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第六章 夢とプール(3)

梅雨の晴れ間に今年初めてのプールの授業が行われた。幼稚園にもプールはあっただろうが、やはり一年生になって初めてのプールは子どもたちにとっては特別だ。


ビニールバッグに色とりどりの水着を詰め込んで登校してきた子どもたちは朝から浮き足だっていて、教室の空気が炭酸水を混ぜたようにぱちぱちはじけていた。



「みんな、よく聞いてー。プールは正しく遊べば楽しいけれど、一歩間違えると命に関わります! 絶対に人の足を引っ張ったり、溺れる真似をしたり、ふざけないこと。わかりましたかー?」



 はぁい、と良い子の返事が返ってくるが、その一方で嵐たちは相変わらずだ。子どもたちの人垣の後ろのほうで嵐と雷が小突き合っているのを、梨沙子は見逃さない。



「嵐くん、雷くん! 今のちゃんと聞いてたー?」

「……聞いてたよ」


「じゃあ、先生が今何て言ったか言ってみて」

「ふざけなけりゃあいいんだろ、ふざけなきゃ。わかってるよ」



 相変わらず子どもとは思えない傲慢な態度ではあるものの、なごみの転校初日よりはましになっていた。小学一年生に「注意」されたことで、梨沙子も最近は教師らしく威厳を持って子どもたちに接している。



 説明を受け、準備体操の後はいよいよ水に浸かる。水中に足先を浸した途端、寒気が血管を通して這い上がってくるが、すぐに慣れた。消毒液の匂いがなつかしくなごみの鼻腔を貫く。


それが引き金になって、小学校の頃のプールの授業の楽しかったことを思い出した。決してなごみは泳ぎが得意なほうではなかったけれど、学校でプールに入れるというだけで、楽しいのだ。


 子どもの無邪気な気持ちが、さざ波のように優しく押し寄せてきた。



 小学一年生では、プールの授業といっても大したことはやらない。みんなでプールの縁を何周か回った後、水中で簡単なゲームをして、その後は自由時間だ。


浮き輪もビーチボールもないが、授業のかせから開放された途端、子どもたちは思い思いに遊び始める。水中で追いかけっこを始める子、びしゃびしゃ水をかけあう子、スイミングスクールに通っている子たちは本格的な競泳で対決している。



 なごみは千瀬、花鈴、萌乃のいつもの三人と遊んでいると、突然腰の辺りが引っ張り上げられる奇妙な違和感を覚えた。見れば水着のスカートが開きすぎた花びらのように派手にめくれ上がっている。



「ひ、ひぎゃあっ」



 奇妙な悲鳴を上げ、反射的に前を覆った。途端にめくれ上がったゴム素材のスカートがびん、と勢いよく音を立てて身体に張り付いた。


 振り返れば案の定、雷と大風に挟まれて嵐がニヤニヤ笑っている。



「もー何すんのよ! バカッ!」

「ただのスカートめくりじゃん。別にいいだろ下履いてるんだから。そんなに怒んなよ」

「怒るわよ! あんたがやってることはセクハラっていうの、セ・ク・ハ・ラ!!」



 唾を飛ばすなごみの後ろで千瀬たちが半ば呆れている。相手にしなければいいのに、と彼女たちは思っているのだ。もともとやや短気なところがあり、ムキになりやすいなごみは、最近ではすっかり小一の嵐と互角に口喧嘩を繰り返している。



「今のは嵐くんが悪いよ。人の嫌がることするのは、よくないと思う」



 同じスイミングスクールに通う子と競泳していた傑がいきなり二人の間に割って入ってきたので、なごみも嵐も一瞬ぽかんと口が開いてしまった。傑はクラスで一番身体の大きい乱暴者の、昔で言えばガキ大将タイプの嵐を前にして、ちっとも怯まない。



「今度やったら、梨沙子先生に言うからね?」

「ちぇっ、告げ口かよ。ズルいやつ」



 捨て台詞だった。嵐は渋い顔で雷と大風を引きつれ、早々に退散していく。思わぬ傑の活躍に、なごみの背後ではおませな千瀬たちが早速色めき立っていた。


 傑のくるくるとした目がおもむろになごみを見る。



「なごみちゃん、大丈夫だった?」

「う、うん……ありがとう」

「また何かされたら、僕に言いなよ。じゃあ」



 爽やかに小さく手を振って、まだ競泳を続けている仲間たちのところに戻っていく。完璧だ、小学一年生にして、見事なまでに完璧だ。目の前でキスされて、子ども相手にムキになっている寿よりも立派に見えた。なんてこと! 三十路前の男が小学一年生に完敗するなんて!!



「傑くん、かっこいいよねー。なんか今の、悪いモンスターから姫を助けた王子様って感じ」



 萌乃がうっとりしながら言って、なごみはぎょっとした。千瀬と花鈴はうんうん、しきりに首を縦に振っている。



「傑くんってかっこいいし、乱暴な嵐くんたちと違って、優しいもんねぇ。いいなぁなごみちゃん、うらやましいー」


「ねぇ、なごみちゃんは傑くんと付き合う気、ないの?」

「つ、付き合うって。ななな、何言ってるの」



 小学一年生の花鈴の口から「付き合う」という動詞が出てきて、ついどもるほど、動揺した。いったい、今の小学生はどうなってるのか。これは夕方のニュースのコメンテーターならずとも、令和の子どもたちの将来を悲観したくなる。



「だって、お似合いだよねぇ。千瀬ちゃんと萌乃ちゃんもいいと思うでしょう?なごみちゃんと傑くん」

「うん、いいと思う」

「ぴったりだよねぇ」

「ほら。ねぇ、なごみちゃんはどうなの?」

「どうも何も、別にそんなんじゃないってばー!!」



 動揺のあまり冷たいプールの中で顔が火照っているなごみの近くで、悲鳴が起こった。男の子の声だった。最初は大風、次に嵐。



 何を叫んでいるのかよくわからなかったし、振り向いて二人の様子をまじまじと眺めても、すぐには状況が掴めなかった。ただ、いつも教室でふざけている時とは声も顔つきも全然違っていた。


さっきまで無邪気な笑みに包まれていた幼い顔が、今は恐怖に引きつって、よく聞き取れない発音でひたすら何事かを叫び続けている。


なごみは、子どもにしては逞しい嵐の腕の中で、ぐったりと浮かんでいる雷の身体を見つけた。ついさっきまで嬌声に包まれていたプールが、文字通り水を打ったように静まり返っていた。



「雷くんっ!?」



 女の子たちの輪の中で一緒に遊んでいた梨沙子がすぐに異常を察し、重い水の塊をかき分けて嵐たちに歩み寄ってくる。その間の、なんと長かったこと。


 抱き上げた梨沙子の腕の間で、雷は目を閉じていた。いつも子どもらしい林檎色をしていた頬が今は青ざめ、唇も色を失っている。


 女の子のうちの誰かがひっと短い悲鳴を上げた。


 梨沙子は唇の端をわななかせながらも、鋭く冷静に言い放った。



「誰か他の先生を呼んできて、今すぐに、早く!!」


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