声の主は肩までの長さの髪を低い位置で束ねた、四十を少し出たくらいの婦人だった。隣に嵐を連れていなくても、明らかに嵐の母親だとわかる。それぐらいそっくりで、今どき珍しい肝っ玉母ちゃんといった感じに、貫禄がよく健康的に太っていた。
母親に手を引かれた嵐は今にも泣き出しそうだった。嵐にしては珍しい表情だった。
「すみません、このたびは本当に、うちの嵐が……!!」
「あ、いえ……」
平謝りされて、さすがの雷の母親も戸惑っている。嵐の母親はまだ足りないと言わんばかりに土下座を始め、嵐にも促した。子どもたちでできた人垣がざわざわとした。
「本当にすみません、みんなうちの嵐のせいなんです! 学校は悪くありません!! 責めるならわたしを責めて下さい、ほら、あんたも謝って」
「わ、わかりましたからやめて下さい、こんな、子どもたちの見てる前で……」
「――ごめんなさい」
母親に頭を押し付けられながら、嵐が振り絞るような声を出した。いつも強気な瞳から涙が滲んで、リノリウムの床に小さな水溜りができた。
「梨沙子先生は悪くないんです、みんな、俺がふざけたから……」
「……」
「ごめんな、雷」
「雷、マジでごめん!!」
人垣から飛び出してきた大風が、嵐の隣に膝をつく。雷はそっと屈んで、床に頭をこすりつけながら震えている友だちにそっと手を差し伸べた。
「いいよ、もう」
「……」
「母ちゃんが大騒ぎしてるだけで、俺は別に怒ってねーし。一緒にふざけてた俺も悪かったんだ、ふざけたら危ないって、梨沙子先生にちゃんと言われてたのに」
「雷」
嵐が本当に嵐がやってきたかのように大泣きした。大風も隣で泣いていた。雷は微笑しながら、右手に大風の、左手に嵐の手のひらを握っていた。
嵐や大風がみんなの前で涙を見せたことはなかったので、子どもたちは揃って呆然としていた。嵐の母親も雷の母親も、子どもたちの仲直りの輪の中に入っていけなかった。
「あ、梨沙子先生!」
花鈴の声が沈黙を破り、子どもたちも教師たちも二人の母親も、嵐たちもぴたりと泣き止んで花鈴の指差す方角を見る。梨沙子はリクルートスーツのような黒い上下に身を包んでいた。目はもう赤く腫れておらず、何かの決意が黒い瞳の内側から輝いていた。まっすぐ雷の母親の前に歩み寄り、深く深く頭を下げる。
「この度はわたしの不注意が招いたことで、本当にすみませんでした」
「あ、いえ……」
さすがの雷の母親も、いきなりの梨沙子の出現に戸惑いを隠せない。梨沙子はたっぷり十数秒は頭を下げ続けた後、今度は校長に向かって何かの封筒を差し出した。
なごみには「何か」が何だかすぐにわかる。この場合、ひとつしかない。受け取った校長が顔色を変えた。
「内原先生、これは……」
「わたし、責任を取ります。今回のこと、本当に申し訳ありませんでした」
「ダメ! やめないで! 先生!!」
校長に頭を下げたその背中に、子どもたちがしがみついてくる。何人かの女の子たちが泣いていた。目を潤ませている男の子もいた。誰もが必死だった。小学一年生なりに、本気だった。
「わたし、梨沙子先生の授業がいい」
「僕も梨沙子先生がいい」
「そうだよ、それに今やめたら、俺のせいじゃん」
そう言ったのはまだ鼻をすすっている嵐だった。梨沙子はそっと膝を折って嵐と同じ目線になると、ゆっくり首を振った。
「ううん、嵐くんのせいじゃない。結局、みんなをちゃんと監督していなかった先生が悪いの」
「……」
「それにね、もともと先生は臨時採用で、前の先生が産休でお休みしている間だけの先生なの。その先生がもうすぐ、戻ってくる。どっちみちわたしは、やめないといけなかった」
「そんな……!!」
なごみは思わず声を上げていた。それじゃあ自分の取った行動は、必死でみんなに訴えかけたのは、果ては梨沙子の自宅まで行ったのも、全部無駄だったというのか。やめることが最初から決まっていたのなら。
「でもね、みんなの気持ちは決して無駄にしないわ、先生」
なごみの心中を見透かしたような言葉だった。梨沙子は笑っていた。悲しそうに、でも少し誇らしそうに、「先生」の顔で、そこにいた。
「先生、絶対みんなのところに帰ってくる。みんなが、この学校にいるうちにね。ちゃんと勉強して、正式採用の試験受けて、今度こそ本当の先生になって。約束よ」
「本当? 本当に約束?」
花鈴が言った。梨沙子が大きく頷いて、小指を突き出す。
「みんな一緒にやりましょう。指きりげんまん」
「嘘ついたら針千本、のーます!!」
指切った、と言ったところで、梨沙子の瞳から初めて涙がこぼれ落ちた。