今澤が帰った後の二人きりの部屋は奇妙な雰囲気に支配されていた。晴れた日曜日とあってレースのカーテンを揺らす風は爽やかだが、二人の間には嵐の前のような張り詰めた空気が漂っている。
「あいつ、何なわけ?」
寿から口を切った。いつになく語気が強かった。煙草を片手にした寿は座布団にぺたっと尻をのせ、なごみはベッドの端に腰掛けている。八年付き合った恋人同士にしては、よそよそしい距離だ。
「本当になぁごの会社の人なのかよ」
「本当だよ。名刺もらったでしょ?」
「結婚してるの? 指輪してなかったけど」
「若い時結婚したけど、今は別れてバツイチなんだって。離れて暮らしてる子どもがいて、飲み会で写真、見せてもらったことある」
「バツイチの子持ちかよ。やめとけってそんなの」
「やめとけも何も。寿、あんた何邪推してるの? 今澤さんは本当にただの上司だよ」
なごみの声は真実から出ていたが、寿の疑いは消えない。本当のことを言ってはいるものの、目が寿を見ようとしないから。
ひょっとしたら、事実としてはまだ何も起こっていなくても、二人の間には既に特別な感情がほのかに通い合っているのかもしれない。
とはいえ、今この場で問い詰めても仕方なさそうだ。話題を変える。
「どうすんだよ、これから。あの人、たぶんまた来るぞ」
「本当にまずいよね、このままじゃ。わたしだって、せっかく積み上げたキャリアをこんなことで投げ出したくないよ。六年間、あの人の下でずっと頑張ってきたんだもん。それが、こんなわけのわからないことで、おじゃんだなんて……」
世間では割とよくあることなのかもしれない。いや、怪しい占い師に魔法をかけられて子どもに戻ってしまうことはそうそうないだろうが、例えば突然の病気とか、事故とか、普通の人生に起こりえる不測の事態はいくらでもある。それによって大切な仕事を奪われてしまった人は、きっとなごみだけではない。
もちろん、「よくあること」で割り切れるほどなごみの仕事への思いは薄っぺらくない。確かにCGクリエイターは一般に思われているほど華やかな仕事ではないし、当然しんどいことも数ある。
それでもこの仕事はなごみが長野の田舎娘だった頃からの夢で、その夢を叶えたという自信がなごみにはある。仕事と自信と生きがいとは、三つでセットだった。
そんな彼女の心中を察することのない寿の一言は、なごみを少しいらつかせた。
「戻りたいのは、そういうこと? 仕事のことだけ?」
「どういう意味よ?」
「そんな怖い顔すんなって。だってさ、今のまんまじゃ仕事とか以前に、何もできないじゃん」
「キスとかセックスのことを言ってるの?」
「その姿でそういう単語を、あっさり言い放つな」
寿が少し赤くなった。
「まぁ、それも理由のひとつだけどさ。そうじゃなくて、その」
「その、何?」
「例えば、結婚とかさ」
「寿……」
言うだけ言っておいて、不貞腐れたようにそっぽを向く。
なごみは意外だった。寿は自分との結婚なんて、ちっとも考えてくれていないと思っていたのだ。六歳の平たい胸に、二十六歳の女のとろけそうに甘やかな感情が湧き上がってきた。案外と、願いを叶えるパンドラの箱の話は本当だったのかもしれない。
「とにかく、探してみない? あの怪しい占い師」
寿がやっとまともになごみを見て、こっくりと頷いた。