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第七章 ビールとタルト(3)

梨沙子の家を知っていると言ったのは千瀬だった。千瀬によれば梨沙子は千瀬の家の近くに住んでいて、子どもの頃はなごみや千瀬たちと同じ小学校に通っていたという。



「行ってみよう、梨沙子先生のところに」



 なごみの提案に、千瀬も花鈴も萌乃もはっきりと頷いた。今度も傑がついてきた。さすがに嵐と大風はついてこなかったが。


事故以来、嵐と大風は相変わらず騒がしいが、クラスではすっかり浮いた存在だった。いじめには遭っていないけれど、誰もが祟り神でも恐れるように嵐たちを遠巻きにしていた。雷はまだ登校してこない。



「きれいなお家だね」



 梨沙子の家の前で萌乃が言った。ハートやピンクやキラキラや、女の子らしいものが人一倍大好きな萌乃は、大小のバラの花で美しく彩られた白い外観の家を見て、うっとりしている。あの梨沙子が住むに相応しい、小奇麗で可愛らしい家だった。



「ねぇ、誰がピンポン押す?」

「えー、わたしは嫌」

「こういう時はやっぱ、なごみちゃんじゃない?」

「えぇ、わたし?」



 さすがのなごみも、初めて鳴らす人の家のチャイムにはなかなか手が伸びない。かといってここで断るのもみんなから「身体の小さい大人」として頼られている自分を裏切るようで、嫌だった。


躊躇していると、傑があっさりチャイムを押してしまった。女の子たちが息が止まったように押し黙る。



『はい、内原ですが』



 インターホンを通じて中年女性の声が聞こえてくる。傑は少し背伸びして、慣れた様子でインターホンに向かって話す。



「僕は矢田辺傑です。梨沙子先生がずっと学校に来ないので、クラスのみんなでお見舞いに来ました」


『まぁまぁ、それはそれは、わざわざありがとうございます。今そちらに行くから、ちょっと待っていて下さいね』



 習字かお茶の先生を思わせる上品な口ぶりが途切れると、傑がまだ唖然としているなごみたちを振り返って、言った。



「こういうのは、男の役割でしょ?」



 玄関にスリッパを履いた足音が近づいて、ドアが開いた。あの上品な口調から想像できる、上品な感じの婦人が現れた。自己紹介されなくても、すぐに梨沙子の母だとわかる顔立ちをしていた。


着物は着ていないが半袖のカーディガンにジーンズという組み合わせもどこか上質さを感じさせ、白髪交じりの頭さえ気品を漂わせている。年齢はたぶん五十代後半ぐらいだろうが、子どもたちからすればおばあちゃんに近い年頃だろう。



「みなさんありがとう、うちの娘を心配してくださって」



 優しく目を細め、子ども相手でもきちんとした敬語を使うところも、育ちの良さを彷彿させられる。大人にこんなしゃべり方をされたことのない子どもたちは、自然と背筋がしゃっきり伸びた。



「今冷たいものを用意するから、リビングで待っていて下さいね。梨沙子もすぐ降りてきますから」

「おじゃまします」

「おじゃましまーす」



 最初に靴を脱いだ傑に続き、みんなしゃちほこばって玄関に上がり、きちんと靴を揃える。「いい子モード」が傑を起点に、あっという間に全員に伝染していった。



 ダイニングルームに案内されても、みんな出されたオレンジジュースは飲むが、お菓子のタルトには口をつけようとしない。


タルトなんて子どもにしたら随分デラックスなおやつだろうに、いい子ぶって我慢しているのだ。なごみはそれとは別の気持ちで、タルトに口をつけられずにいた。天井をひとつ隔てたところに、梨沙子がいる。


今こそ、梨沙子のことが気になってしょうがなくなる。彼女は自分たちが押しかけてきて、どう思っているのだろう。



「みなさんありがとうね、わざわざ」

「あの、梨沙子先生はどんな様子なんですか?」



 なごみが聞くと梨沙子の母が一瞬、ほんのわずかに眉間を寄せた。



「あまり元気がいいとは言えないわね。謹慎になってからは、一日中部屋でふさいでばかりいて」

「そうですか……」


「だからね、こうして来ていただいて、本当に感謝してるのよ。今日はあの子をたっぷり、元気づけてやってちょうだい」



 母親が言い終わるのと同時に、階段を下りる音がして子どもたちの間にさっと緊張が走る。ダイニングルームの入り口に現れた梨沙子は、確かに目が赤く、きれいだった長い髪の毛もぼざぼさで、幽霊のように生気がなかった。久しぶりに見る教え子たちの姿にまずは目を見開き、そしてその目がじんわりと盛り上がる。



「みんな、ありがとう、本当に」

「先生……」



 傑の唇が何かを言おうとして、固まった。一度堰を切ってしまった梨沙子の涙は止まらず、素顔の血色の悪い頬を濡らしていく。



「みんな、ごめんね。あの時、怖かったわよね。先生のせいで、あんな思いさせて」

「こら、あなた、教え子の前で涙なんて」

「いいんです、お母さん」



 なごみが梨沙子の母親を遮ると、老いた母親は心からびっくりした顔をした。



「この人はまだ、本当の先生じゃないから」



 続きを言って、なごみはハッとする。このままではまた怪しまれてしまう。もっと子どもっぽい、シンプルな言葉で言わないと。梨沙子の母はまだ驚き顔のままだ。



「本当の先生じゃないけれど、きっと最初から本当の先生なんて、いないと思う」

「……」


「梨沙子先生は、これからゆっくり本当の先生になっていくはずだから。だから、わたし……」



 そっと梨沙子に近づいた。ぼろぼろ泣いている梨沙子が、そっと両手の間から顔を見せた。長い睫毛に涙の粒がくっついていた。



「だからわたし、梨沙子先生が本当の先生になっていくの、見ていたいんです」

「なごみちゃん」

「梨沙子先生の、側で」



 梨沙子がなごみを抱き締めた。遠慮のない嗚咽が、か細くダイニングルームに響き渡った。


 なごみは梨沙子の華奢な腕の温もりを味わいながら、胸に熱く迫るものに突き動かされて、少しだけ目を潤ませた。


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