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第四章 新米先生とイケメン社長(3)

なごみに比べれば寿はかなりのん気だった。大概のことには慣れてしまう、順応性の高いこの男は、彼女が魔法をかけられて子どもの姿になるという異常事態にも、数日で慣れてしまったらしい。



 セックスができないのは困るが、なごみが小さくなってしまったことをあまり深刻には捉えていなかった。いきなりこんなことになってしまったんだから、またいきなり元に戻るかもしれない。いやきっとそうだ。持ち前の甘い思考からそう考えていた。



 そんな寿と梨沙子が二度目の対面を果たしたのは、アパートの階段の前だった。フレアースカートから出た脚を行儀よく斜めに揃えて階段に腰掛けていた梨沙子は、寿を見るなり慌てて立ち上がって、挨拶する。



「こんばんは、堀切さん。すみません、連絡もなしにいきなり押しかけてきてしまって」


「い、いや……別にそれはいいんですけれど。何の用ですか?」


「転校直後ということで、家庭訪問に参りました。ここで結構ですので、しばしお時間頂けますか?」


「こ、ここで結構って。そんなの、俺が結構じゃないですよー」



 梨沙子を部屋に入れると、殺風景なワンルームに百合の鉢植えでもやってきたような気がした。テーブルを間に向かい合うと、香水なのかシャンプーなのか、目の前から何とも言えない甘い匂いが漂ってくる。なごみも香水はつけていたが、それとは違う。



 なごみと付き合ってきたこの八年間、寿は一度も浮気をしていない。それは寿が真面目で誠実な男だったわけではなく、単に面倒臭かっただけだ。


しかしなごみ一人で男の部分を全て満足させられていたかというと、違うかもしれない。


自分が本来好きなのはなごみのような姉御肌ではく、目の前の梨沙子みたいな守ってあげたくなるお嬢さんタイプの女性なのだと、なごみが聞いたら大喧嘩に発展しそうなことを考えていた。



「あの、なごみちゃんは……?」


「あぁ。たぶん、夕飯の買い物に行ったんだと思います」


「おうちのお手伝いですか、えらいんですね。あの、もしかしてお料理もなごみちゃんが?」


「はい、いつも作ってくれてますけど」


「まぁすごい。わたしの六歳の頃とは、すごい違いです」



 感心した梨沙子の表情にまずいな、と思い、急いで話題を変える。



「ところでうちのなぁご……いやなごみ、何をやらかしたんですか?」


「はい?」


「いや、やっぱりいきなりの家庭訪問っていったら、それしかないでしょう。誰かを泣かせたとか、暴力振るったとか、いじめに加わったとか……」


「なごみちゃんはそんなことしません!!」



 それはむしろ教師ではなく保護者である寿の言うことだろう、という台詞を、梨沙子がムキになって言い放った。虚を突かれて黙り込んだ寿に梨沙子は冷静になり、すいませんと一言謝ってから続ける。



「なごみちゃんは、とても素晴らしい生徒です。わたしの代わりにクラスをまとめてくれて……」


「そ、そうだったんですか」


「ええ。わたし、なごみちゃんに怒られちゃいました。もっとしっかりしてって。でもなごみちゃんの言う通りなんです、わたしは教師失格」


「教師失格って。あいつ、そんなこと言ったんですか!?」


「いや、それは言われてないんですけれど」



 梨沙子と話しながら、寿にも事態のあらましが大方掴めてきた。なごみはやはり、転校初日から「やらかした」らしい。何しろ二十六歳の心で、六歳の子どもたちの中に入っていくのだ。本当ならこういう事態も覚悟していなければならなかったのだが。



「わたし、臨時採用の教員なんです。前に担当されていた先生が産休になって……つまり、正式採用じゃないんです。


去年担当していた二年生のクラスはみんないい子で問題なかったんですが、今年は……すっかり学級崩壊状態で、ちっともクラスをまとめていけなくて。


お陰で職員室での肩身も狭いし……て、すみません。親御さんにこんなこと話してはいけませんよね」



「あ、いや、そんな。俺でよかったら、いつでも相談乗るんで」



 取ってつけたような寿の笑顔に、梨沙子は心から安心したような、ふんわりした優しい微笑みを返してくれた。

「ときめき」という名の忘れかけていた感情が、急に寿の心に蘇ってきた……



「あの、奥様はまだ、お仕事ですか?」


「え、あ、えっと。なごみの母親とは、その……離婚、してるんです」



 すっかりなごみが自分の「娘」であることを忘れていた。「娘」がいる以上、その質問に対する答えは用意しておくべきだった。しかし梨沙子は寿のぎこちない返答を怪しまない。



「まぁ、そうだったんですか。すみません、わたしったら変なことお聞きしてしまって」

「あ、いえ」


「お母様がいないから、しっかりしてるのかしら。あの、おうちでは普段どんな教育を?わたし、今日はそれを伺いに来たんです。どうやったら、あんな素晴らしいお子さんが育つのかって」


「いや、そんな、別に特別なことは何もしてませんけれど……」



 何を聞かれても、返答に困る。男としてはなるべく長くこの状況が続いてほしいが、堀切なごみの保護者としては早く梨沙子に帰ってほしい。寿が本能と理性の板ばさみになっているところに、なごみが帰ってきた。両手に食料品が詰め込まれたビニール袋を重そうに提げている。



「あれ、梨沙子先生! どうしてこんなところに……」

「うん、ちょっと家庭訪問。なごみちゃんがいい子だねって話してたの」

「え、いや、いい子だなんて。そんな、わたし……」



 どうやらなごみも、梨沙子への対応には困っているらしい。六歳の少女の演技がすんなりできるようになるのは、もう少し先のことのようだ。


 なごみは一緒に夕食を食べていくことを勧めたが、梨沙子は丁寧に断った。なごみたちは彼女をアパートの階段の下まで送っていった。遠去かっていく華奢な背中を、揺れるフレアースカートとその裾から覗くすらっとした脚を、寿は眩しそうに眺めていた。


 路地の向こうの暗闇に可憐な後姿が消えてしまった後、アパートの狭い階段を上りながら寿が言った。



「お前、学校であんま目立つことすんなよ。今のなぁごはあくまで小学生なんだから」


「わかってる、明日からはもっとうまくやるって。それより寿こそ、梨沙子先生にすっかりデレデレしちゃって」


「デレデレなんかしてねーよ!」



 動揺が声を大きくする。なんせ八年も付き合っている仲だ。寿の心中はいつもなごみにはお見通しである。寿がわかりやすい性格だということもあるけど。



「梨沙子先生若いし、優しいもんね」

「だから、ちが……」

「どうせ今のわたしには、女を感じないんでしょ」


 冗談ぽく言ったつもりだが、寿がへの字口のまま黙り込んだので、数秒、妙な空気がなごみと階段の三段下で立ち止まった寿とを繋いだ。なごみはついと寿に背を向け、残りの階段を音を立てて駆け上がった。


 身のこなしの軽さは、六歳そのものだった。


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