黒板の前のなごみに三十六人分、七十二個の瞳が集中する。度胸は一人前の立派な大人であるなごみも、さすがに緊張した。
今この空間を支配しているのは自分だという気がした。自分の一言が、自分の一挙一動が、この場の全てを担っていると思った。
「堀切なごみちゃん、自己紹介をお願いね」
年下に気遣われて、失敗するわけにいかない。それに後ろには寿もいる。覚悟して大きく息を吸い込んだ。ガヤガヤとうるさかった教室の中が急に静まり返った。
「堀切なごみです、お父さんの都合で引っ越して、今日からこの学校に通うことになりました!よ ろしくお願いします!!」
一気に言って、ペコッとお辞儀する。我ながら小学校一年生にしてはよくできた挨拶だったと思う。ぱらぱらと拍手が鳴った。
「じゃ、俺はこれで……先生、後はよろしくお願いします」
「はい、大丈夫ですよ」
梨沙子が顔をとろけさせて、わざわざ仕事を抜け出しやってきた寿を廊下に送り出す。寿が少しデレデレしているのがわかって、なごみは面白くない。いつのまにああいうお嬢さん系がタイプになったんだろう。
そもそもの発端は、なごみがスーパーで職務質問されたことだった。
「君、お家のお手伝いかい? 偉いねぇ」
背伸びして棚の上のものを取ろうとしていたなごみに、制服姿の警官が声をかけた。口調は優しいが、目は笑っていない。
ずっと寿の家にいても退屈なだけなので、昼間のなごみは自然と専業主婦になってしまう。朝のうちに掃除と洗濯を済ませ、昼は買い物。
夕方のスーパーは混み合うので、買い物は明るいうちに済ませることにしていた。しかしそれが、こんな事態を招こうとは。
「学校はどうしたんだい? 今だとまだ、四時間目ぐらいの時間だよね?」
「えっと、その、今日は、風邪でお休みしてて……」
「風邪かぁ、その割には元気そうだけど。お家まで送っていくよ。お名前は?」
「え、えっと……お、おしっこぉ!!」
進んでやりたくはない芝居だけど、一番有効な手段だった。案の定警官は慌て、なごみを女子トイレに連れて行く。
奴はトイレの前から一歩も動かないので、なごみは本物の犯罪者みたいにトイレのドアから脱出し、ポリバケツの上に着地した。
家へ帰る間、心臓が駆け足をやめなかった。もしあそこで捕まっていたら、どういうことになっていただろう。
交番に連れて行かれたら。自分が津幡なごみだということがバレてしまったら。このとんでもない事態が第三者に知られることとなったら。
実験動物のように研究室に連れて行かれ、檻に閉じ込められている自分の姿が浮かんだ。
その夜、帰ってきた寿にその話をすると、寿は至って真剣に言った。そんな姿をしている以上、学校に行かないと怪しまれるんじゃないか、と。
よって津幡なごみは堀切なごみとして、寿の娘という身分で小学校の一年生に転入することになった。堀切なごみ。実はずっと、憧れていた名前だ。そんなことはもちろん寿には言えなかったが。それに「妻」ではなく「娘」だけど。
学期の途中という中途半端な時期にやってきたなごみに対し、子どもたちはそれぞれ丸い目を輝かせ、興味津々だった。
「ねぇねぇ、なごみちゃんのお父さんって、若いよねぇ」
「うちのパパよりもかっこいいー」
「なごみちゃんも可愛いよね」
「へっ、なんだよあんなの。ブッサイクじゃん」
身体も声も周りの子どもたちよりひときわ大きい男の子が、
ぱんぱん、と梨沙子が手を打った。しかし騒ぐのをやめたのはほんの一部だけで、なごみを「ブッサイク」と言い放ったあの子は、教室の真ん中でまだ大声ではしゃいでいる。
「それじゃあなごみちゃんの席は、
なごみの席は窓側の一番後ろの、たまたま開いているところになった。隣の村山千瀬というおさげ髪の子は人見知りなのか、少しはにかんでいる。
それでもなごみを見てぎこちなくニコッとして、「よろしくね」と挨拶した。さっきの悪ガキみたいな子が隣じゃなくてよかったと、なごみは心からホッとしていた。
「それじゃあ今日は、たし算をやりたいと思いまーす。みんな、教科書の二十ページを開いてー」
転校生を迎えるセレモニーがひと通り終わり、授業が始まる。しかし梨沙子がチョークを手に取り、授業を始めても一向に教室内は静かにならない。
きちんと教科書とノートを開き、梨沙子の話を聞いているのはなごみと千瀬と、他はほんの数人の女の子だけだ。「ブッサイク」の悪ガキは、隣の席や前の席の子たちとのおしゃべりをやめようとしない。
「みんな、静かにしてー。特に嵐くん」
梨沙子が名指しで注意したので、悪ガキの名前が嵐だと判明した。嵐。教室荒らし。ぴったり過ぎるネーミングだ。
嵐は先生に注意されてしょげるどころか、あまのじゃくになってますます騒ぎ立てる。完全に若い女の教師をなめていた。
ついに席を立ち、友だちと仮面ライダーごっこまで始めるので、さすがのなごみも呆れてぽかんとしてしまう。