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第七章 ビールとタルト(2)

なごみが危惧していたことはすぐに起こった。翌日から早速、梨沙子は教室に姿を見せなくなったのだ。


なごみたちのクラスの授業は、他の先生たちがかわりばんこに受け持つことになった。四十五分ごとに入れ替わり立ち代る教師たちに、子どもたちは纏わりついて同じ質問を浴びせた。



「梨沙子先生はどうしたんですか?梨沙子先生はいつ戻ってくるんですか?」



 質問に的確に答えられた教師はいなかった。ただやたら優しい、そしてなごみにはわかる大人の複雑な感情が混ざった笑みで、「そのうちに」とか「まだわからない」とかいう言葉で曖昧に濁すだけだった。


当然、子どもたちは納得しない。だから次に教室にやって来る教師にも同じ質問が繰り返される。エンドレスでそれが続く。



 なごみの頭は自然と梨沙子のことでいっぱいになった。七歳児の脳味噌は、いろいろなことを同時に考えられるようにはできていないらしい。


学校にいる時だけでなく、家で料理や洗濯をしたり、スーパーへ買い物に行く時も、何かのきっかけで梨沙子の顔が浮かんでくる。


天使のように白くて優しい、子どもたちを和ます梨沙子の笑顔。失って初めて、梨沙子が小学生の自分にとってどれほど大きい存在かを知った。



 一方の寿も、寿の悩みに煩わされていた。なごみの脳味噌が梨沙子のことでいっぱいなように、寿の脳味噌も拓朗のことでいっぱいだった。


未だに「若者」を卒業できない三十前の男の脳味噌も、いろいろなことを同時に考えられるようになっていないのだ。おかげで二人は一緒にいてもぼんやりとして、会話も途切れがちな日々が続いた。この間の夜中に寿が飛び出していった日から、気まずくなってしまったこともある。



 寿は会社が終わってもまっすぐ帰宅しないことが多くなっていた。家に帰ってからの夕食後のぼんやりしたひと時、ふいに拓朗のことが浮かんでくる。その時に目の前になごみにいてほしくない。再びなごみに当たってしまうことだけは、避けたかった。


よってある時は後輩と、ある時は一人で居酒屋で時間を潰し、時にはバッティングセンターやゲームセンターに駆け込むこともあった。



 その日も一時間残業した帰り道、寿はあたかも家に帰りたがらない不良少年のごとく、繁華街を彷徨さまよっていた。なごみと二人きりになるのも嫌だが、一人でいるのも同じくらい辛い。側に誰もいないと、ついつい暗い考えが浮かんできてしまう。



 かといって三十を目の前にした男には、こんな時に急に付き合ってくれる友だちもいないに等しかった。ラインの画面を虚しくスクロールする自分が切ない。学生時代の友人やバンド仲間もそれぞれ就職してからは疎遠になっているし、まだ付き合いのある連中も結婚している人が多い。三十とは、本来そういう年齢なのだ。



「あぁ、クッソー。役に立たねぇなぁこのスマホ」



 いや、もちろん友だちがいないのはスマホのせいではないのだが、悪態のひとつでもつかなければやってられなかった。乱暴にスマホをスーツのポケットに押し込んだ時、すれ違い様の女性にぶつかった。夜の繁華街なので人は多いが、ぶつかるほどではない。自分も相手も、よほどぼんやりとしていたのだろう。あっ、と甲高い悲鳴が上がる。慌てて振り返り、頭を下げた。



「すいません」

「すいません……あ」

「あ」



 どうして、悲鳴と「すいません」に聞き覚えがあることに気付かなかったのだろう?



 振り返って不思議そうに寿を見ているのは、あの内原梨沙子だった。たった二回の対面でも梨沙子はちゃんと寿の顔を覚えていたらしく、嬉しそうに口元がほころぶ。



「奇遇ですね」

「いや、本当に。あ、うちの娘がいつも、お世話になっています」

「いえ、こちらこそ……」



 答える梨沙子の表情に影が差し、寿はなごみがこの間ぽつんと口にしたことを思い出した。いくら最近口数が少ないといっても、本当に大事なことはなごみはちゃんと寿に報告する。そして寿も気になる美女の危機となれば、覚え過ぎるぐらい覚えていた。



「大丈夫でした? なごみから聞いてます、なんかいろいろ、大変みたいで」

「えぇ、まぁ……お気遣いありがとうございます」



 苦笑する目には、元気がない。よく見れば服装も、この間の家庭訪問の時とは違う。ぴったりしたジーンズに、胸にロゴが入った白いTシャツというラフな格好、ビーズと鳥の羽がついたボヘミアン風のハンドバッグを提げている。髪の毛も今日はポニーテールに結んでいた。


第一印象はいいところのお嬢さんという雰囲気だったが、今日はもっと快活で、元気の良さそうな若い女の子というムードを演出している。そのギャップがまた、寿の男心をくすぐった。



「いつも来るんですか? こういうところ」

「いえ、いつもってわけじゃないんですけど、今日はたまたま……実家暮らしだから、一人になりたい時は、こうして出てくるしかないんです」


「そうなんですか」

「はい。あの、よかったらちょっと飲みませんか、今から」



 寿は面食らっていた。こんなにも都合よく事が運ぶなんてことが、果たしてあっていいものだろうか。慌ててあ、と口に手を当てたのは梨沙子だ。



「ダメですよね、やっぱりこんなの。生徒の親と、だなんて。本当、わたしったら」

「じゃあ今夜は、生徒の親と教師じゃなくて、普通の男と女ってことで」



 梨沙子が邪気のない笑みで嬉しそうにはい、と首を振ったので、寿はまたまた面食らった。何も気付いていないのか、気付いてわざと無視しているのかわからない。



 二人が選んだのは居酒屋とバーの中間のような、落ち着いた照明がほのかに照らす空間にジャズが流れている、大人びた雰囲気の店だった。


客も大声でしゃべる中年男やコンパに騒ぐ学生がおらず、大人のカップルやなごみを思わせるキャリアウーマンタイプの女性の二人連れが多い。


ボックス席に向かい合って座り、中ジョッキを一杯ずつ注文した。乾杯するなり、目の前でごくごく豪快にビールを流し込む梨沙子に、寿はやや驚いた。梨沙子はほぼ一気に飲み干し、ふはぁ、と気持ち良さそうに息を吐いてジョッキを下ろすと、寿を見てニコッとする。既に目がうっすら赤い。



「やっぱいいですねー久しぶりのビールは! 生き返るぅ」

「あ、あの、大丈夫ですか。ちゃんと加減しないと」

「平気平気。わたしこう見えてもお酒、強いほうなんで。ていうか、飲まなきゃやってられないですよぉ」



 ウェイターに新しい中ジョッキを注文し、これもバキュームカーの勢いで飲み干した。寿の心中は複雑だった。今夜の梨沙子の明るさは、妙だ。元気には元気だが、どこか危なっかしく、身体の小さくなったなごみが食料品のぎっしり詰まったスーパーの袋を提げて歩くみたいに、見ていてハラハラさせられるものがある。



「……何かいろいろ、大変みたいですね」



 できるだけ自然に聞こえるように、話題を振った。言ってちらりと目を上げると、梨沙子はジョッキ片手にこくりと首を縦に振った。既に今夜三杯目のビールだった。



「わたしもともと臨時採用で、なごみちゃんが来るまでクラスもうまくまとまってなかったから、こういうことが起こると本当にきつくて……謹慎中なんです、今」

「そうですか……」

「たぶんもう学校には戻れないと思うし。それか自分から辞めちゃおうかな、教師」



 アルコールのせいで充血していた目が、わずかに潤んだ。続きの言葉を言おうとしてやめたように、ふっくらした唇がゆっくりすぼまった。寿は俯いて、言った。



「……内原さんは、なんで教師になったんですか?」

「……え」

「俺にはよくわかんないけど、教師ってなるの、大変そうだし。なりたいって強い気持ちがないと、なれる職業じゃないですよね?」



 梨沙子の視線がふっと遠ざかり、右手がジョッキを何度か軽く回した。黄金色の液体の表面がぷかぷかと浅く波打った。



「わたし、こう見えても荒れてたんです。中学と、高校の頃」

「……全然、見えないですね」

「結構、すごかったですよ。万引き、恐喝、他校の生徒との喧嘩。悪いことはひと通りやりましたから」



 暗いはずの過去をあっさりと言い放つところを見ると、梨沙子はもうちゃんと乗り越えたのだろう。いつまでも破れた夢の欠片が心に刺さったまま、本気で「今」に向き合えない寿とは違う。



「でもその時、すごく支えてくれる先生がいて……高校の時でした。停年間近のおじいちゃん先生だったけど決して怒鳴ったり、説教したりとかしなくて、ひたすら話を聞いてくれて……そのうちに、わたしも先生に恥ずかしくない生き方がしたいって、自然と思えるようになって」


「……」


「その人みたいになりたいって思ったのが、きっかけでした。だからわたし、子どもの心にきちんと向き合える教師になるのが夢なんです。上から目線でも、下からこびへつらうわけでもなく、いつでも同じ目線で……て、臨時採用がこんなこと言っても仕方ないんですけど」


「素晴らしい夢じゃないですか」



 梨沙子がふっと笑った。寿は梨沙子という女がよくわからない。最初に会った時のいいところのお嬢さん風の梨沙子、十代の頃の「荒れていた」梨沙子、そして今目の前にいる梨沙子。きっとみんな本当の梨沙子で、本当の梨沙子でないのだろう。


 しかし抱いた夢は、本物だ。



「内原さんは、まだ夢に手が届くところにいる。俺と違って」

「……」

「諦めたら、そこで終わりですよ。可能性があるうちは、頑張らなきゃ」

「……そうですね」



 大きな二重の瞳は赤らんでいるが、酔いは醒めているように見えた。二人とも下を向いていた。音楽と店員の立ち働く音と、両隣のボックスの話し声、グラスの触れ合う音などが、交じりあって心地よく耳に流れ込んでくる。



「堀切さんの夢は、何ですか?」

「今は……わからなくなりました」



 寿は何かを誤魔化すようにジョッキを持ち上げた。


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