目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第六章 夢とプール(1)

 ものすごかった。


 食べ散らかされたテーブルの上にはゴミが散乱し、人生ゲームもトランプも遊んだ時のまま、出しっぱなし。その上嵐たちが暴れたせいで、いろいろなものが畳の上に落ちたり、散らばったりしていて、八畳間は見事な無秩序状態だった。なごみが肩で息をつく。



「あーあ、あの子たちってば、すっかり部屋、めちゃくちゃにしてったね。これ片付けるだけでひと苦労だよー」


「明日は筋肉痛決定だな、イテテ……それよりなぁご、随分あの中に馴染んでるじゃん」


「馴染んでるっていうか、普通かなぁ」



 寿の不安を含んだ視線には気付かず、なごみはまずはテーブルの上からてきぱきと片付け始めた。


 寿の目から見たなごみは、このところ急速な変化を遂げていた。外見ではなく、中身のほうだ。「このまま仕事をやめたくない、キャリアを捨てたくない」と泣き顔だったなごみが、今は自分に起こった事態を受け入れ、割り切って、自ら進んで子どもの世界に留まろうと、寿にはそう思えてならない。


 代償として、今まで津幡なごみとして築いてきたものを全部捨てて。



「大体なんだよ、キスって。ったく、今時の小学生は」

「キスつってもほっぺただし、小学一年生だよ? 遊びみたいなものじゃない」


「相手は真剣だったかもしれないじゃないか」

「そんなわけないでしょう。真剣だったとしたって、小学一年生の真剣だよ」


「なぁご」

「うん?」



 突然抱き寄せられたので、ぽかんとしてしまった。ただのハグ。しかし子どもになってからは、いや大人だった頃も、あまりなかったことだった。もう付き合い初めとは違う。今さら恋人らしい甘いムードを喚起させる行動なんて、恥ずかしいだけ。互いにそう思っていた。


 久しぶりになごみを包む寿の腕は大きくて温かくて、切ない熱がしんしんと肌に染みた。



「行くなよ。どこにも行くな」

「寿……?」

「小さくなったって、なぁごは俺のだ。他の誰にも渡さない」



 何も言えなかった。何を言ってるのと笑い飛ばす空気ではなかったし、かといって真面目な言葉にどう真面目に返したらいいのか、わからない。寿の腕に力がこもる。



「何度でも言うよ、なぁごは俺のだ。だから絶対、俺が元に戻してやる。絶対にな」






 そう言ってはみたものの、元に戻す方法が寿にわかるわけがない。


 最近は仕事中もなごみのことばかりが気になって、同じ考えが迷路のようにぐるぐるとエンドレスで頭を巡って、仕方なかった。溢れたため息が積み重なり、思考は鈍る。そんな状態ではミスのひとつやふたつは当たり前だ。



「堀切くん、またよ、報告書のミス」

「……はい」

「はいじゃないわよ。いったい何度同じこと繰り返したら気が済むの!!」



 パシン、と書類の束で机の表面を思い切り叩くので、派手な音が鳴った。一瞬オフィスにいた全員が背中をびくんと震わせた。寿だけが、ぼんやりそこに立ち続けていた。こんな時でも、頭の中からはなごみが離れない。



「ねぇ、何度も同じこと言わせないでくれない!? 注意ひとつしたら防げることを、なんで注意しないの!? ねえ!?」


「……すいません」


「すいませんじゃないのよ!! 別にわたしはあなたに謝ってほしいわけじゃないの!!……まったくもう。堀切くん、今年いくつ?」


「十月で、三十になります」



 はあぁ、とさよりがこれ見よがしに息をついた。



「結婚はしてなかったわよね?」

「はい」

「彼女はいるの?」


「まぁ……一応」

「今のままじゃ、すぐに彼女に捨てられるわよ」

「……はぁ」



 薄ぼんやりとしたとらえどころのない態度が、さよりのイライラに拍車をかける。もう止められなかった。



「はっきり言って、堀切くんには仕事に対する熱意ってものが一切感じられない! 適当にやって、適当に手を抜いて、お給料さえもらえればいいって思ってるんでしょう!? それがダメだって言ってるの!! そんな考え方だから、こんなくだらないミスばかり繰り返すの!!」


「……」


「堀切くんはたしか中途採用だったわよね。何でこの会社を選んだの?」


「……よく、わかりません」



 さよりはもう何も言わなかった。ただ下を向き、諦めたように力なく手を振った。



「ごめん、これ以上あなたと話していたくない。もう下がって頂戴」

「失礼します」



 寿は結局最後まで、陽炎かげろうのように薄ぼんやりとしたままだった。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?