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第七章 ビールとタルト(1)

雷が病院で無事に命を取り留めたと聞いて、クラスじゅうが安堵に包まれた。大人っぽくため息を漏らす子もいた。


女の子の中の何人かは目を潤ませていた。目の前で人が一人死ぬかもしれない。それもただの人ではなく、同じ教室で勉強して遊んでいた仲間が。


おそらく数年間の人生の中で一番の恐怖に心臓を掴まれていた子どもたちは、ようやく悪夢から解放された。



 隣のクラスの男の先生は自習をしているようにと告げ、教室を出て行った。他の子どもたちの中にはすっかり安心して子どもらしい心持ちを取り戻し、教師のいない教室ではしゃぎ始めているのもいるが、彼らより二十歳も年上のなごみには、職員室のほうから不穏な空気が漂ってくるのがわかる。


コの字型に作られた校舎は、ちょうどなごみたちの教室の向かい側に職員室が位置していた。廊下と反対側の壁は全面ガラス張りなので、中の様子がよく見える。中を慌しく行き来している大人たちの動きが、なごみの目にはっきりと映っていた。



 なごみは立ち上がった。自習中とはいえなごみが授業の間に立ち歩くことなんて今までになかったので、隣の千瀬が軽く目を見開く。なごみはまっすぐ嵐の机へと向かい、腕を組んで不貞腐れていた嵐が顔を上げる。尖った目がなごみを見る。



「……なんだよ」

「雷くんと、雷くんのお母さんに謝って。嵐くんが雷くんをふざけてプールに沈めて、ああなったんでしょう?」



 その話の情報源はあの時嵐たちの近くにいた男の子のグループだったが、あっという間にクラス全体に広まっていた。聞けば嵐と大風がふざけて雷をプールの水面に押し込み、頭や背中に伸し掛かっていたという。別にいじめではなかった。ただ、ふざけているだけだった。


いつも嵐たちが教室でやっていることの延長線上でしかない。しかしそのちょっとした悪ふざけが、今回の結果に繋がってしまったのだ。


 嵐はなごみの言葉を否定しない。



「どうしてだよ」


「嵐くん、今の状況わかってる!? わたしはね、梨沙子先生を守りたいの。このままじゃ、梨沙子先生が先生をやめなきゃいけなくなっちゃうんだよ! プールの時に、子どもたちの間で事故が起こったりしたら……それは学校で、一番あっちゃいけないことなの!!」



 雷がぼんやりと水面に浮かんでいたあの時のように、再び教室中が静まり返った。他の子どもたちはちゃんとわかっているのだ、なごみが普通の子どもではないことを、なごみの言葉には特別なものが含まれていることを。三十五人分の視線に曝されても、ぴくりとも動かない嵐の表情を前にしても、なごみは怖気づいたりしない。



「だから嵐くんにね、梨沙子先生は悪くない、梨沙子先生はちゃんとプールに入る前にわたしたちに注意をした、嵐くんが勝手にそれを破ったんだって、そのことを証言してほしいの! 梨沙子先生を助けるためにわたしたちにできることは、他にないの!!」


「……」


「みんなも、言ってくれる? 梨沙子先生がプールの前に、中でふざけないようにってみんなにきちんと指示をしたって」


「わたし、協力する」



 普段はみんなの後からついていくタイプで、滅多に大きな声を出さないおとなしい千瀬が、珍しくはっきりと言い放った。なごみを見る目は小学一年生なりの、固い決意が漲っている。



「僕も協力する」



 傑も言った。女の子みたいに睫毛が長く、しかし精悍な光を湛えた二重の瞳は、いつでもなごみの味方だった。千瀬と傑に肩を押されるように、教室のあちこちから同じ言葉が上がる。



「わたしも協力するね」

「わたしも」

「僕も」

「ありがとう、みんな……」



 正直に言って、勝率の低い作戦だった。真相がどうであれ、梨沙子の担当するクラスで事故が起こったという事実は変わらない。梨沙子は確実に職員室で責められるだろうし、事故を知った保護者からもクレームが来るだろう。来ないわけがない。というか来て当たり前だ。


 なごみの作戦は完全に温情作戦だった。幸い、いつの時代も大人は子どもの涙に弱い。子どもたちがそれこそ夜九時台のテレビドラマのように、一丸になって泣いて懇願すれば、たとえ処分は免れないとしても軽くはなるかもしれない。


 可能性の低い作戦でも、縋りたい気持ちだった。なごみは梨沙子と積み重ねた日々の中で、この新米教師への親しみを少しずつ育んできたのだ。本来なごみよりも年下である彼女に対し、妹のように包み込む思いがあった。



「俺は協力しねぇからな」



 嵐の声が雰囲気を一変させた。こういう時に先頭を切って反論するのは、気の強い花鈴だ。



「なんでよー、元はといえば嵐くんが悪いんでしょ。本当のことを言って何が悪いのよ。そういうの、オウジョウギワが悪いって言うんだよ」

「別にいいし、王女ギワが悪くたって」



 往生際が王女ギワになった。「王女」という単語がすらりと出てくるのはゲームの影響だろうか。いやそんなことはどうでもいい。なんとか嵐を説得しなければ。



「ねぇ嵐くん、わたしにだって嵐くんの気持ちはわかるよ? 自分のせいで友だちが死にそうになって、すっごく怖い思いをしたんだって想像つく。ただふざけてただけなのに自分が責められて、嫌な気持ちも」


「……」


「でもね、嵐くんがしたのはやっぱり悪いことだよ。いじめとかじゃなくても、ちょっとふざけてただけだとしても。だから梨沙子先生のことを差し引いても、嵐くんは雷くんと雷くんのお母さんに謝らなきゃいけないと思う。そうじゃないと」


「俺、謝る」



 嵐の隣の席の大風が肩を震わせながら言った。大きな目から、もっと大粒の涙が零れ落ちて、半ズボンの膝を濡らしている。



「俺、謝るよ……ちゃんと」

「大風くん」


「俺、雷にひどいことしちゃったから、友だちなのに。だから、謝らなきゃ……」


「俺は謝らねぇからな」



 嵐が勢いよく立ち上がった。派手な音がして、何人かの子どもたちがびくっと肩を震わせた。大柄な体を乗り出し、目の前のなごみを睨み付ける。小学一年生はまだ体格の差が激しい。二人の身長の違いは、歴然としていた。



「俺は協力しねぇ。俺は絶対謝らねぇ」

「……」

「梨沙子先生なんか、どうだっていいんだ」

「嵐くん!!」



 怒鳴るように叫んだのはなごみではなく、花鈴だった。立ち上がった嵐は足を止めず、教室の前で一度振り返る。



「保健室だよ。ちょっと気分が悪くなった」

「……」

「保健委員、ついていかなくていいのかよ」

「あ、はい」



 保健委員の千瀬がおそるおそる立ち上がる。普段から乱暴者と恐れられている嵐と一緒に歩くことになって、その細い肩は小さく震えていた。


 嵐は保健室に行ったまま、結局早退した。それが仮病なのか本当に具合が悪いのかは、誰にもわからなかった。


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