今夜もスーパーの前になごみが見たという怪しい占い師の姿はない。ただ仕事帰りの人間が入り口を行き来していて、たこ焼き屋の屋台から生臭さと香ばしさが一緒になって漂ってくるだけだ。
しばらく立ち尽くした後、口の中でため息をついて歩き出した。本当は最初からわかっていた。昨日もおとといもその前も、駄目だったのだ。今日になって都合よく「ヤツ」が現れてくれるわけがない。
勤め帰り、スーパーの前をチェックするのは寿の日課になっていた。いくら占い師の元を訪ね歩いても「ヤツ」にはたどり着けないし、いつのまにか寿もなごみも成果の虚しい調査を投げていた。
でも諦められず、毎晩未練たらしくスーパーの前のたこ焼き屋の隣に、怪しい人物がいないかどうか確かめてしまう。今のところ寿にできることといえば、それぐらいしかなかった。
寿は実際に「ヤツ」を見たわけではないから、たとえ見かけたところでそれとわからないかもしれない。というか、そもそもそんな人物がいたことすら疑わしい。
変な占い師から魔法の箱をもらい、願いをかけたら子どもの姿になってしまったなんて、ひどく現実離れしている。しかしなごみが嘘をついていないのはもはや疑いようもない。信じられない話を、信じるしかないのだ。
勤め帰りの人の群れに紛れ、寿は少し背中を丸めて家路を急ぐ。このところ忙しかったので、久しぶりに残業なしで帰れた。七時を少し過ぎたばかりの夏の空は、青い光にベールのように覆われている。
地上をぽつぽつと彩る、商店のネオンと街灯、車のヘッドライト。それらに照らされる、自分と同じく帰路についた人たちの横顔。老いも若きも、みんな疲れて干からびて見える。これらの顔のうち、いったいどれくらいが現状に満足しているのか。
自分はどうして、こんなにもなごみに元に戻ってほしいのだろう。なごみに元に戻ることを強いるのだろう。今のままのほうが、子どもの姿でいたほうが、ずっと幸せじゃないか。大人はいつも悲しい。
「あれ、寿?」
名前を呼ばれて反射的に振り返るが、最初は誰だかわからなかった。目は大きなサングラスに隠されているし、ツンツン立てた金髪に派手なTシャツ、細身のダメージジーンズというファッションにも、覚えはない。こんな若い格好をする友人が自分にいただろうか。
名前を呼んだ男のサングラスの下の口が、にっと口角を上げた。大きなサングラスを外すと、その向こうに懐かしい切れ長の目が微笑んでいる。
「何だよ、拓朗じゃん!」
「そうそ、俺だよ俺。寿、まだこの辺りに住んでたんだ?」
「住んでるけど。それより何、お前どうしたんだよ。あんなすごいことになっちゃって」
「アハハ、知ってたのか」
拓朗が笑うと、寿の笑顔が引きつりそうになる。かつての仲間の栄転の事実と、それに伴う複雑な感情がじわじわと頭を擡げてきた。拓朗が声を落とした。
「今度また、飲みに行きたいな」
「今度と言わずに、今行かないか? お前、忙しい?」
「いや、全然」
それで話が決まった。かつての友人同士はあの頃に比べると随分よそよそしい距離を間に挟んで歩いた。
拓朗が選んだ居酒屋は個室つきの店だった。若い女の店員は拓朗の顔を見てはっとしたらしく、一瞬息を詰まらせた。オリコン八位の影響力はなかなかのものだ。
寿は改めて拓朗が自分とは違う世界の住人になっていることを思った。理性は旧友の成功を喜ばなければと訴えているが、一方でむらむらと僻みの炎が立ち上ってくるのを止められない。
「みんな、どうしてる? ツヨシは?トモは?」
「ツヨシは田舎に帰って、実家の酒屋手伝うって言ってたな。トモも俺と同じで就職。最後に連絡取ったのは、二人とも二年ぐらい前だったかな」
「そっか。どんどん疎遠になっていくんだな」
拓朗が苦笑いして、ジョッキを傾けた。かつて同じ夢を追いかけていた仲間たちだって、大人になれば離れていくのは当たり前だ。歩く道が違うのだから、仕方ない。でも仕方ないで割り切れない思いが、拓朗の中にはまだあるらしい。
「お前、すごいよな。まだ音楽続けてたのもびっくりしたけど、それよりメジャーデビューだなんて」
「いや、俺も大変だったんだよ、お前たちと離れてから。事務所には入ったものの俺より若い奴にどんどん抜かれてくし、実家からはいい歳していつまでも何やってんだって責められるし。俺だって別に好きで親を悲しませてるわけじゃないから、何度もお前たちみたいに音楽をやめようかと思った。でも、やめなくてよかった」
相槌を打ちながら、僻みで埋め尽くされそうだった寿の心に変化が起きた。拓朗だってすんなり今に至ったわけじゃない。この五年間、彼も相当苦労してきて現在のオリコン八位を勝ち取ったのだ。考えてみれば、当たり前のことだ。
「そうまでしても頑張れたのって、どうしてなんだ?」
気がつけば聞いていた。拓朗がふっと動きを止める。店内の喧騒がコンポのボリュームを絞るように遠ざかる。
「お前はなんでそんなに、頑張れたんだ?」
「……」
「どんなに辛くても夢を捨てずにいられたのは、何か理由があるのか?」
「理由かぁ」
拓朗がふぅ、と視線を上げた。何もない空中を見つめながら、独り言のように言う。
「強いて言えば好きだから、かな」
「……好きだから?」
「そう、音楽が好きだから」
寿は少し面食らった。返ってきた答えは想像以上にシンプルだった。拓朗が寿に視線を戻し、相好を崩す。地位は変わってしまっても、くしゃっとなる笑い方は昔と変わらない。
「好きだから、やめたくなかった。好きだからこそ、続けられた」
「……」
「特別な理由なんかないよ。ただ、好きなだけだ。曲を作るのが、詩を書くのが、歌うのが。みんな、大好きだ。俺だって、これからどうなるかわからない。今が最高で、結局大して売れないで終わるかもしれない。それでも俺は、音楽だけは絶対に捨てない、捨てられないと思う」
「……拓朗」
んん?と拓朗が身を乗り出す。目を合わせたまま、数秒の空白が通り過ぎていった。
目を逸らしたのは寿のほうだった。
「いや、何でもない」
「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ。そういうの気になるじゃん」
「本当に何でもないんだ」
その日、別れるまで一度も寿は拓朗の目をまともに見ることができなかった。
敗者にとって、勝者の目は眩し過ぎた。