登校するなり、なごみはすぐにクラスの異変に気付いた。何かに吸い寄せられるように、教室の前の廊下を真顔で駆け抜けていく子どもたち。
クラスの中は空っぽで、みんなどこかへ行ってしまったらしい。ちなみに隣のクラスはいつも通り、登校したての子どもたちが思い思いにはしゃぎながら、朝の会の開始を待っている。
首を捻っていると、いきなり萌乃に腕を掴まれた。子どもにしては強い力だった。
「なごみちやんも、早く。校長室に行こう」
「こ、校長室!? なんで!?」
「雷くんのお母さんが、地下談判だって」
「それって直談判!?」
萌乃は答えない。なごみを引きずるように、校長室へ一直線だ。
やってきた校長室の前は、たしかになごみのクラスの子どもたちで鈴なりだった。みんな部屋の中に向かって何事かを叫んでいる。一人ひとりニュアンスは違うが、大体次のようなことだ。
「梨沙子先生を返せー!」
「お願い、梨沙子先生をやめさせないで!」
「梨沙子先生の授業じゃないと、受けないもん!!」
すごい、完全にストライキだ。元々自分が
「みんなこんなところで何してるの?校長先生はね、今大事なお話をしてるの。ほら、もうすぐ朝の会も始まるし、早く教室に戻りなさい」
「嫌だ、戻らない!」
「だって梨沙子先生、やめさせられちゃうんでしょう?」
「僕たちも校長先生に、地下談判しにきたんだ!」
だから地下談判じゃなくて直談判だって、と内心で突っ込みつつ、ちょっと困ったことになったとなごみは正直思っていた。一度スイッチが入ってしまった子どもたちは、もう止められない。なんとか制そうとする教師たちも、状況が状況なだけに戸惑っている。
「いったいさっきから何の騒ぎですか、これは?もう、まったく最近の子どもは……」
校長室の扉が開き、中から気難しそうな感じの婦人が現れた。雷の母親だろうが、化粧が濃いせいか眼鏡のせいか、雷にあまり似ているようには見えない。アイラインで強調した目にぎろりと睨まれ、子どもたちは一歩たじろく。
「こんなにうるさいんじゃ、話し合いなどできませんよ! さっさと何とかしてください、この子たち」
「すいません、今すぐに……」
「ねぇ、おばさんが梨沙子先生のこと、やめさせようとしてるって、本当?」
言ったのは千瀬だった。普段はおとなしい少女の思わぬ反撃に子どもたちは息を詰まらせ、雷の母親は眉を釣り上げる。その隣で当の雷は怯えたように肩を縮めていた。嵐に次ぐクラス有数の悪ガキの面影は、そのどこにもない。
「雷くんのこと、おばさんが梨沙子先生のせいにしてるって。梨沙子先生をやめさせるために、お母さん同士で協力し合おうって、うちにも電話が来たの」
「あっそれ、俺んとこにも来た」
「やり方がきたなーい」
「あなたたちねぇ」
雷の母親の声が尖った。母親にしっかりと手を掴まれた雷は、何もできずに俯いているだけだ。
「どうやら梨沙子先生のことを庇っているみたいだけど、あなたたちの先生はやめさせられてもしょうがないことをうちの雷にしたのよ。そのことわかってる?」
「あれは梨沙子先生は悪くないもん!」
「嵐くんたちが勝手にふざけて、ああなったんだ!」
「君たち、いい加減にしなさい!!」
怒鳴り声が上がった。ずっと黙っていた校長だった。大人に叱られることに慣れていない今どきの子どもたちは、普段は優しい校長先生が少し声を荒げるだけで、蛇に睨まれた蛙になる。校長はふぅと悲しそうなため息をつき、真剣な調子で続けた。
「これは大人の話し合いだ、君たちには関係ない。早く教室に戻りなさい、朝の会が始まる前に」
「でもね、校長先生」
「でも、じゃない」
なごみの言葉はあっけなくはじかれた。自分が無力な子どもであることが悔しかった。せめて大人の姿だったら、校長や雷の母親とも同じ土俵に立てるのに。子どもの身体に包まれた大人の心が、切なくきしんだ。
「すみません、ちょっと……!」
緊迫したムードを破ったのはひとつの「声」だった。