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第六章 夢とプール(2)

 態度こそひどいものだが、寿だってさよりにああまで言われて何も考えなかったわけではない。その日の帰り道、さすがの寿も今日のさよりの叱責を思い出し、憂鬱になっていた。



 本当に、自分は何のためにあの会社に入ったんだろう。ちっとも面白くない、興味ひとつ持てない仕事。辛いだけの仕事。食べていくためだけの仕事。いっそやめて、その日暮らしで楽しく生きてみてもいいかもしれない……



 例によって悲しいほど甘い考えで心を満たしながら、寿は傘を差しつつ帰路についていた。それほど強くはないが鬱陶しい小糠雨こぬかあめがひっきりなしに落ちていて、オフィス街の歩道は傘でひしめき合っている。


ビニール傘が人に当たらないように気をつけながら歩いていると、頭上からどしーん、と爆音にも近い大音量が雨を突き破って降ってきて、思わずビルを見上げていた。ちょうど電機屋の外壁に設置された大型ビジョンの前を通りがかった時だった。



『今週のオリコン八位は、初登場のTAKURO。苦節十四年、三十二歳にしてメジャーデビューした彼のデビュー曲は、心を潤おす応援ソングです!!』



 何の変哲もない画一的なナレーションをバッグに、曲がかかる。聞き覚えのある歌声に寿は立ち止まる。人々は寿の横を邪魔そうに通り過ぎていく。寿は画面に釘付けだった。


そのプロモーションビデオは廃墟を思わせるコンクリート打ちっぱなしの建物の中で撮られていて、中央に粗末な椅子が一脚佇んでいる。金髪の青年はその椅子に腰掛けて歌っていた。



 諦めた途端/全てが終わる/だから踏ん張ろう/もう一度やってみよう/終わりなんてまだ見えない……



 記憶とぴったり一致した。歌声もその歌詞も、金髪の男の面立ちも。



 歌う男は寿がかつてバンドを組んでいたメンバーの拓朗だった。歌も聴いた覚えがある。彼が作ったもので、他のメンバー全員で今どきこんなクサい曲は売れないと、さんざんこき下ろして結局ライブでは一度も使わなかったのだ。




「へーすごい、期待の大型新人だって! 女子高生に人気らしいよぉ」



 「TAKURO」で検索すると、すぐにかつてのバンド仲間の顔が出てきた。唖然とする寿の隣で、なごみははしゃぎながら画面に見入る。


寿の恋人であり、寿のバンドのファンでもあったなごみは、拓朗のことを今でもよく覚えていた。普通の小学一年生には決して見られない、昔を懐かしむ表情がその幼い顔に浮かぶ。



「拓朗さんって、寿たちがバンド諦めて解散した後も、俺は一人でも頑張るって音楽の道を歩み続けた人だよね。その夢がやっと叶ったんだ、すごいなぁ」

「……」


「こういうことって、あるんだねー。あっ、もうこんなにファンがついてる! ねぇすごいよ。聞いてるの寿?」

「……あぁ」



 寿はなごみのように、他人の幸福を素直に喜べなかった。



 寿より二歳年上の拓朗はものすごく才能に恵まれているわけじゃなかったし、容姿も至って平凡だ。そりゃメジャーデビューするくらいなのでステージに立てないほどのブサイクというわけではないが、どこにでもいるごく普通の顔だし、どこにでもいるごく普通の人である。つまり、寿とまったく変わらない。


 しかし寿は夢を諦め、拓朗は夢を掴んだ。その違いがどこにあるのだろう。



 音楽の夢を携え、大学進学を表向きの理由に田舎から上京したのは、十九歳になる年だった。親との約束通りつまらない大学の授業をちゃんとこなしながら、音楽に打ち込んだ。


今の寿からは想像もできないほど頑張ったし、いずれはプロになりたいと本気で思っていた。その気持ちは同じく夢を追いかけるなごみに出会うことで、一層強いものになった。



 音楽漬けの日々が六年続いた。しかし結局一度も芽は出なかった。オーディションを受けてもレコード会社に持ち込んでも、大体いつも同じことを言われる。


「君たちぐらい上手いのは今はどこにでもいる」「何かが足りないんだよなぁ」「華がない」「印象に残らない」……


年を重ねるごとに、寿にも焦りが出てきた。周りの友だちが大学を卒業し就職し、中には結婚までする者も出てきた、二十五の歳。


寿はもうやめないかと仲間たちに言った。他のメンバーも同じことを考えていたのだろう。拓朗以外の二人は同意した。



 いつまでも就職せずにフラフラしていることを田舎の母親に責められるのが嫌だった。夢を叶えられない自分が、夢を叶えたなごみの姿を傍で見ているのが辛かった。先の見えない不安だらけの人生が重くて仕方なかった……


理由としては、十分だった。寿は友だちのつてで今の会社に入った。コピー機や文房具やシュレッターやら、そういったものを都内のオフィスに届ける、特に面白くも楽しくもない「ただの」仕事。しかし、ひとまず寿の人生はこれで安定した。大きな代償を払って。



 多くの人間と同じように、寿も夢を捨てることでようやく大人の仲間入りを果たしたと思っていた。でもそうではなかった。


就職はしたものの、安定した人生を手に入れたものの、他ならぬ寿自身がどこかでそのことに納得できていなかったからだ。「ただの」仕事は当然つまらない。


どこにも魅力を感じないし、打ち込めない。世の中の仕事の大半なんてそんなものだと自分に言い聞かせても、一方でお前はそういうつまらない人生を送りたくなくて音楽の道を志したんじゃないかと、もう一人の寿が囁きかける。


周りの友だちや自分の親や、世間一般の何の変哲もない普通の生活に甘んじたくなかった。その気になれば、自分にだってもっと大きなことができると思っていた。



 そう考えてギターを片手に東京にやってきた十九歳の寿は、確かに青かったかもしれない。青いが、幸せだった。何も考えず、余計なことに惑わされず、真っ直ぐに夢を追いかける、そのことが許されていた若く輝かしい時代。二度と戻らない、寿の青春。



「俺、ちょっと外行ってくる」



 パソコンの前から腰を上げた寿の前で、なごみが目を見開く。寿の全身から出ている不穏な感情の波を、長年の付き合いで育んだ勘で察知したらしい。



「何? 散歩? じゃあ、わたしも一緒に行く」

「いや、いい。一人になりたいんだ」


「ねぇ、どうかしたの寿?何か悩んででもいるなら、聞かせて」

「なぁごには話せないよ」



 はっきりとした拒絶が、七歳の少女の顔を凍りつかせる。なごみにそんな表情をさせたことを後悔しつつ、後戻りはできない。



「子どもに大人の悩みはわかんねぇだろ」



 それが捨て台詞だった。背を向けた寿に、なごみは何も言わなかった。背中を刺す切ない視線が、アパートの鉄製のドアにバタンと遮断された。


 寿はなごみが羨ましかった。子どもに戻ったことを喜び、「ワクワクする」と嬉しそうに言ったなごみの気持ちも、正直わかる。子どもに戻れたら。夏休みのある時代に帰れたら。大抵の大人なら、一度はそんな願いを持つことだろう。


 なごみはいつも、寿には叶えられなかったものを一人で手にしてしまう。夢も、願いも。


 どこに行くあてもなくアパートの周りをぐるぐる歩きながら、煙草を二本吸った。大人の苦い味が、舌に染みた。


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