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第八章 切ない夜と旧友(3)

アパートの前で寿の目が丸くなった。水色のツインニットと白いフレアースカートに身を包んだ梨沙子が、階段の下に夢のように佇んでいる。


寿に気付き、ちょこんと白い首筋が折れ曲がる。満月に近い月が二人を明々と照らしていて、青白い光に包まれた美女の姿は幻想的だった。狐につままれた気分、というのはこういう時のことを言うのだろう。



「どうしたんですか、いきなり」

「堀切さんに報告したいことがあって。ちょっとすぐそこまで、来たから」



 後半は言い訳のように聞こえた。寿の胸がほのかな期待に膨らんだ。梨沙子がふぅと大きく息を吸う。



「結局、やめることにしました。教師」

「えっ、そんな……そんな、よかったんですか?」


「夢を諦めたわけじゃないんです。子どもたちと約束しましたから。ちゃんと正式採用の試験に挑戦して、受かって、また戻ってくるって」


「……そうですか」



 憑き物が落ちたように晴れやかな梨沙子の笑顔を前にして、自分のちっぽけな下心が恥ずかしくなる。歳は寿より下でも、梨沙子のほうが随分大きく見えた。梨沙子は自分なりに悩んで、答えを導き出して、きちんと前に進んでいる。寿はその背中を少し押しただけだ。



「ありがとうございます、堀切さんのおかげです」

「そんな。俺は何もしてないですよ」

「いいえ、堀切さんが励ましてくれなかったら、こんな気持ちにはなれなかったはずだから」



 二人の背後、アパートの前の路地を自転車が一台駆け抜けていって、風がふわりと梨沙子のスカートを揺らした。それがきっかけのように、奇妙な沈黙が少しの間、続いた。



「あの、堀切さん」

「はい」



 梨沙子の目がさっきとは違う決意に漲っていた。もしかしての思いに、寿はひとつごくりと唾を飲んだ。



「あの、わたし……」

「はい」

「――あ、やっぱりいいです」



 つい、マンガのようにずっこけそうになった。強烈な肩透かしを食らった感じがした。梨沙子はふふふ、と意味ありげに微笑む。



「正式採用の教員になってまたなごみちゃんとお勉強できるようになったら、その時にお話します」

「い、いや、そんなこと言わずに、できたら今」

「だめです」

「そんなぁ」

「あれ、先生?」



 階段を下りる軽快な足音と舌ったらずな声が聞こえてきて、後ろめたさに寿の背筋が冷たくなる。これでは合コンに行ったなごみを責められない。当のなごみはやや訝しげに、小一とは思えない大人びた視線で寿と梨沙子を見比べる。



「ちょっと通りがかったものだから、お父さんとお話してたのよ、なごみちゃん」

「そうですか……」

「じゃあ先生、もう行くわね。なごみちゃん、お元気で。堀切さんも」

「あ、はい。先生もお元気で」



 梨沙子はなごみを抱いて泣いていたのと同じ人とは思えない、軽やかな足取りで夜の闇に吸い込まれていった。子どもらしさを演出して手を振り終わった後、なごみは少し険のある目で寿を見上げる。



「ねぇ、何の話してたのよー」

「い、いや、別に」

「ふん。どうせ寿には高嶺の花よ、梨沙子先生は」



 寿は言葉に詰まった。なごみはツンとそっぽを向いてみせながら、心ではクスクス笑っていた。余裕の笑み。


 寿は浮気ができるほど、器用な男じゃない。昔からそうだった。そしてそこが好きだった。


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