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第二章 桃とパイナップル(4)

天井がいつもよりも遠いのは、夕べアルコールを摂取したからだと思った。二日酔いになるほど飲んではいないので、すぐにおかしいと思ったが。


 最初に感じた変化は、パジャマが大きくなっていたことだった。寝ぼけているわけではなく、何度腕を振ってみても袖が長過ぎて手が見えないし、つま先はパジャマの膝の少し下ぐらいまでしか来ない。


次の変化は、身体を起こしてから気付いた。ベッドがいつもよりも広い。八畳の部屋がやたらと大きい。見える景色がいつもと違うのは、目線が低いからだろうか。


 ドレッサーの鏡に見慣れない少女が映っていた。あどけない顔はどう見ても幼稚園の年長か、小学校の一年生ぐらい。ぶかぶかのなごみのパジャマを着て、きょとんとしている。


まさかと思って、頬に手を当ててみる。鏡の中の少女も、なごみの真似をして頬に手を上げる。右手を当てた、少女も上げる。右手を振った、少女も手を振る。


 悲鳴は、出なかった。ただ、口がきれいなOの字に、ぽっかり開いてしまっただけだ。





 寿とて、最近のなごみとのギクシャク感を気にしていないわけではない。まさかその原因が自分にあるとは、思ってもみなかったが。


 自分を責めない代わりに、なごみも責めない。どうしてこうなってしまったのか、なんですれ違ってしまったのか、寿なりに一生懸命、考える。


考え過ぎて仕事に集中できず、会議中もぼうっとしてしまったため、こっぴどくさよりに怒られた。怒られて過ぎて精神がぐったりと疲弊し、アパートに帰り着いた頃の彼の歩く姿は、八十過ぎの老人みたいだった。


 ブロック塀に囲まれた玄関をくぐり、階段を上ろうとして、立ち止まった。階段の下にパジャマ姿の女の子がちょこんと座って、寿を見ている。


年齢は幼稚園の年長か、小学校の一年生ぐらい。丸い瞳はくるくるとして、なかなか可愛い。アパートの子だろうか。


いや、間取りがワンルームのこのアパートは単身者用で、小さな子どもを抱えた入居者は一人もいなかったと思うが。



 寿と目が合うなり、女の子はパジャマの裾を引きずって駆け出す。よく見れば大人用なのだろう、明らかにサイズが合っていない。それにしてもどこかで見たことのあるパジャマだ。



「ひーさしーっ!!」

「わっ、な、何すんの君」



 飛びつかれてとりあえず受け止めるが、わけがわからなかった。


寿の頭を占めた疑問は大きく分けて二つだ、一つはどうしていきなり子どもに飛びつかれなきゃいけないのか、もう一つはなぜこの子が自分の名前を知っているのか。


 とりあえず、接着剤でくっつけたようにぴたっと胸に貼りついた子どもを引き剥がす。



「何なの、君!?」

「あっ、そうか……寿もわからないんだ」



 ヒサシ。子どもらしい舌ったらずな口調だが、確かに言った。呼ばれたほうはますます混乱する。



「あの、わたし、なごみ」

「……はっ!?」


「はっじゃなくてなごみよ、津幡なごみ。八年も付き合ってるあんたの彼女」

「な、何言ってるの、君!?」



 女の子の表情がさっと曇ったので寿は慌てたが、とりあえずこのとんでもない状況を整理しなければならなかった。見ず知らずの女の子に名前を呼ばれ、しかも相手はなごみだと主張する。これはどういうことなのか。


 寿の頭に考えられる結論は、ひとつしかなかった。



「どこでどうやって俺と俺の彼女の名前聞いたのかわかんないけどねぇ、大人をからかうもんじゃないよ!?」


「……」


「見たとこ迷子か、それかまさかその歳で家出!? とりあえず警察行くよ」


「いや、やめて、離してっ! わたし迷子でも家出少女でもない! 話聞いてよ、寿!!」



 子どもに馴れ馴れしく名前を呼び捨てされたくないと思ったが、そんなことで怒るのもあまりに大人気ない気がしたので、黙っていた。


少女は寿に掴まれていないほうの手でしっかりと階段の手すりを握り締め、てこでも動かまいと踏ん張る。もう限界なのか、それとも他の理由で悲しくなってしまったのか、目は涙目だ。


そんな表情は、確かにどこかなごみに似ていなくもない……



 ここで大声を出して押し問答していても、アパートの住人に変に思われるだけだ。寿は手を離した。少女は勢いで後方にはじかれ、軽く尻餅をつきそうになったが、何とか持ちこたえた。



「君、いったい何なの?」

「……」


「イタズラにしては、タチが悪過ぎない?」

「……初めてのデートで観に行ったのって、バイオハザードだったよね?」



 声は子どもらしいが言い方は大人びていて、どこかなごみのトーンに近かった。


 寿の心の底がコトリと小さな音を立てた。バイオハザードは、確かに八年前、寿となごみが初めてのデートで一緒に観た映画だった。



「寿ってば始まってから三十分も経たないうちに居眠りしちゃって、それからずっと起きなくて、ストーリー、全然覚えてないんだよね?」

「……」


「おまけにたまたまわたしたちの隣に座ってたのがチンピラみたいな怖い人で、映画が終わった後、寿にイビキがうるさいって怒ってた」

「……」


「それで寿は俺のせいで嫌な思いさせたから、埋め合わせだって。映画の後でフルーツパフェ、おごってくれたの」

「……」


「おいしかった、あの時のパフェ。桃とパイナップルがいっぱい入ってて……」

「――――なぁご?」



 おそるおそる、呼んでみた。目の前の幼い顔は丸い瞳を潤ませ、こくっと頷いた。



 寿は眩暈めまいがしそうだった。まだ、自分の身に降りかかった出来事をうまく受け止められていなかった。


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