中央のリーダー格が真っ先に頭を下げ、倣って周りの者も腰からきちんと折り曲げるお辞儀をする。寿の隣に倒れた男はアスファルトに転がったまま、何事かを呻いていた。



「こいつ悪酔いしちゃって、テンション上がって、一人で走り出して。それであなたにぶつかっちゃって……本当にすいません。マジで勘弁して下さい」

「ほら、お前も謝れよ。うーじゃなくて」

「い、いや、本当にいいって」



 よく見ればどの男も、ようやく二十歳を越えたばかりと思われる若い顔をしていた。この年頃に酒の席での失敗はつきものだ。飲み慣れていないんだからしょうがない。寿にも覚えがある。


 男たちはなおも平謝りを続け、酔い潰れて寿にぶつかって転んだ男を二人で両側から支えて、去っていった。今時の若者にしては礼儀正しいなぁと感心しながら、全てを思い出した。慌てて振り返ると、消えていた。


 黒づくめの怪しい人物も、安っぽい木箱も、現実味のない不思議な感覚も、何もかも。



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