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第三章 緊急事態と二人暮らし(1)

よく見れば、小さくなったなごみはその姿の至る所に大人のなごみの面影を残していた。

 黒目がちな二重の目に女の子らしい丸い形の鼻、笑わなくてもキュッと口角の上がった口元。成長すれば確かに、なごみの顔になるだろう。


とりあえず家に上げてコーヒーを淹れてやると、マグカップの持ち方は寿の知っている津幡なごみ、そのままだった。



「まだうまく信じられないけど、信じるしかないんだろうなぁ」


「ていうか、信じてよ。一日考えたけど結局、寿しか相談できる人いなくて……」


「そのしゃべり方、確かになぁごなんだよなぁ」



 あまりの衝撃にまだフリーズしかけている脳味噌をかき回すように、ワックスを塗った頭をもしゃもしゃとやる。なごみは子ども独特の憐れみたっぷりの眼差しで、容赦なく寿を見つめてくる。寿は決意した。



「よし、わかった。信じましょう」

「それでこそ寿だよ!」

「どういう意味だよ?」

「頭の構造が単純で、信じやすいってこと」


「……そんな姿になってもなぁごはなぁごのまんまだな」



 互いに顔を見合わせて、少し笑った。長年付き合ってきた恋人同士がかもし出す暖かい空気が、ようやく二人の間に戻ってきた。


 しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに二人ともまた真剣な目つきになる。


「ていうか、何でそんなことになっちゃったんだ?」


「えっとね、たぶん変な占い師のせいだと思う……道端でいきなり呼び止められて、願いをかけたら叶う箱っていうの渡されて。願いを叶える代わりに代償を払わなきゃいけないって言ってたから、たぶんこれがその、代償……」


 さすがの寿も絶句していた。なごみは若い女性には珍しく、占いもおまじないも超能力も、神秘的な類のものは一切信じないことを主義としているはずだったが。寿の心中を読み取ったらしく、なごみが俯いていた顔を上げてきっと寿を見る。


「バカみたいな話だけど、本当なのよ! この緊急事態でわたしが嘘つくと思う!?」


「......いや、思わない」


「わたしだって信じられないけど、信じたくないけど、本当に朝起きたらこんなになってて……それで夕べあったことも、夢じゃないの! 確かに現実にあったことなの!!」


「わ、わかったから、落ち着いて話せよ」


 少女の頭脳に戻ってしまったせいか、なごみの感情は通常よりも起伏が激しくなっているようだった。なごみも高ぶらせてしまった神経を反省するように、ふうと深呼吸をする。



「それで? その願いを叶える箱ってのは、どこにやったの?」

「あ、それは……」


「それは?」

「……捨てちゃった」

「――捨てたぁ!?」



 まさに叱られている子どものように、なごみは青ざめながら細い首を上下させた。



「何で捨てるんだよそんな大事なもの」

「だって、気味が悪かったんだもん」


「気味が悪いなら余計に捨てちゃダメじゃん! わかった、これバチだよ。大切な箱を粗末に扱ったからバチが当たって、こうなっちゃったんだって」

「そ、そうなのかなぁ……?」



 バチや天罰といったものも普段のなごみなら信じないのだが、今日のなごみはバチと聞いて、恐ろしげに手を両頬に持っていく。


子どもになったので大人が信じられないものを信じるようになったのか、それとも信じられないと思っていたことが実際に起こってしまった故の心境の変化か、あるいはその両方か。



「そういえばその箱、願いをかけたら叶うんだろ? 何てお願いしたの?」

「それは、その……寿が、しっかりしますように、って……」



 結婚のことまでは、さすがに言えなかった。しかし返ってきた寿の反応は、なごみが予想もしないほど低レベルだった。



「はぁ!? 何だよそれ。しっかりしますようにって、俺のことバカにしてるの!?」


「バカにしてるとか、そういうわけじゃないけど……」


「そういうわけじゃん。何だよ、俺そんなに頼りない!? わけのわからない箱に願いをかけられるほど、信用されてないわけ!?」



 寿は本気で怒っていた。その姿は三十を間近に控えた大人の男ではなく、反抗期の中学生を思わせた。



「なぁご、ひどいよ。俺だってそれなりにいろいろ、頑張ってるのに」


「頑張ってるって、何を?」


「それは、その……いろいろだよ」


「いろいろって?」


「あぁもう、うるさい!! なんでこんな時まで、しかもそんな姿のなぁごに説教されなきゃなんないんだよ!!」



 やっぱり、反抗期の中学生だ。不貞腐れてそっぽを向いた寿に対し、怒り返す気にもなれなくて無言のため息しか出てこなかった。



 占い師が言っていたことは本当なのだろう。夢を諦めた寿の魂はすっかり堕落し、腐敗しきっている。寿がしっかりした男に成長する日なんて本当に二度とこないし、だから大人の男に改心した寿と結婚したいというなごみの夢は、一生叶わない。



 そこで思い出したが、なごみはそんな悲惨な運命を変えるために、箱に願いをかけたのだ。こんな形で代償を支払っているとすれば、願いも叶えられるということだ。しかし自分が小さくなることと寿がしっかりすることとの間に、どんな関連性があるというのか。



 寿が口をへの字にして黙り続け、なごみが一人冷静な思考を繰り広げている間に、チャイムが鳴った。来客の存在が仲たがいしかけた二人を一瞬で運命共同体にする。



「だ、誰なの!? こんな時間に……」

「さ、さぁ、新聞の勧誘とかじゃない? 俺、ちょっと見てくる」



 寿が走り出し、少し考えた後、なごみも立ち上がった。台所に続く引き戸を10センチほどそろっと開けて、玄関で来客に応対している寿の様子を窺う。



 半分だけ開いたドアの向こうに、意外な顔が見えた。パーマがかかったセミロングの栗色の髪、いつでも楽しいことを考えていそうなたれ目気味の瞳、なごみに似た、キュッと口角の上がった唇。



「椿!?」



 思わず声に出してから、しまったと口を押さえた。案の定、寿と話していた椿の視線は、リビングからこっそり観察していたなごみへと向かう。


しかし寿でさえ最初はわからなかったのに、椿がいきなりこの少女をなごみだと認識するはずがない。



「あなた……なんでわたしの名前、知ってるの?」



 訝しげにではなく、純粋な疑問という感じで椿はきょとんとなごみを見ていた。慌てて引き戸を閉じてリビングに閉じこもってしまうのも不自然で、なごみは引き戸の端っこを握り締めたまま、黙り込んでいる。小さくなった頭脳をフル稼働させながら。



「それは……その、ええとー……」

「にしても久しぶりだねぇ、椿ちゃん!!」



 寿の大声に、椿の視線が再度なごみから寿に移った。不自然な態度で話題を逸らしたのがバレバレだが、まぁこの際仕方ない。



「最後に椿ちゃんに会ったのって、もう四年以上前だよねー。俺が今の会社入った時だから。三人で、夢が破れた残念会ってのやってくれたんだよねぇ」


「そうそう、たしかあの時寿くんってばすごい酔っ払っちゃって、酔ったついでに泣いちゃって、あたしとなごみで慰めるの、大変だったんだからぁ」


「アハハ、あん時はマジ、センチメンタルってやつに浸ってたからなー。でもその時以来なのによく覚えてたよな、俺のアパート。で、何の用?」


「そう、それなのよ! 大変なの寿くん、なごみが行方不明かもしれなくて……」


「……立ち話もあれだし、よかったら上がって下さい」



 なごみがガラリ、と引き戸を開けて、椿に座布団を勧めた。椿はまたまたきょとんと目をみはる。



「あなた、しっかりしてるのねぇ」

「いや、まぁ」

「じゃあ遠慮なく、上がらせてもらうわ」



 そういったわけで小さくなったなごみに寿と椿、この奇妙な取り合わせが一箇所に集まるという、とても奇妙な事態に陥ってしまった。なごみが椿のために麦茶のグラスを持っていった頃には、椿は興奮してまくし立てていた。



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